説教題『主イエスにある誇りをもって』
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:29-34、エレミヤ書9:22-23
日時 2015年4月26日(日) 礼拝
説教者 稲葉基嗣牧師
【何を誇りとして生きているか?】
「あなたが誇りとするものとは何ですか?」と問い掛けられたら、
どのように答えるでしょうか。
ある人は、自分の能力を誇り、
またある人は、経済的な豊かさを誇るでしょう。
社会的な地位を誇る人もいれば、
自分の家族や、自分の生まれ故郷を誇る人もいます。
何を誇りとして生きているかは、人それぞれです。
【キリスト者の誇りは、キリストに結ばれていること】
しかし、キリストを信じる者は、共通の誇るべきものをもっています。
使徒パウロは、キリストを信じる者が持つべき誇りについて、
コリント教会の人々に語っています。
兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。(1コリ15:31)
パウロによれば、キリスト者の誇りとは、「主キリスト・イエスに結ばれていること」です。
このキリストに結ばれているという表現は、パウロが好んで使う表現です。
ギリシア語から直訳すると、「キリストの中に」という意味になります。
つまり、「キリストに結ばれている」とは、キリストの中へと身を投げている状態といえるでしょう。
今、自分はキリストの内にあり、キリストに包まれていて、
彼とは切っても離せない関係にある。
そう、キリストに結ばれているのです。
このことこそ、キリストを信じる者たちが誇りとすべきことなのだとパウロは語っているのです。
【死者の復活がなければ、バプテスマも無意味】
パウロはこの誇りにかけて誓って言います。
「わたしは日々死んでいる」と。
これは一体どういうことでしょうか。
パウロは福音を多くの人々に伝えるため、日々努力していました。
様々な場所へ行き、たくさんの人と出会い、イエス・キリストは救い主であると伝えました。
しかし、それは命の危険が伴うものでした。
パウロの宣教を邪魔する者、パウロの言葉を強く拒む者もいました。
旅には危険もありました。
その意味で、彼はキリストを人々に伝えるために、日々死に直面していました。
しかし、それだけのことを意味して、パウロはこのような言葉を語っているわけではありません。
パウロが、「わたしは日々死んでいる」と語る理由は、29節で彼が語っていることと関係しています。
そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。(1コリ15:29)
死者のためにバプテスマを受ける人たちについて、パウロはここで語っています。
この箇所は、「解釈の難問」といわれている箇所です。
様々な解釈がありますが、素直に読むならば、
死者のためにバプテスマを受ける、という習慣が当時あったように思えます。
既に死んだ者のために、誰かが代理となって洗礼を受けたというものです。
パウロは、この習慣について、賛成も反対もしていません。
しかし、おそらくパウロにとっても、死者のために授けるバプテスマはおかしな習慣だったことでしょう。
もちろん、当然このような習慣は、私たちの教会にもありません。
パウロは、死者のバプテスマを肯定する人々も、
死者の復活を確信しなければ、バプテスマを行わないだろう、と伝えているのです。
ですから、パウロはここで、死者のためのバプテスマについて論じているわけではありません。
キリストが復活がなければ、バプテスマも無意味であるということを、パウロは伝えているのです。
【バプテスマによって、キリストと結ばれる】
なぜ復活がなければ、バプテスマは無意味になるのでしょうか。
それは、バプテスマは、主イエスと私たちが結ばれるためにあるからです。
復活がなければ、罪の赦しも、復活も、永遠の命も、神の御国も、
私たちのものとはなりません。
復活がなければ、これらのものを私たちに与えると約束してくださったイエス様が、
死んだままである、ということになるからです。
そこには希望がありません。
復活がなければ、私たちがバプテスマを通して、主イエスと結びつく必要性を見出すことは、困難です。
しかし、実際、キリストは復活しました。
ですから、私たちはキリストに結ばれて生きる強い意味を見出すことができるのです。
パウロはバプテスマについて、ローマの教会に宛てて書いた、
ローマ信徒への手紙6:3-4でこのように語りました。
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:3-4)
パウロによれば、バプテスマを受けることは、キリストに結ばれることです。
そして、キリストに結ばれるということは、彼の死と復活にあずかることなのです。
その意味で、パウロは日々死んでいるのです。
キリストにあって、日々、罪人としての自分は死に、
神の民としての自分が生きているのです。
【キリストに結ばれている者たちが誇りとすべきこと】
パウロによれば、この事実こそが、私たちの誇りです。
バプテスマを通して、キリストに結ばれているということこそ、
私たち、キリスト者が誇りとすべきことなのです。
では、それは具体的に何を意味するのでしょうか。
私たちがキリストの死と復活にあずかること以外に、
バプテスマはどのような意味があるのでしょうか?
