『愛と赦しが響き合う共同体』
聖書 創世記4:13-26、マタイによる福音書18:21-22
日時 2015年 9月 6日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)
説教者 稲葉基嗣牧師
【神の御心から外れていく人間の姿】
創世記の著者は、カインによる弟アベルの殺害という悲しい事件を記した後、
カインとその子孫たちの系図を記しています。
カインの系図を記す際に、創世記の著者が注目したのは、
アダムから数えて七代目にあたるレメクという人物でした。
聖書は多くのことを語っていないため、
私たちは、レメクについて、十分な情報を得ることはできません。
私たちに知ることが許されているのは、
レメクの家族の構成と、彼が残したひとつの歌です。
レメクの家族については、19~22節に記されています。
そこからわかることは、彼にはアダとツィラという2人の妻がいること、
そして、ヤバル、ユバル、トバル・カインという3人の息子たちと、
ナアマという娘がいることです。
見過ごしてはいけないのは、レメクに2人の妻がいることです。
創世記はここまで、一人の男性と一人の女性が結婚するという、
婚姻関係が保たれてきたことを報告してきました。
ここで突如として訪れるのが、婚姻関係の乱れです。
レメクが2人の女性を妻にしていることについて、
創世記は直接は、良いとも、悪いとも評価していません。
しかし、創世記2章にはこのように記されていました。
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:24)
この言葉を、レメクの結婚に照らして考えるならば、
彼の結婚は、神が喜ばれるものでなかったのは明らかでしょう。
レメクに2人の妻がいたと報告することを通して、
神が望み、神が喜ばれる姿から、
人間が少しずつ、少しずつ、逸れていく現実が描かれているのです。
【レメクは自らの力を誇り、歌う】
続く23-24節では、そんなレメクの歌った歌が記されています。
レメクの歌は、彼の妻たちに語り掛けるようにして始まりました。
アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し打ち傷の報いに若者を殺す。(創世記4:23)
このレメクの歌は、一見、自分を傷つけようとする者たちに対する、
威嚇の言葉のように感じます。
しかし、彼はこの歌を妻たちに向かって歌っています。
そのため、この歌は「威嚇の歌」というわけではないでしょう。
ここで「殺す」と訳されている言葉は、
「殺した」と過去の行為として訳す方が自然です。
「わたしは傷の報いに男を殺した
打ち傷の報いに若者を殺した」と。
ということは、レメクはこの歌を通して
「人を殺した」という行為を誇っているのでしょう。
彼がこのように歌った原因は、彼が傷つけられたからです。
しかし、ここで語られている「傷」「打ち傷」という言葉は、
聖書学者によれば、比較的軽い怪我のようです。
ということは、軽い傷を受けたその報復として、
レメクはある男性を殺した、ということがわかります。
レメクは人を殺してしまったことを悔やむどころか、
殺したことを誇るかのように、妻たちの前で歌っているのです。
まるで、自らの力を誇るかのように。
【復讐や報復の原理に支配されやすい私たち】
レメクの行いについて読んだ時、彼の行いは「悪い」と断言する一方で、
私たち自身、レメクのように人を殺すことまではしないにしても、
似たようなことをしている現実があります。
自分を傷つけた相手が困っているときに、助けない。
その相手についての悪い噂を言いふらす。
やられたことをそのままやり返す。いや、倍返しにする。
このようにして、いつの間にか、復讐や報復の思いに支配され、
それを楽しみ、どこかで悪いことだと思いながらも、
自分を正当化して動いている自分がいるのです。
それは私たちだけでなく、何時の時代の人々にとっても同じでした。
そのため、神がイスラエルに与えた律法の中でも、
復讐や報復を防ぐために、このような言葉が記されているのです。
レビ記24:19-20に、このような言葉があります。
人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。(レビ記24:19-20)
この戒めは、他人から受けた被害以上の被害を、
その相手に与えることを禁止するための戒めです。
神は、このような戒めを、イスラエルの法として与えることによって、
イスラエルの民が、復讐や報復の原理に立って
生きることを防ごうとされたのです。
この戒めの存在は、同じ被害を与えないと、お互いに赦し合えない現実を、
私たち人間が抱えていることを表していると言うこともできるでしょう。
【レメクの「復讐の歌」】
実際、このような法律がない時代に生きたレメクは、
軽い傷に対して、相手を殺すという、必要以上の報復をしてしまいました。
その上、レメクは復讐についてこう歌っています。
カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍。(創世記4:24)
レメクのこの歌は「復讐の歌」として知られています。
この歌の背景には、カインに対して語られた神の言葉があります。
弟アベルを殺してしまったカインは、
自分が他の人から殺されることを恐れて、神に訴え出ました。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」(創世記4:13-14)
神は、カインが犯した過ちをなかったことにはしませんでしたが、
カインにある「しるし」を与えました。
神はこう言われました。
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」(創世記4:15)
自分が犯してしまった罪の結果に崩れ落ちるカインに対して、
