「神が極めて良いと言われたのだから」 

 

『神が極めて良いと言われたのだから』

聖書 創世記1:26-31、マルコによる福音書7:14-23

日時 2015年 7月 12日(日) 礼拝

場所 日本ナザレン教団・小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【多くの言葉に囲まれて生きている私たち】

毎日のように、様々な言葉が、私たちに向かって語られています。

友人や家族の言葉。

それは口から語られる言葉だけでなく、

メールや書き置きなどで、文字によって伝えられたり、

態度や仕草を通して伝えられたりします。

また、テレビから流れる声、書籍、新聞やインターネットなどを通して、

様々な言葉が、情報として雪崩れ込んできます。

街へと出て行くと、そこでは人々の話し声や選挙演説などが聞こえ、

たくさんの広告が目につきます。

このように、周囲にある様々な言葉に耳を傾けてみると、

私たちは、実に多くの言葉に囲まれて生きていることに気付くでしょう。

 

【この世が語り掛ける言葉】

それでは、毎日のように私たちのもとに語りかけてくるこれらの言葉は、

私たちに何を語りかけているのでしょうか。

私たち誰もが、それぞれに与えられた両親は、

私たちに、愛に満ちた言葉を語りかけたことでしょう。

たとえ、それが厳しい言葉であったとしても、

子どもたちの安全や将来のことを精一杯考えて、

親は、愛をもって語り掛けます。

しかし、親というものも、ひとりの人間です。

人間的な弱さを抱えながら、迷い、葛藤しながら生きています。

ですから、極端な言葉で子どもたちを傷つけることもあります。

日々のストレスや、怒りなどに支配されて、

決して良いとは言えない言葉を発して、後悔することもあります。

親がそうであるならば、

まして私たちの兄弟や友人たち、職場の人々などはなおさらです。

優しさに溢れる言葉を掛けられることもあれば、

反対に、「何でそんなこと言えるんだ」と思えるほど、

酷い言葉を浴びせられることもあります。

また、マスメディアや周囲の人々の言葉を通して、

私たちは様々な価値観や基準と出会います。

親が提供する価値観。

この世が「これこそ私たち人間にとって最良の生き方だ」と提唱する、

価値基準や、人生のモデル。

国家が望む「理想の国民像」など。

それらが言葉となって、私たちのもとに届くのです。

そして、そのような言葉は、私たちに語りかけてきます。

この世が語る価値観に合わない生き方をする者は、良い人間ではない。

この世で推奨される「人生のモデル」とは違う歩みをするのは、

私たちにとっての幸せではない、と。

 

【見よ、それは極めて良かった】

しかし、この世界を造られた神は、

このような言葉とは正反対の言葉を、私たちに語ります。

創世記1:31にこのように記されています。

 

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記1:31)

 

創世記1章は、神がこの世界を造られたということを

高らかに宣言しています。

この章において、神の行った創造のわざは、

6日間に分けて行われたと証言されています。

神がこの世界を創造されたとき、

神は、その創造のわざを、

一気に駆け抜けるように行ったわけではありませんでした。

神は要所要所で立ち止まり、造られたものを見つめています。

その様子について、このように記されています。

 

神はこれを見て、良しとされた。(1:10, 12, 18, 21, 25)

 

創世記1章において、この言葉は繰り返し語られています。

それは、神が造られたものの良さを確認し、味わっているかのようです。

私たちは何かを作るとき、完成を思い描いて、それらのものを作成します。

神も同じように、この世界の完成を思い描きながら、

完成を待ち望みながら、喜びに溢れて、この世界を造られたのです。

神が思い描いた完成とは、私たち人間が暮らす世界です。

私たち人間が、神が造った世界の中で喜んで生きる、

その姿を思い描きながら、神はこの世界を造られました。

そして何度も何度も立ち止まり、人間を造る前に造ったすべてのもの見て、

それらを「良い」と宣言されたのです。

ですから、神が造られたこの世界は、

神がその細部まで「良い」と宣言された場所です。

心から「良い」と宣言することのできる世界を用意した後、

神は、最後に人間を造られました。

そして、人間を含めて、この世界全体に対して、宣言されたのです。

「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と。

 

