「混沌ではなく、神の国の福音を担う」

『混沌ではなく、神の国の福音を担う』

聖書 創世記1:1-2、ヨハネによる福音書1:1-5

日時 2015年6月21日(日) 礼拝

場所 日本ナザレン教団・小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【宣言「神が、天と地を造られた!」】

物事には、決まって「はじまり」があります。

私たちが誰かと出会う時、そこには、

これから築いていくであろう関係性の「はじまり」があります。

また、世の中の様々な組織には、「はじまり」がありますし、

音楽や物語といった様々な作品にも、「はじまり」があります。

そして、私たちが聖書を開き、その初めから読むとき、

聖書はその初めにおいて、

「はじまり」について語っていることに気付くでしょう。

それは、このような力強い宣言から始まりました。

 

初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)

 

新共同訳聖書の翻訳は、決して間違った訳というわけではありませんが、

この箇所は、新改訳聖書の方が良い訳だと思います。

 

初めに、神が天と地を創造した。(新改訳第三版より)

 

このふたつの訳の間にある決定的な違いは、

新改訳聖書が「神は」ではなく「神が」と訳しているところにあります。

「〈神は〉天と地を創造された」という訳は、

一般的な事柄を説明しているような訳し方だといえるでしょう。

しかし、この箇所は、一般的な事柄を説明しているのではありません。

そうではなく、ここでは、この世界に対する強い宣言がなされているのです。

「初めに、〈神が〉天と地を創造した」と。

「天と地」という表現は、

宇宙全体を指す表現として、聖書では用いられています。

ですから、聖書は、「私たちが宇宙として認識している、

この世界のすべては、神が創造したのだ」

という力強い宣言をもって始まっているのです。

それは「この世界において、神によって創造されなかったものはない」

という主張でもあります。

「神がこの世界のすべてのものを造られたのだ」と。

神がこの世界を造られたということは、

偶然によって、今の世界があることや、

他の神々によってこの世界が造られたという考えを否定します。

まさに「聖書が語る、唯一の神こそが、この世界を造られた方である」

と力強く宣言されることによって、創世記は始まるのです。

 

【地は混沌であった】

このような力強い宣言がなされた後、

続く2節において、不思議な箇所と私たちは出会います。

そこにはこのように記されています。

 

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:2)

 

神が天と地を創造したからといって、

神の視点から、この世界の創造を語ることは、私たちにはできません。

私たち人間は、神の領域である天からの視点ではなく、この地上からの視点と、

神から与えられた言葉によって、この世界について物語ります。

それは、古代のイスラエルの人々にとっても、同じことでした。

彼らには当然、この世界について知りうる知識に限界がありました。

彼らは、地球が丸い球体であることを知りませんでした。

また、星や月、そして太陽が動いているのではなく、

この地が動いていることも知りませんでした。

ですから、古代の人々の世界理解が前提となって、聖書は書かれたといえます。

古代の人々の世界理解は、2節によく表されています。

彼らは、この世界はその初めにおいて「混沌であった」と理解していました。

混沌。それは、秩序も、そして生命もない状態。

何もかもグジャグジャな、カオスな状態です。

ここで「混沌」と訳されている言葉は、

ヘブライ語で「トーフー・ヴァ・ボーフー」といいます。

ある聖書学者は、この言葉を「不協和音を奏でる」と訳しています。

「地は、不協和音を奏でていた」と。

そうです。

そこには、創世記1章で描かれている、

神が創造された世界とは正反対の現実が広がっていました。

神の創造された世界は、神によって造られたすべてのものが、

お互いに支え合い、お互いの良いところを引き出し合い、

まるで美しいハーモニーを奏でているかのように見えるものとして、

創世記では描かれています。

しかし、「神が創造される以前の世界は、不協和音を奏でていて、

神が創造された世界とは正反対の現実であった」

と、この箇所は主張しているのです。

まさに、世界は「トーフー・ヴァ・ボーフー」、混沌であったと。

このように古代イスラエルの人々は、世界を理解していたのです。

 