神はカインを支えるしるしとして、この言葉を語りました。
それは、カインが他の人々から受けた危害に対して、
神ご自身が報復するというものでした。
この言葉は、カインの子孫たちにも語り伝えられたのでしょう。
しかし、いつしか、この言葉の意味は
間違って受け取られるようになってしまったのでしょう。
レメクは、カインに語られた神の言葉を、
自分の復讐を自分が行っても良いという許可を与える言葉として
受け取ってしまったのです。
そして、レメクは歌います。
カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍。(創世記4:24)
自分のためには、77倍の復讐が許されている。
レメクにとって、復讐はもはや抑えきれないものとなっているのです。
彼が最初に受けた傷は、軽い傷だったかもしれません。
しかし、復讐の思いが少しずつ、少しずつ彼の心で育ち、
やがて抑え切れなくなってしまったのです。
【赦しによって復讐を断ち切りなさい】
イエス様は、レメクのこの言葉を意識して、このように語りました。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。…」(マタイ18:22)
この言葉は、使徒ペトロがイエス様のところに来て、
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、
何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18:21)
と尋ねたときに、イエス様が答えた言葉です。
これは、驚くべき言葉です。
というのは、他人から受けた被害に対する報復は、
同じ程度ならば、赦されていたからです。
しかし、イエス様はそれをしないと宣言されているのです。
レメクは77倍の復讐を歌いました。
復讐が止まないならば、その復讐に対する復讐も限りなく続き、
悲しい争いは果てしなく続くばかりです。
復讐によって、生み出されるものは、憎しみと争い、そして悲しみです。
そこから良いものなど得られるわけがありません。
イエス様は、このように永遠に続くように思える、
復讐の連鎖をやめなさい、断ち切りなさいと言っておられるのです。
イエス様は、レメクの歌に応答するように、
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と、
徹底的に相手を赦すように勧められたのです。
【徹底的に人を赦した、主イエスの歩み】
イエス様は、言葉や口先だけで、
私たちに赦しを伝えた方ではありませんでした。
イエス様は、「徹底的に相手を赦しなさい」と語っただけではなく、
ご自分の命をかけて、全生涯をかけて、神の愛と赦しを示してくださいました。
どれだけ暴言を吐かれ、罵られたとしても、
どれだけムチを打たれ、傷つけられても、
どれだけ人々から拒絶されても、
イエス様は、私たち人間に赦しを与えるために、
十字架へ向かう道を歩むことをやめませんでした。
それは、イエス様が私たち人間を愛してくださったからです。
赦しは、愛に基づいてなされたのです。
ですから、イエス様の十字架上での死を通して、
私たちは、イエス様から、愛と徹底的な赦しを既に受け取っているのです。
そのため、私たちは愛と赦しに生きるように招かれているのです。
イエス様に愛されたように、互いに愛し合い、
イエス様に赦されたように、互いに赦し合って生きるようにと、
私たちは招かれているのです。
【それでも、赦しに生きる】
主イエスの愛を受け、神を信じる者たちの共同体を、
私たちは教会と呼びます。
教会こそが、神の愛と赦しが響き合うべき共同体です。
レメクの歌った「復讐の歌」が響き渡るこの世界に、
神は、愛と赦しが響き合うところとして、教会を建ててくださったのです。
神は、教会を通して、神の愛と赦しをこの世界に伝えようとしておられます。
ですから、私たちが愛と赦しに生きるならば、
この世界に福音が広がっていくことになるのです。
この世界は、復讐や報復の原理に立ち、争いが絶えず起こり続けています。
憎しみの連鎖は止むことがないように感じます。
だからこそ、神は教会を通して、私たちを通して、
この世界に、愛と赦しを伝えようとされたのです。
ですから、私たちは、復讐の原理に立つことは、もうやめましょう。
神によって赦されたのですから、赦しの原理に立ち続けましょう。
イエス様が赦し続けてくださったのですから、
私たちも赦し続ける側であり続けようではありませんか。
しかし、それは正直、難しいことかもしれません。
時には、一方的な言葉の暴力を受け続けることもあるかもしれません。
そんな時、赦しきれず、耐え切れず、
復讐に走ってしまう自分と出会うことでしょう。
神は、そのような私たちに、
一人で戦わなくても良いんだよと言ってくださる方です。
神は、解決の道として、祈りを用意してくださいました。
私たちは、祈りを通して、復讐を神に委ねることができるのです。
赦しきれない思いを自分で解決するのではなく、
神に委ねることを通して、神に相応しく取り扱っていただくのです。
そして、祈りを通して、私たちは神に叫ぶのです。
「どうしても赦せません。助けてください」と。
イエス様は、愛と赦しに立って生きようと、
もがき苦しむ私たちのこのような祈りを聞き、
私たちと共に苦しみ、共に泣いてくださる方です。
また、神は、私たちに慰めと励まし、相応しい道を与えられる方です。
ですから、私たちを愛してくださった方に信頼して、
私たちは、神に祈りつつ、歩み続けて行こうではありませんか。
レメクの歌った復讐の歌をこの世界に響かせるのではなく、
イエス様が愛してくださったように、人を愛する道を選び取り続けましょう。
イエス様が赦してくださったように、人を赦す道を選び取り続けましょう。
私たちは、神の愛と赦しをこの世界に響かせる歩みをして行きましょう。