【「良い」という宣言が、私たちに解放をもたらす】

この宣言は、この世が私たちに語り掛けてくる言葉と

真っ向から対立するものです。

それは、この世が提唱する価値観や人生のモデルを、

私たちの絶対的な基準とするのはおかしいという主張です。

この世は私たちに語りかけてきます。

ある基準をクリアしていれば、「良い」と評価され、

ある基準を満たしていなければ、「悪い」と評価される。

役に立てば良い存在で、役に立たなければ悪い存在。

能力のある人間ならば良い存在で、

能力のない人間は悪い存在である、という具合に。

それに対して、聖書は強く宣言します。

「そうではない。

神が造られた人間すべてが特別な存在なのだ」と。

人間は、人間的な価値基準に基づいて人を評価するかもしれませんが、

神は、そのような基準で人間の価値を定める方ではありません。

神は、すべての人々に言われます。

「あなたは極めて良い」と。

神が造ったこの世界に向かって、愛をもって語り掛けます。

「あなたは極めて良い」と。

この言葉は、私たちに様々な意味で解放をもたらす言葉です。

神は「極めて良い」と語ることによって、

この世が私たちに勧めてくる価値観から私たちを解放してくださいます。

それは、「こうならなければならない」

「誰かの期待に応えなければならない」といった思いからの解放です。

「あなたは極めて良い」と言ってくださる方は、

私たちのありのままの姿を受け止めてくださる方です。

神は、「そのままのあなたで良い」

「そのままのあなたが極めて良い存在なんだ」

と私たちに語り掛けてくださるのです。

また、この言葉は、人と自分を比較する必要はないという宣言でもあります。

「極めて良い」という宣言は、すべての人々に向かって語られているからです。

そのため、他人と自分を比較して、それによって自分に価値を見出したり、

他人を貶めて、

自分の評価を高めたりするような行動をとる必要もありません。

誰もが、神の目には等しく貴い存在として造られています。

ですから私たちは、ありのままの自分を

「良い」存在として受け止めることができます。

そして、目の前にいる相手のありのままを

「良い」存在として受け止めることができるのです。

神が「極めて良い」と語られたのですから。

 

【「極めて良い」を否定する人間の現実】

さて、ここでひとつの問いが浮かび上がってくることでしょう。

この世界は「極めて良い」ものとして、神によって造られたのにも関わらず、

なぜ「極めて良い」とは

決して言い切れない状態になってしまったのだろうか、と。

いや、そもそも1:31の言葉は、この問いを含んでいる言葉といえます。

「見よ、それは極めて良かった」という言葉を通して、

私たちは、この世界が神によって「極めて良い」ものとして

造られたことを知ることができます。

しかし、それを思い描けば描くほど、今のこの世界のあり方が、

神が造られた世界の最初の状態から、

どれほどかけ離れてしまっているのかに気付かされます。

神が、造られた世界において、

被造物はお互いに助け合い、お互いの良い所を引き出し合っていました。

しかし、今のこの世界のあり方はどうでしょうか。

残念ながら、人々は互いに傷つけ合い、

争い合い、足を引っ張り合うことのが多く、

良い所を引き出し合うよりは、

相手の欠点を見つけては批判し、自分の正当性を証明しようとします。

神は、私たち人間に向かって「あなたは良い」と語られました。

しかし、どうやら私たちは、その言葉を真剣に受け止めていないようです。

私たち人間は、特別な存在として造られたのにも関わらず、

悲しいことに、更に特別な存在になろうと努力しています。

神を神と認めず、まるで自分が神であるかのように振る舞っています。

これは決して、今の時代に特有の問題ではありません。

人間の歴史において、何度も何度も繰り返されてきました。

神の言葉を真剣に受け止めず、神が「良い」と宣言されたものを、

生き方を通して、自らの全存在をかけて否定する。

まさに私たち人間こそが、

「極めて良い」ものを破壊させる原因となっているのです。

 

【人間が抱え続けている「罪」】

私たちが抱えるこの問題について、イエス様はこのように言われました。

 

「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20-23)

 

