「神は心に留めた」

『神は心に留めた』

聖書 創世記7:17-8:5、ヨハネによる福音書14:15-18

日時 2015年 10月 18日(日) 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【洪水の脅威】

ノアの時代に、神はこの地上に洪水をもたらしました。

その当時に引き起こされた洪水のもつ脅威を、著者は物語っています。

雨は40日40夜、地上に絶えず降り注ぎ、

みるみるうちに、水が地上を覆っていきました。

その水は、次第に増していき、すべての山を覆いました。

そして、すべてのものは洪水によって拭い去られました。

それは徹底的な死と破壊の出来事でした。

著者は、7:21-23で、地上で生きていた生きものがすべて、

この洪水によって息絶えたと記しています。

 

地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。(創世記7:21-23)

 

著者は、言葉を言い換えることによって、

3度も、洪水によってすべての生きものが死んだことを伝えています。

それほどまでにこの洪水は脅威的なものであり、

恐るべきものであったと著者は強調しているのです。

 

【人間の悪と罪がもたらした破壊】

この洪水を引き起こしたのは神ですが、

その原因は、人間の罪や悪が地上に満ちていたことにありました。

私たち人間は、神によって造られ、神に使命を与えられた存在であると、

著者は、創世記1-2章で述べてきました。

その使命とは、神が造られたこの世界の管理者として生きることです。

「極めて良い」と神が宣言されたこの世界を、良い状態に保ち、

神によって造られたこの世界を喜ぶようにと、

私たち人間は招かれているのです。

しかし、神の目に映った人間の姿は、神が望んだ姿とはかけ離れていました。

人間はこの世界を良い状態に保ち、管理するのではなく、

神の思いに背き、神によって造られたものを

自分勝手に利用し、破壊していました。

また、人々は、お互いのことを赦し合い、愛し合うよりは、

憎しみ合い、争い合うことを選んでいました。

そのような人間の現実を見つめ、神は悲しみ、心を痛められたのです。

神は、このような人間の現実から目を背け、

見ないふりをすることは、もちろん出来たでしょう。

しかし、神は人間に裁きを下す決断をしました。

人間が罪ゆえに破壊的な道を歩むその姿を見たとき、

このままで良いとは決して言えなかったからです。

愛することは、甘やかすこととは違います。

人間を愛して止まないからこそ、神は人間を裁かなければならなかったのです。

それは、悲しみと苦悩に溢れる選択でした。

神は悲しみ、傷付き、葛藤しながら、

この地上に水が雪崩れ込んでくることをお許しになったのです。

 

【無秩序の波に飲み込まれた秩序】

「洪水」は、「大いなる深淵の源がことごとく裂け、

天の窓が開かれた」(創世記7:11)ことによって起こりました。

この世界を造られたとき、神は水を上と下とに分けられました。

ここで語られている「深淵の源」と「天の窓」とは、

神が上と下とに分けられた水が出てくる場所です。

そのため、このときに起こった洪水とは、

深淵の源から下の水が湧き出て、

天の窓が全開になり、上の水が降り注いでくる出来事でした。

神がかつて上と下に分けられた水が、ひとつの場所に戻ってくる。

それはこの世界を造られた、

神の創造の業が逆行する、巻き戻されていくような出来事でした。

そのため、この物語に記されている洪水を、

自然災害と同じように考えることはできません。

この世界を造られたとき、神によって与えられた秩序が失われ、

その結果、混沌が広がっていく。

それはまさに、全世界、全宇宙が転覆していくような出来事だったのです。

そして、すべての生き物たちは、

上と下からこの世界に雪崩れ込んでくる混沌の波、

無秩序の波に飲み込まれ、この地は水に覆われてしまったのです。

 

【神は心に留めた】

混沌と無秩序に満ちる世界で、

ただひとつ、水の上を浮かぶ舟がありました。

それは、「箱舟を作りなさい」「箱舟に乗りなさい」と神に命じられたノアが、

家族と一緒に作り、家族と多くの動物たちと一緒に乗り込んだ大きな舟でした。

混沌に覆われ、波が荒れ狂う、この洪水の中、

箱舟とそこに乗り込んだものたちだけは守られました。

それは、ただ神の「憐れみ」としか言いようがありません。

神の厳しい裁きという現実が広がる中、

私たちはこの箱舟に神の憐れみを見出すのです。

そしてこの物語は、8章で大きな転換点を迎えます。

 

神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。(創世記8:1)

 

神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留めた。

この言葉から、事態は一変します。

地上を覆った水が、減り始めたのです。

「150日の間」つまり約5ヶ月もの間、

水は「地上で勢いを失」(創世記7:24)いませんでした。

箱舟に乗っている人々にとって、

半年近くもの間収まることのない水を見たとき、

この状況は永遠に続くように思えたかもしれません。

この世界は決して元通りには戻らず、

自分たちは一生、箱舟の中で生活しなければならない

という考えが頭をよぎったことでしょう。

しかし、実際はそのようにはなりませんでした。

神が心に留めてくださった。

それが決定的な出来事となったのです。

神は箱舟に乗ったすべてのものたちを見捨てず、

見放さないでいておられました。

神が心に留めてくださった。

そして、水は減り始めたのです。

神がなぜ箱船に乗ったものたちを心に留めたのか、

その理由について、著者は一切記していません。

箱舟に乗っている者たちが、良い行いをしたからでもなく、

箱船の中で、すべてのものたちが争うことなく

過ごしていたからでもありません。

理由はただひとつでした。

神が、心に留めたから。

神が心に留めたから、だから、水が減り始めた。

これは徹底的に、神の一方的な恵みと憐れみによる出来事だったと、

著者は捉え、私たち読者に証言しているのです。

 

