「主の招く声が聞こえてくる」

『主の招く声が聞こえてくる』

聖書 創世記1:3-31、ヘブライ人への手紙1:1-4

日時 2015年7月5日(日) 礼拝

場所 日本ナザレン教団・小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【「神の言葉を聞く存在」としての招き】

創世記1章は、神の創造のわざを高らかに賛美しています。

そこには、神が6日間かけて、この世界を造られたことが記されています。

創世記1章は、この6日間の創造について語る際、

すべての日を、このような言葉から始めています。

 

神は言われた。(1:3, 6, 9, 14, 20, 24)

 

創世記1章の天地創造の物語は、

すべての日を「神が語られた」ことから始めています。

そして、「神が言われた」という言葉に続くのは、

「神が語りかけると、そのようになった」ということです。

このことが、創世記1章では繰り返し語られています。

神が「光あれ」と語り掛けると、光が存在するようになり、

「地は草を芽生えさせよ」と語り掛けると、草花が地に広がる。

また、「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」

と語ると、その通りになりました。

このような神の語り掛けによって、

それまで存在していなかったものが、存在するようになったのです。

まさに「神の言葉がすべてのものの存在の根拠である」と

創世記1章は宣言しています。

ということは、神によって造られたすべてのものは、

「神の言葉を聞く存在である」といえるでしょう。

私たち人間も同様に、神の言葉によって創造されました。

神から語り掛けられる存在として、私たちは造られたのです。

創世記1章は、「あなたは神の言葉を聞く存在である」と、私たちに語り掛け、

私たちを「神の言葉を聞き続ける歩み」へと招いているのです。

 

【「神の言葉に応答する存在」としての招き】

このように、私たち人間を含めて、すべて神によって造られたものは、

神の言葉によって存在し、神の言葉を聞く存在として存在しています。

それと同時に、神の言葉を聞いて、

その言葉に応答する存在として、世界のすべてのものは存在しています。

創世記1章において、神に造られたすべてのものは、

その存在をもって、神に応答しています。

神の言葉によって、存在するようになり、

神が意図したことを、この世界において行うことを通して、

神に造られたすべてのものは、神の言葉に応答しているのです。

そして、神はすべての生き物に「産めよ、増えよ」と祝福の言葉を語りました。

この世界に増え広がっていくことは、神が望んだことでした。

では私たち人間は、神の言葉に

どのように応答することが求められているのでしょうか。

当然、私たち人間も、存在をもって応答するように求められています。

それとともに、私たちには言葉が与えられています。

ですから、私たち人間は、言葉と、行ないによって、

それはまさに生き方によって、神に応答していく存在として造られたのです。

27節から28節には、人間の創造について、このように記されています。

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27-28)

 

聖書は、私たち人間は「神のかたち」に似せて造られたと証言しています。

そして、「神のかたち」に似せて造られた私たちに神が与えた命令は、

「支配せよ」「従わせよ」という命令でした。

これは、私たち人間のみに与えられた、特別な命令です。

しかし、勘違いをしてはいけません。

神は決して、思いの赴くまま、好き勝手に、暴君のように振る舞って、

私たちがこの世界を支配しても良いという意味で、

この言葉を語ったのではありません。

ここで使われている「支配せよ」「従わせよ」という言葉は、

動物を世話し、面倒を見て、養う、羊飼いの姿が背景にあります。

神によって造られたこの世界と、

そこに住むすべての造られたものたちに対して、

神はこうあって欲しい、という意図をもっています。

ですから、「支配せよ」「従わせよ」と人間に向かって語ることによって、

神は、この世界に神の意図、神の意志を伝える存在として、

私たち人間を選び、任命されたのです。

ですから、私たちは神の言葉を聞き続ける必要があるのです。

神の意図を知るために。

そして何より、私たちが神の言葉を聞く存在として造られたため、

私たちは神の言葉を聞き続ける必要があるのです。

私たちがこのような存在として造られたため、

神は私たちに向かって、常に語り続けてくださっているのです。

 

【神は様々な方法で愛を伝える】

神が私たちに語り続けているお方であることを、

ヘブライ人への手紙はこのように証言しています。

 

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:1-2)

 