人から出て来て、人を汚すもの。

聖書はこれを「罪」と呼んでいます。

罪とは、神に背いて生きることです。

神が造られた「良い」ものをことごとく破壊し、否定することです。

神から「良い」と宣言されることを拒否し、

自らが良いと思うものを選び、良し悪しを決めていく。

まるで自分自身が神であるかのように振る舞う、

このような人間の姿を、イエス様はここで鋭く指摘しているのです。

ですから、神が造られた「極めて良い」状態から、

なぜこの世界はかけ離れている状態にあるのか?という問いに対して、

イエス様はこのように答えるでしょう。

それは、あなたの周囲の環境が悪かったからではなく、

この世界が本当は元々悪かったからでもない。

あなたが罪を抱えて生きているからだ、と。

他ならぬ私たち人間が、「極めて良い」状態からかけ離れてしまったため、

この世界は「極めて良い」とは決して言えない状態にあるのです。

これが、聖書全体が主張していることです。

 

【人間のふたつの側面】

その意味で私たち人間は、「極めて良い」存在であるとともに、

「罪」を抱えながら生きているという、

ふたつの側面を持っていると言えるでしょう。

創世記1:27によれば、「極めて良い」存在として造られた私たち人間は、

「神の像に似せて造られた」存在なのです。

しかし、私たち人間が「罪」を抱えながら生きているため、

この罪によって、私たちに与えられている

「神の像」は歪められているのです。

そのため、神が本来、人間をどのような者として造られたかを、

私たち人間は忘れてしまったのです。

言ってみれば、それは「記憶喪失」です。

神によって「あなたは極めて良い」と宣言されるに相応しい存在であることを、

私たちは、忘れてしまっているのです。

そのため私たちは、自分が何者なのかを知るために、生涯をかけて努力します。

この世は様々な価値基準や人生のモデル、人間像を私たちに提供してきます。

しかし、この世が勧める人間の像によっては、

本来の「神の像」を回復することはできないのです。

 

【イエス・キリストを通して「神の像」を知る】

イエス様が私たちのもとに来られたのは、

私たちのもつ「神の像」を回復させるためでした。

私たちの罪を赦し、もう罪によって苦しむ必要はないと宣言するため、

神は、イエス様を私たちのもとに送ってくださいました。

罪によって歪んでしまった私たちの「神の像」を回復させ、

私たちが神によって造られた本来の人間の姿を取り戻し、

人間らしく生きるために。

そして、私たちが、何者なのかを思い出させるために、

イエス様は来られたのです。

そのため、私たちはイエス様を通して、神の声を聞くことができるのです。

「あなたは極めて良い」と私たちに語り続けられる、神の声を。

そして、イエス様こそ「神の像」の模範なのです。

私たちは、イエス様の歩みを見つめることを通して、

「神の像」がどのようなものなのかを知ることができるのです。

そう、私たちが何者なのかを知ることができるのです。

 

【神の言葉を携えて出て行こう】

このように、私たちは神の言葉と、神の言葉であるイエス様を通して、

自分が何者なのかを知ることができます。

神が語らなければ、私たちは、

自分自身が何者なのかを知ることができません。

しかし、今や私たちは、神の言葉を聞くことによって、

自分自身が何者なのかを知っています。

神は言われます。

「あなたは極めて良い」と。

神は、この言葉をすべての人々に、

聖書を通して、教会を通して、

そして私たち自身を通して、語り掛けておられます。

それは「あなたは極めて良い」という宣言を受け取った、

私たち自身の生き方を通してなされる、神の宣言です。

ですから、「極めて良い」と語られる、神のこの宣言を、

私たちは、喜びと感謝をもって受け入れ、携えて歩んで行きましょう。

私たち自身が神の言葉を伝える存在となるのです。

「あなたは極めて良い」と人々に宣言し続ける存在になるようにと、

私たちは招かれているのです。

この世は「悪い」という評価を、あまりにも簡単に人に下します。

だからこそ、私たちは語り伝える必要があるのです。

失望する必要はない。

「あなたは極めて良い」と、

神が、私たちにいつも語り掛けてくださるのだから、と。

このように宣言してくださる神への喜びと感謝をもって、

私たちは今週もこの場所から出て行きましょう。

神の恵みと平和があなたがたと共に豊かにありますように。