【「ルーアハ」が吹いた】

このとき、神が箱舟に乗っているすべてのものたちを心に留めたとき、

風が吹いたと聖書は証言しています。

それは、神が起こされた風でした。

神は、この世界を覆い尽くす混沌の水を収めるため、

「風を吹かせられ」、この風によって、水は減り始めていきました。

ここで「風」と訳されているヘブライ語の単語は「ルーアハ」といいます。

「ルーアハ」とは、「風」という意味に加えて、

「息」や「霊」という意味をもつ言葉です。

水で覆われた地の上に、ルーアハが吹く。

この光景は、創世記の初めに描かれた描写と重なります。

創世記1:2にこのように記されています。

 

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:2)

 

神がこの世界を造られる前、この世界は混沌であったと聖書は証言しています。

混沌が広がり、そして地は水で覆われてました。

そして、その水の上を神の霊、つまりルーアハが動いていたというのです。

「ルーアハが動いていた」。

創世記1章おいて、それは混沌が広がっていたこの世界に、

神が関わりをもち、創造のわざを行ったという確かな証しです。

そして、洪水に襲われ、水で覆われた世界において、

このルーアハは同じように吹いたのです。

神は、この世界を造られた創造の息吹を、

再びこの世界に、水で覆われたこの世界に吹きかけられたのです。

この風によって、このルーアハ、霊によって、

創造の産声が再びこの地上に響き始めたのです。

神は風を吹かせることによって、

この世界を回復させるために、その御手を伸ばされました。

それは、私たち人間と神によって造られたすべてのものたちに

神が心を留めたからこそ、起こった出来事なのです。

神の恵みによって、この水は減り始めていったのです。

そして、箱舟に乗った人々は、乾いた大地をついに見出したのです。

 

【地上の無秩序の中を歩む】

この物語を読む私たちは、

「洪水の後の時代」に生きていることに気付くでしょう。

それは、すべてが拭い去られた後、

神が心に留めてくださった、そのことゆえに与えられた時代です。

しかし、洪水の後の時代だからといって、

人の悪が全くなくなったわけではありません。

人の罪が一掃されたわけでもありません。

この世界の現実を見渡すとき、私たちは気づきます。

不正があります。

争いや対立も絶えず起こります。

嘆くことも、涙を流すことも、数多くあります。

不条理を感じることも、憤りを覚えることもあります。

孤独を覚えることも、疎外感を感じることもあります。

多くの人の罪との出会いがあり、

様々な形で人間の悪と向き合わされます。

このような情況を、聖書は「混沌」と呼びます。

このような「混沌」の中を、秩序のない中を、

私たちは毎日、毎日、歩んで行かなければなりません。

荒波の中を、強風の中を、翻弄されながら進んで行かなければなりません。

しかし、そのような中にあっても忘れてはいけないのは、

神が私たちを心に留めてくださっているということです。

神は、私たちに目を留めて、この地上の無秩序に向かって、

いつも風を吹かせてくださる方です。

神が風を起こすならば、混沌を押しのけられ、

神の秩序がもたらされるのです。

 

【神は共にいてくださる】

神は、とても遠いところから、私たちのこの世界に

このような風を吹かせてくださる方ではありません。

神は、私たちのすぐそばで、私たちと一緒におられ、

私たちの暮らす日常の中に、

そして私たち自身に風を吹きかけてくださる方です。

それは、聖なるルーアハ、聖霊を私たちに与えることによって、

実現された神の約束です。

神は聖霊によって、私たちと共にいてくださり、

聖霊によって、私たちに日々、力強い風を吹きかけてくださるのです。

聖霊が私たちに与えられているということは、

神が私たちに心を留め続けてくださっているという証拠に他なりません。

イエス様は、聖霊を与える約束を弟子たちにされたとき、

このように言われました。

 

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(ヨハネによる福音書14:16)

 

神は私たちを決して見捨てないお方です。

失望を覚えるときも、

困難を覚えるときも、

神を信じることが出来ないと嘆き、叫ぶときも、

聖霊によって、神は私たちと共にいてくださいます。

私たちひとりひとりに聖霊を与えてくださった神は、

私たちを、常に、心に留め続けてくださいます。

混沌と思える情況、

自分の力では抵抗できず、ただ周囲の力に流されるしかないような

そのような情況の中でさえ、神は共にいてくださる。

聖霊を通して、風を吹きかけてくださる。

あの日、ノアとその家族が乗った箱舟が、洪水から守られたように、

私たちを守り導いてくださる。

あの日、箱舟に乗ったものたちに心を留め、

混沌の水の上に、風を吹きかけてくださったように、

私たちを心に留め、私たちの日常に、風を吹きかけてくださる。

聖霊が与えられているということは、

私たちの信仰者としての歩みの強い励ましであり、慰めです。

神が与えてくださっているこの希望から目を逸らさず、歩んで行きましょう。

聖霊が起こしてくださる風の中、神に信頼して歩んで行きましょう。