ヘブライ書の1:1-4は、新約聖書の中でも特に優れた文体で書かれています。

そして、1ー4節をギリシア語で読むと、

ひとつの文になっていることがわかります。

とても長い文ですが、その中心となっているのは、

「神は私たちに語った」という言葉です。

「神は私たちに語った」というこの言葉を軸に、

著者は、実に見事に、聖書の描く救いの歴史をコンパクトにまとめています。

著者は旧約聖書の時代について語ることによって、

神がどのような御方なのかを示すことから始めます。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、

また多くのしかたで先祖に語られた」と。

時に、直接語り掛け、

時に、預言者を通して語り掛け、

時に、天使や幻、夢によって啓示を与え、

また時に、動物の犠牲という象徴を通して、神は人間に語り掛けました。

なぜ、神はこのような様々な方法で、人間に語る必要があったのでしょうか。

その理由は、言葉にしてみると非常にシンプルなものです。

神が私たち人間を愛しているから。

私たち人間を愛しているから、実に様々な方法を用いて、神は人々に語り掛けたのです。

私たちも、愛する人には様々な方法で愛を伝えようとすることでしょう。

この口で「愛してるよ」と語るだけでは満足できません。

表現を変えてみたり、贈り物をしたり、時間を割いたり、

どこか素敵な場所へ連れて行ったりと、

実に様々な方法で、私たちは愛する人に、愛する思いを伝えようとします。

今の自分に出来る限りの方法で、精一杯、伝えようと願うことでしょう。

神は私たちと同じように、いや私たち以上に、

様々な方法で語り掛け、愛を伝える方です。

神は私たちに対する愛に溢れる方です。

ですから、神は様々な方法で私たちに語り掛けたのです。

 

【「聞かない」という罪】

しかし「神が愛なる方である」ということのみが、理由ではありません。

神がこれほどまでに多くの方法で語られたのは、

私たち人間が深刻な問題を抱えていたからです。

それは、私たちが神の言葉を聞かないからです。

神の言葉を聞く存在として、造られたにも関わらず、

私たちが、神の言葉を、神の言葉として聞かないから、神は語り続けたのです。

「聞かない」ということは、なぜ深刻な問題なのでしょうか。

「聞かない」ということ。

それは、相手の存在を無視すること、否定することです。

語りかけてくる相手の言葉を聞かないことによって、

私たちはその人の人格を否定することが出来てしまうのです。

「聞かない」ことは、相手の存在をむなしくする宣言なのです。

「聞かない」ということによって、

私たちは目の前にいる相手を否定しているのです。

ですから、神の言葉を「聞かない」ということは、

神との交わりを拒否する姿といえるでしょう。

神の言葉を聞く存在として造られた、私たち人間が抱える深刻な問題。

それは、神の言葉を「聞かない」という罪なのです。

しかし、そんな私たち人間を見て、

神は交わりを諦めることはありませんでした。

神は、それでも愛そうと決断し続けてくださったのです。

それでも神は私たち人間を愛し、私たちと関わりを持とうとし続けたのです。

ですから、神は、様々な方法で語り続けたのです。

神の語り掛ける言葉のその背後には、私たちに対する神の愛があるのです。

たとえ、それが厳しい裁きを含む言葉だったとしても、

その根底には、神の愛が豊かに溢れているのです。

しかし、旧約聖書に記されている歴史が示しているのは、

神がどれほど語り掛けても、神の言葉を聞かず、

他のものにばかり耳を傾け、心を奪われ、罪を犯し続ける人間の姿でした。

神がいくら語り掛けても、

人々に真の救いをもたらすことができなかったのです。

私たちはこのような現実に絶望しなければならないのでしょうか。

そんなことは決してありません。

絶望的な状況の中に、確かに希望の光があります。

「光あれ」とこの世界に語りかけた神は、救いを与えてくださいました。

 

【主イエスが遣わされた】

では、救いはどのような形で私たちのもとに来たのでしょうか。

ヘブライ書は、このように語ります。

 

(神は、)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:2)

 

