「神と共に歩む」

『神と共に歩む』

聖書 創世記6:9-22、ヘブライ人への手紙11:7

日時 2015年 9月 27日(日) 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【見よ、地は堕落している】

神にとって、この世界は喜びでした。

この世界のすべてのものは神によって造られ、

神によって生命を与えられました。

造られたすべてのものは、お互いに良い影響を与え合い、

お互いに支え合って生きていました。

ですから、神は造られたすべてのものを見つめて言われたのです。

 

見よ、それは極めて良かった。(創世記1:31)

 

しかし、6章では、それとは全く正反対のことが記されています。

 

見よ、それ(地)は堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 (創世記6:12)

 

極めて良いものとして造られたこの世界が、今や、

堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいました。

ここで「堕落する」と訳されている言葉は、

道徳的な堕落ではなく、大地や町などの破壊や滅亡を表すため、

「破壊する」と訳した方が良いでしょう。

 

見よ、それ(地)は破壊され(堕落し)、すべて肉なる者はこの地で破壊(堕落)の道を歩んでいた。 (創世記6:12)

 

このように訳してみると、

神が「極めて良い」ものとして造られたこの世界を、

人間が破壊しているという現実を、神が見つめたということがわかります。

喜び、愛すべきものとして造られたこの世界を、

神が愛してやまない人間たちが破壊している。

この現実に、神は心を痛め、悲しまれたのです(創世記6:6)。

愛する人間が神に背き、徐々に徐々に、悪い方向に向かっていく。

神よりも自分を愛し、自分中心に生きる人間の姿。

共に生きる人々と愛し合うよりは、争い合い、傷つけ合い、利用し合う。

そのようなこの世界の現実を見つめることは、

神にとって、心が引き裂かれるような痛みを伴うことでした。

そのような中、神にとっての慰めは、神に従う人がいたということです。

しかし、神に従って生きようとする人は、

ほんの一握りの人々にすぎませんでした。

多くの人々は、神の前に堕落の道を歩んでいたのです。

 

【神との正しい関係を築いた人、ノア】

著者は、神の前に堕落し、不法に満ちた時代の中で、

神に従い続けた一人の人物を紹介しています。

それは、ノアという一人の男でした。

彼の名前の意味は「慰め」です。

神に背き続ける人々で溢れていたこの時代、

ノアの存在は、きっと神にとっての慰めでもあったことでしょう。 

9節において、ノアはこのように紹介されています。

 

その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(創世記6:9)

 

ノアは「神に従う無垢な人」であったと記されています。

この言葉はヘブライ語で「ツァディーク」と「タミーム」

というふたつの単語で記されています。

この「ツァディーク・タミーム」は、

「正しく、完全な人であった」と訳すことができます。

ただし、ここで語られている「正しさ」や「完全さ」は、

道徳的な「正しさ」や、失敗をしない「完全さ」を意味しません。

ここで語られている「正しさ」や「完全さ」は、

神との関係が正しく、あるべき関係にあることです。

つまり、ノアは神との関係が正しい関係にある人であったと、

聖書は証言しているのです。

神と正しい関係を築くことができていたから、

ノアは神と共に歩むことができたのです。

 

【神の声を聴き、神の思いを知る】

では、「神と共に歩む」とはどういうことなのでしょうか。

ノアを通して、私たちは神と共に歩むことを知ることができます。

それは、神の声、神の言葉を聴くことです。

神の声を聴くということは、

励ましや希望を得ることのできる言葉のみを聴くだけではありません。

神が語るのは、励ましや希望を与える言葉だけではないのですから。

私たちの心にズキズキと突き刺さるような言葉も、

厳しい言葉も、神は語ります。

ですから、自分の好みに合う言葉のみを拾って聴くという姿勢は、

神の言葉を真剣に聴いているとは言えません。

私たち人間が、神の言葉を聴くということは、

神の悲しみを知ることであり、神の喜びを知ることなのです。

神がどのようなことに悲しみを覚え、何に傷つき、

何を望んでおられ、何が神の喜びであるのかを、

私たちは神の言葉を通して知ることができるのです。

このような神が抱いておられる思いを知るということは、

神と共に悲しみ、共に喜ぶということでもあります。

それこそ、神と共に歩むということなのです。

神と共に歩んだノアは、神に語り掛けられ、

神とその思いを共有しました。

ノアが聴いた神の言葉は、

「見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(創世記6:13)