【捕囚を経験したイスラエルの民】

ただし、「トーフー・ヴァ・ボーフー」という言葉は、

古代イスラエルの人々の世界観に合うという理由のみで

使われた言葉ではありませんでした。

この言葉は、創世記が今私たちに与えられている形に整えられた時代の

イスラエルの民の現実に、まさにぴったりの言葉でした。

創世記は、紀元前6世紀に、今の形に整えられたと考えられています。

それは、イスラエルの民が、バビロンへ捕虜として連れて行かれた時代です。

世界史では、「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事を、イスラエルの人々は経験しました。

三度の強制移住によって、住み慣れた国から、他の国へと連れて行かれ、

彼らは、親しい友と引き離される経験をしました。

そしてこの時、イスラエルの民は、エルサレムの徹底的な破壊を経験しました。

自分たちがこれまで大切にしてきた、

神の宮、祈りの家が破壊されてしまったのです。

これは言葉にならない嘆きと悲しみを伴う経験だったことでしょう。

バビロンへの捕囚。

それは、イスラエルの人々が、

慣れ親しんできた社会を完全に喪失する経験だったのです。

彼らのその現実は、まさに「混沌」と呼べるものであり、

「不協和音」が鳴り響いていました。

言葉にならぬ叫び声を上げ、

「この地は、まさにトーフー・ヴァ・ボーフー」と嘆き、

イスラルの民は、自分たちの故郷、イスラエルを思ったことでしょう。

彼らは、バビロン捕囚という経験を通して、

行き場のない怒り、戸惑い、激動を覚え、そして深い喪失感を抱えました。

このような現実の中にあるイスラエルの民のために、

これまで伝承として語られてきた創造物語が、文字として書き記され、

イスラエルの共同体の中で読まれたのです。

 

【神の霊が水の上を覆うように舞っていた】

そのため、2節の言葉は、イスラエルの民の悲しみに寄り添う言葉でした。

そして、それと共に、彼らに希望を与えるものだったといえるでしょう。

2節の後半に、このような言葉があるからです。

 

神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:2)

 

この箇所を、フランシスコ会訳聖書は、

「神の霊が水の上を覆うように舞っていた」と訳しています。

「覆うように舞っている」と訳されている動詞は、

「鷲が雛鳥を飛ばせようとして、その巣の上を飛んでいる様子」

を表す言葉です。

ですからこの箇所は、親が子に接するように、

神はこの世界を愛し、慈しみ、関わりを持ってくださることを

伝えているのです。

そうです。

神はこの世界対して、親密に触れ合ってくださるのです。

創世記を読むとき、驚くべきことは、

神が初めに関わりを持ったのは、

神の目から見て「良い」といえる世界ではなかった、ということです。

神が初めに関わりをもったのは、混沌であったこの世界です。

秩序も、そして生命もない状態であったこの世界に、

神は関わりをもち、創造の業を行ってくださったのです。

神は「光あれ」と語り、混沌であったこの世界に光を照らしてくださいました。

秩序のないところに、秩序を与え、

そして、生命のないところに、生命を与えてくださいました。

ですから、2節の言葉と出会った時、

イスラエルの人々は、慰めと希望を与えられたことでしょう。

混沌であるこの地に、関わり続けてくださった神が、私たちの神なのだ。

この世界を造られた神が、

今のこの混沌と呼べる現実に関わりをもってくださらないわけがない。

「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)のだから、と。

 