御子とは、イエス様のことです。

神は、イエス様によって語ることで、真の救いを私たちにもたらした、

と著者は語っているのです。

ここで、「この終わりの時代」という表現があります。

これはイエス様がこの世に来られた後の時代を示す表現です。

初代教会の人々の確信が、この表現には込められています。

イエス様が世に来られたことによって、

世界の転換期が始まったという確信です。

イエス・キリストこそ、私たちの救いであると告白するすべての人々にとって、

イエス様が来られたその時が、時代の転換点となったのです。

続けて著者は、「御子によってわたしたちに語られました」と語っています。

これは、イエス様こそ、神が語りかける声であるということです。

では、私たちはイエス様を通して、どのような声を聞くのでしょうか。

ヘブライ書は語ります。

イエス様を見つめ続けることによって、

私たちは、神の創造のわざを思い起こし、

神によって造られたから存在であることに気づかされます。

また、イエス様の地上での生涯、そして十字架と復活の場面を思い起こすとき、

神が私たちに救いをもたらされたという宣言を聞くことができる。

神の言葉を聞かない私たちのために、

イエス様は十字架にかかり、私たちの罪を赦し、

私たちと神との交わりを回復してくださったという宣言を、

イエス様を通して聞くのです。

そして、イエス様は天に昇ったのです。

私たちの目を神へと向けるために。

私たちがどこへ向かって歩んでいるかを示すために。

そう、私たちが天の御国へと向かう旅人であることを思い起こさせるために。

ヘブライ書の著者は語るのです。

「この方を見つめ続けなさい。

主イエスを見つめ続けることを通して、神の語り掛ける声を聞きなさい」と。

 

【主の招く声が聞こえてくる】

このようにして、私たちは神の言葉を聞く存在として造られ、

その言葉に応答する存在として、招かれています。

そのため、神の声を聞くことは、

私たちの生活のすべてと結びついているといえるでしょう。

眠ることも、目を覚ますことも。

食べるときにも、飲むときにも、

友人関係も、両親や兄弟との関係も、

バイトも、大学での研究も。日々の仕事も。

あなたがたがこれから関わるどんな些細なことも。

神の言葉と関係のないことなどないのです。

神は、私たち一人一人に招いておられるのです。

「あなたがた自身の関わるすべてのことを、

福音の光のもとに照らし出しなさい」と。

「どのような時も、どのような状況の中にあっても、

神の言葉に聞き従うように」と

神は絶えず私たちに語り掛けられています。

私たちが神の声を聞くのは、礼拝のときだけではありません。

一人で聖書を読む時だけでもありません。

生きる限り、私たちは神の言葉を聴いて生きる存在です。

そのような存在として私たちは造られました。

ですから、きょう、私たちは神の言葉に聞き従うように招かれているのです。

主の招く声が、私たちのもとに、日々聞こえてくるのですから。

 

【神の言葉に聴き従う群れ】

しかし、神の言葉を聞くのはいいけれども、

その言葉に従うことが難しいこともあるでしょう。

神の声を聞くよりも、自分の思い通りに生きる方が遥かに楽なのですから。

神の言葉を無視して、自分に都合の良い声に耳を傾ける方が、

自分にとって良い結果をもたらすかのように感じるのですから。

そのため、神の言葉に聞き従い続けることは、とても難しいことです。

様々な困難や苦しみが伴うことでしょう。

しかし、私たちにとっての励ましは、

「神の言葉に聞き従う」という歩みを一人でするわけではないことです。

これは、決して孤独な歩みではないのです。

なぜなら、私たちは「男と女に創造された」と記されているからです。

これは決して、夫婦や、愛し合うふたりの話のみを

しているわけではありません。

神がこの世界を造られた時、神の前で神の言葉を聞いたのは、

たったひとりの人間ではありませんでした。

お互いがお互いの助け手となるように、神は、「助け手」を造られたのです。

私たち人間は、お互いがお互いに対しての助け手になることができます。

それは、夫婦の間でだけのみ築かれる関係ではありません。

家族の間でのみ、築かれる関係ではありません。

聖書が最も大切な関係として語るのは、

家族や親類といった、血のつながりではありません。

突き詰めれば他人同士。

しかし、キリストによって、兄弟姉妹とされている関係を、

聖書は、私たちが大切にすべき関係として描いているのです。

そうです。

教会の交わりこそが、まさに、お互いがお互いの助け手となるように、

神が望み、喜ばれる交わりなのです。

ですから、この事実を受取る時、このように言うことができるでしょう。

神の言葉を聞き続ける「私」がいると共に、

神の言葉を共に聞き続ける「私たち」という信仰共同体が、

私たちには与えられている、と。

それは、私たちが教会と呼ぶ群れです。

神に語り掛け、招かれた群れです。

この信仰者の群れでの励まし合いによって、共に神の言葉を私たちは聞き続けるのです。

この世界が私たちに勧めてくる価値観と、神の言葉が求める生き方の間に、

私たちは常に立たされています。

その間で私たちは葛藤します。

悩みます。

悩みながら、共に祈りながら、

神が私たちに語り掛けた言葉を、私たちは選び取るように招かれています。

ですから、互いに励まし合いながら、神の言葉に聞き従い続けていきましょう。

主の招く声が、今日も聞こえてくるのですから。