という、人間に対する厳しい裁きの決断でした。

「なぜ?」と問いかけたくなるこの神の決断に、

ノアはただ耳を傾け、神の言葉に従うだけでした。

もしかしたら、ノアは声を上げたかもしれません。

しかし、聖書が書き残しているのは、

神の言葉を黙って聞き、神に従うノアの姿です。

「なぜ?」と問いかけたくなる気持ちを抱えながらも、

ノアはきっと、神の思いを知ろうと努めたのだと思います。

愛なる神がこれほどまでに厳しい決断をしたということは、

それほど厳しい決断をしなければならないほどに、

人間の悪、人間の罪という問題が根深く、

とても深刻なものなのだと感じたことでしょう。

神と共に歩むということは、

神の言葉を聴き、神の思いを知ることを通して、

この世界に蔓延る悪や人間の罪という現実を

神と共に嘆き、悲しむということでもあるのです。

 

【神に従うこと】

14-21節において、神は、3つの命令をノアに与えています。

その3つの命令とは、①箱船を作ること(創世記6:14-16)

②家族と動物たちと共に箱船に入ること(創世記6:18-20)

そして、③人間と動物の食糧を準備すること(創世記6:21)でした。

興味深いことに、これらの命令が語られた後、

著者はとても簡潔に、ノアが神に従ったことを記しています。

 

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22)

 

ここでは、ノアの言葉が一切記されていません。

彼は、神に抵抗することなく、そして決して手を抜くことなく、神が命じられたとおりに、神に従いまいした。

もちろん、神の語られた言葉に対して「しかし、主よ」といって、

神に抗議することが完全に禁じられているわけではありません。

そのような祈りを通して、神の思いを知ることはできます。

しかし、著者がこの箇所で強調しているのは、

神に背き続ける人々があふれる時代の中で、

神の言葉を真剣に聴いて、神に従ったノアの姿勢でしょう。

ノアと同じ時代に生きた人々は、神の言葉を聞かず、

神を神と認めないで生きる人々でした。

彼らにとって、神の言葉を真剣に聴いて、神に従うという姿勢は、

とても愚かなことに見えたかもしれません。

そのような時代の中でこそ、

神が命じられたとおりに、神に従ったという、

神を信じるノアの生き方は強く輝いたのです。

神の言葉を聴いて、神に従うということは、

人の目には愚かに見えるかもしれませんが、

神の目に尊く、美しいことなのです。

「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」(創世記6:22) 

という、とても短い記述によって、そのことが証言されているのです。

 

【神が共に歩んでくださる】

しかし、私たちはどうでしょうか。

日々、神と共に歩むことができるているのでしょうか。

神の言葉を真剣に聴いて、神に従うことができているのでしょうか。

「はい」とは瞬時に答えることは、正直できないでしょう。

神の声を聴いて従うよりも、流行りを追いかける。

世間で「良い」と推奨されている生き方の方が安心する。

神の言葉を聴いたとき、「しかし、そうは言っても……」と言い訳し続ける。

神の言葉よりも、自分の内側から出てくる言葉に従うことを好む。

これが私たちが日々抱く思いではないでしょうか。

そのような思いと向き合うとき、ひとつの現実をつきつけられます。

私たち自身の力では、神と共に歩むことができない。

そのような悲しむべき現実です。

しかし、驚きと喜びにあふれる出来事が、聖書に記されています。

私たち自身の力では、神と共に歩むことができないが、

それにも関わらず、神は共に歩んでくださった。

神は諦めずに、私たちと共に歩み続けてくださった。

そのことを聖書は力強く証言しているのです。

ですから、神は「インマヌエル」といわれるのです。

「私たちと共にいてくださる神」であると。

私たち自身の力では神と共に歩むことはできません。

しかし、神が諦めなかったから、

神の方から私たちの側に近づいてくださり、共に歩もうとされたから、

私たちは神と共に歩むことができるのです。

 

【キリストにあって、神と共に歩む】 

この事実は、神がイエス・キリストを

私たちのもとに送ってくださったことによって、

私たちの目に見える形で明らかになりました。

神の子であるイエス様は、人間としてこの地上での生涯を歩まれました。

それは、神が人となって、私たち人間と共に生きてくださったということです。

イエス様は、私たち人間がこの地上で味わう

様々な喜び、苦しみ、痛みを経験されました。

侮辱され、鞭打たれ、屈辱を受け、孤独を経験されました。

このような経験をされたイエス様が私たちと共に歩んでくださるのです。

私たちが経験する様々な事柄を、心から共感し、

イエス様は私たちと共に歩んでくださる方なのです。

そのため、イエス様について、聖書はこのように語ります。

 

「…その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

 

イエス様はインマヌエル、私たちと共にいてくださる神です。

喜びのときも、苦しみのときも、悩みを抱える日も、

イエス様は私たちと共にいて、私たちと共に歩んでくださるのです。

イエス・キリスト、この方を通して、

私たちは神と共に歩むようにと日々招かれています。

 

ですから、神のこの招きに応え、神と共に歩み続けていきましょう。