今日の礼拝の初めに、ペトロの第一の手紙が開かれ、読まれました。
そこには、このように記されていました。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(Ⅰペトロ2:9-10)
そうです。
私たちは「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」なのです。
これこそが、私たちが誇りとすべきことです。
しかし、洗礼を受けたら、私たちは自動的にそのようになる、と勘違いしてはいけません。
神は、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と常に語り続けてきました。
しかし、私たちは気づかなかったのです。
ですから、神は、教会に洗礼、すまわちバプテスマという式を与えてくださったのです。
バプテスマを通して、私たちは気付かされるのです。
自分が何者であるのかを。
私たちが、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」であることを。
【目を醒ましなさい!】
パウロは、復活を信じない、キリスト者の誇りを失った人々の生き方の例を挙げて、コリント教会の人々に警告をしています。
もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。(Ⅰコリ15:32)
このような人々に向かって、パウロは命令をします。
正気になって身を正しなさい。(Ⅰコリ15:34)
これは「お酒を飲んで酔った状態から、目を醒ましなさい」という意味の言葉です。
パウロは伝えているのです。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」なのだから、
キリスト者としての、誇りをしっかりと持ちなさい、と。
パウロが既にバプテスマを受けている人々に警告をしていることに、
注目する必要があります。
それは「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」
であることにバプテスマを通して気づいた後も、
決して完全な形で、そのことを自覚できるわけではないからです。
罪人としてのものの考え方や、神に背いて生きる術が、
私たちには染み付いています。
ですから、バプテスマによってキリストと結ばれることを通して、変化が始まるのです。
「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」に相応しい者へと変えられていく変化です。
私たちは、生涯を通して、少しずつ変えられていくのです。
【あなたがたは神の民である!】
さて、当時のコリント教会の人々がそうであったように、
私たちも、同じように神から宣言されています。
あなたがたは、選ばれた民です。
しかし、だからといって、選ばれたという優越感に浸るべきではありません。
神に選ばれるのに相応しい生き方が出来ないのにも関わらず、
私たちは神の恵みによって選ばれました。
あなたがたは、王の系統を引く者です。
それは、自分が王だからといって、好き勝手生きても良いという意味ではありません。
古代の世界において、王は皆、「神の子」と呼ばれていました。
しかし、今、全ての者が、神の子と呼ばれる特権を与えられています。
特別な地位に立つ者だけが、特別なのではありません。
あなたがたは神に愛される、神の子なのです。
あなたがたは、祭司です。
祭司であるということは、
この世界において、キリストの働きを共に担う者である、ということです。
隣人のためにとりなし祈ること、そして福音を伝えること。
これこそ、祭司の役割です。
あなたがたは、聖なる国民、神のものとなった民です。
他の誰のものでもありません。
罪の奴隷ではありません。
神に愛されて生きる、神の民なのです。
【喜びと感謝と誇りを持って生きる】
洗礼を通して、私たちは、私たちが何者なのかを知ることができるのです。
神に与えられたこの誇りを胸に、
私たちは今週もそれぞれの場所へと出て行きましょう。
この世界は時に「お前たちは取るに足らない人間だ」と、私たちに向かって語り掛けてきます。
「これができなければ、お前は使えない人材だ」と。
そのような声に耳を傾ける度に、私たちは自分が何者なのかを忘れてしまいます。
しかし、私たちが目指して歩む、天の御国はそのような声が響く場所ではありません。
そこは、キリストに結びついて生きることのみが求められるところです。
その他の要求に応えられるかどうかなど、関係ありません。
能力や社会的な地位では評価されることはありません。
キリストに結びつく私たちを見て、神は常に宣言してくださるのです。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である」と。
ですから私たちは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、
神のものとなった民であるという、この誇りと、神への感謝と、喜びをもって、
この世の旅路を歩んで行きましょう。
そばにいる人々が、この誇りを忘れそうになっている時、
励ましを与えようではありませんか。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である」と。
この誇りを忘れてしまった世界に、
私たちの言葉と生き方を通して宣べ伝えようではありませんか。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である」と。
主イエスにある誇りをもって生きていきましょう。