【現代における「混沌」】

さて、「混沌」と呼べる状況は、創世記がまとめられた時代だけでなく、

今の時代にも、そして私たちの身の回りにも、数多く存在します。

それは、毎日のように私たちのもとに届くニュースを見れば明らかです。

この世界は、倫理的、経済的、そして政治的な混沌の中にあります。

差別は絶えず起こり、人々が憎しみ合い、争いが止むことがありません。

「安定」や「富の繁栄」が過度に強調され、

「今」という時の幸せのみが求められています。

それは、時に、弱い者や貧しい者たちを踏みにじり、

無視するような形でなされています。

また、時の権力者によって、法律の解釈がねじ曲げられ、

社会的正義が正しく機能しない現実があります。

まさに、私たち人間こそが「混沌の担い手」となり、

この地を、この世界を混沌へと陥れている現実があると、嘆かざるを得ません。

多くの人が、積極的に「混沌」を望んでいないにも関わらず、

知らないふり、見ないふり、無関心、諦めを覚えることによって、

協力し合って「混沌」を担っています。

それは、他人ごとではなく、私たち誰もが抱える問題なのです。

「あぁ、トーフー・ヴァ・ボーフー」と、

嘆かざるをえない現実が私たちの目の前に広がっているのです。

 

【初めに、神が創造する】

では、私たちはそのような「混沌」である世界の現実を、

諦めをもって受け入れて、日々の生活を送らなければならないのでしょうか。

神は、創世記を通して語っています。

そうではない、と。

このような荒れ果てた世界に、

神は風を起こし続けていると聖書は語っています。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」(創世記1:2、新共同訳)、

「神の霊が、水の上を覆うように舞っていた」(創世記1:2、フランシスコ会訳)と。

そうです、神は混沌の中でも、働かれるのです。

この世界が、人間の罪によって、混沌に引き戻されているからといって、

神はこの世界を諦め、見捨てることはされませんでした。

神は決して諦めず、何度も、何度も、私たちに語り掛けてくださいました。

何度、私たち人間が、神に背き、罪を犯し続けようとも、

神は諦めませんでした。

諦めなかったからこそ、混沌である現実に、真実の光を与えるために、

罪の支配から私たち人間を解き放つために、

2000年前、イエス様が私たちのもとに送られました。

そして、イエス・キリストを通して、

罪の赦しを得させ、復活の希望を与えてくださいました。

イエス様を通して、神の国の福音に生きるということがどういうことなのかを、

神は示してくださいました。

まさに、罪や悪、そして混沌という、自らの力では解決できない問題を抱える

私たち人間に、神が関わりをもってくださっているのです。

それは、私たちの側からお願いしたからではありませんでした。

神が、私たちを愛し、憐れんでくださったからです。

ですから、「初めに、神が」、私たちに働きかけられたのです。

 

【私たちは、神の国の福音の担い手】

そして今や、神は、私たちに向かってこう宣言されるのです。

 

時は満ち、神の国は近づいた。(マルコ1:15)

 

これは、マルコ福音書に記されているイエス様の言葉です。

私たちが「トーフー・ヴァ・ボーフー」と言って嘆く現実に、

「神の国が近づいた」と、イエス様は宣言されているのです。

神の国とは、神の愛と憐れみ、そして正義が完全な形で実現する場所です。

それは、「混沌」とは対極の状態です。

「神の国が近づいた」ということは、

神の国が将来、完全な形でやって来ることを予感させます。

ということは、神の国が完全な形で来る時、

トーフー・ヴァ・ボーフー、混沌である現実が、やがて過ぎ去ることを意味します。

今はまだ完全な形では実現していないが、

イエス様が再び来る時、混沌は過ぎ去り、神の国が完全な形で訪れるのです。

「初めに、神が」混沌であるこの地に、創造の業をもたらしたように、

混沌である私たちの現実に、神が働きかけてくださるという希望を、

私たちは抱いているのです。

神の国の福音が与えられている私たちは、「混沌の担い手」ではなく、

キリストにあって、「神の国の福音の担い手」とされています。

ですから、キリストの福音を携えて、私たちはこの世へと出て行きましょう。

言葉においても、行いにおいても、そして思いにおいても、

キリストの福音が、あなたがたの心の隅々まで行きわたしますように。

「神の国」が約束する現実は、

福音を携えて生きる私たちを通して広がっていくのですから。