「神の祝福の証人」

「神の祝福の証人」 

聖書 創世記10:1-32、ルカによる福音書24:45-48

日時 2015年11月15日 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【神の祝福「産めよ、増えよ」】

この世界を造られたとき、

神はこの地上のすべての生き物を祝福して言われました。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)と。

この祝福の言葉は、洪水の後、ノアとその家族にも語られたものでした。

そして、この神の祝福は、ノアの3人の息子である

セム、ハム、ヤフェトの3人から、 

この世界のすべての民族が広がっていくことによって、

この地上に実現しました。

創世記10章の系図は、そのような神の祝福の現実を物語っています。

ノアの3人の息子たちの子孫によって、地上のすべての民族は分かれ出て、

この地上に産まれ、増え、そして地に満ちていったのです。

神の祝福とは、ただ単にこの地上に

人間が増え広がっていくというものではありませんでした。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福された時、

神は、人間やすべての生き物に「多様性」という豊かさを与えられました。

そう、神は、すべての人間、すべての生き物を

全く同じようには造らなかったのです。

創世記10章に記されている民族や国の名前を思い巡らすだけで、

そこに様々な違い、多様性があることに気付くでしょう。

言語、文化、住んでいる場所、肌の色、髪や眼の色、考え方、好みなど、

私たち人間には、様々な違いというものが、

「多様性」という形で与えられているのです。

神は、私たちひとりひとりを、とてもユニークな存在として造られ、

私たちひとりひとりの存在を心から喜んでおられるのです。

神は、そのような「多様性」を良しとされ、

人間がこの世界に広がっていくのを喜ばれたのです。

 

【主に反抗した「勇士ニムロド」】

しかし、人間がこの世界に広がっていくとき、 

良いものだけが広がったわけではありませんでした。

そのひとつの例として、8-12節に「勇士ニムロド」の話が描かれています。

ニムロドは「勇敢な狩人」でした。

そして、彼は様々な町を建て、王国を築いた権力者でもありました。

「主の前に勇敢な狩人であり」と記されているため、

ニムロドという人物は、肯定的に描かれているように見えます。

しかし、彼の建てた町の名前を見てみるとどうでしょうか。

そこには、バビロニア帝国の主都バベル、

そして、アッシリア帝国のニネベという町の名前が並んでいます。

それらは、旧約聖書の時代の人々に、

政治的な脅威を与え続けた国の町の名前です。

その意味で、この勇士ニムロドの物語は、

決して良い意味では描かれていません。

ニムロドの名前は、「反抗する」という意味をもちます。

彼は、権力を振りかざし、自分の国を建てることによって、

神の意思、神の祝福に反抗した人物でした。

では、なぜ権力を振りかざし、国を建てることが、

神への反抗となったのでしょうか。

それは、いつの時代も権力は、神の祝福を否定しようと努めるからです。

神が喜ばれる多様性という現実を押し殺し、

時の権力者たちは、自分たちにとって都合の良い人間像をつくりあげます。

そして、多くの人びとがありのままの自分らしく生きられない

という現実が作り上げられていくのです。

本当にこの世界に広がりゆくべきものは、神の祝福であるにもかかわらず、

人間がこの世界に広がっていくと同時に、

神へ反抗する人間の罪が世界に広がっている現実があるのです。

そのような現実が、ニムロドの物語によって描かれているのです。

しかし、神への反抗はニムロドや彼の時代の人々だけの問題ではありません。

いつの時代も、誰もが様々な形で、神に反抗し続けています。

それは、神以外のものを神とすることによってなされます。

誰もが自分たちなりの方法で、

気づかないうちに、神への反抗を積み重ねているのです。

それは、人を愛せなかったり、

誰かに憎しみを覚えることによって。

また、自分の利益ばかり求めて、他人を顧みないでいたり、

相手の存在を無視したりすることによって。

そうするとき、神の祝福を私たちは拒否しているのです。

私たちは、目の前にいる一人の人を否定したり、憎しみを覚えたり、

愛せなかったり、無視したりすることによって、

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と広がりゆく神の祝福を、

あまりにも簡単に否定することができるのです。

 

【神は祝福の担い手を選ばれた】

神が私たち人間と、神によって造られたすべての被造物に願ったこととは、

私たちが神に反抗して生きることによって、

この世界に罪や悪、憎しみや妬みが広がっていくことではありません。

神が心から望んだのは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という

神の祝福が、この世界に広がっていくことです。

それにも関わらず、人間が神の祝福ではなく、

自己中心に生きること、神に背いて生きることを選び取り続けるため、

神は、祝福の担い手を特別に選ばれました。

神は、この祝福の担い手を特別に祝福し、

その祝福の担い手を用いることを通して、

この世界のすべての人々を、祝福しようと決断されたのです。

創世記10章の系図で、誰がこの祝福の担い手として選ばれるのかが、

少しずつ明らかになっています。

特に重要なのは、21-31節に描かれているセムの子孫たちです。

セムの息子たちとして、

エラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラムの

5人の名前が記されています。

注目すべきなのは、セムの息子の一人である

アルパクシャドから始まる流れです。

アルパクシャドの子どもはシェラのみ。

そして、シェラの子どもはエベルのみです。

創世記10章の系図において、子どもの名前が記されている場合、

そのほとんどは、ふたり以上の名前が記されています。

そのため、アルパクシャドの子孫がひとりずつしか記されていないことは、

明らかに、彼の子孫に読者の注目を集中させるためです。

 

【エベル、ペレグ、そしてアブラハム】

著者が、読者の目を注ぎたかった人物は、この系図の中に2人います。

それは、エベルとその息子のペレグです。

エベルは、21節でこのように紹介されています。

 

セムにもまた子供が生まれた。彼はエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェトの兄であった。(創世記10:21)

 

著者は、セムの5人の息子を紹介するよりも先に、

エベルを紹介することによって、エベルの存在の重要性を明らかにしています。

エベルは、ヘブル、

つまりヘブライ人の語源となった人物だと考えられています。

イスラエルの人々は、ヘブライ人とも呼ばれていました。

そのため、ヘブライの語源となった、

エベルの存在は重要だと考えられたのでしょう。

このエベルには、2人の息子、ヨクタンとペレグがいました。

26-29節によれば、ヨクタンには13人の息子がいました。

そのため、ヨクタンから多くの子孫が広がっていったことがわかります。

一方もうひとりの兄弟ペレグに関して、著者は10章では沈黙しています。

しかし、最終的に著者がスポットを当てたいのは、

ヨクタンの方ではなく、ペレグの方です。

神がペレグの子孫を選んだことが、11章で明らかになります。

そして、ペレグの系図を辿って行く時、重要なことが明らかになります。

それは、ペレグが「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの祖先にあたることです。

神は、アブラハムを選び、彼を祝福して、

彼とその家族、その子孫たちを通して、この世界を祝福する決断をされました。

神はアブラハムにこのように言われました。

 

わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。(創世記12:2-3)

 

アブラハムの子孫、それはイスラエルの民です。

神はイスラエルを、神の祝福を担う民として選んだのです。

このような神の壮大な計画の第一歩が、

エベルとその息子ペレグ、そしてその子孫アブラハムの選びなのです。

創世記10章は、神の祝福を担う民

イスラエルの誕生に向かう歴史が描かれているのです。

 

【神の祝福の担い手であるイエス・キリスト】

このように神は、エベル、ペレグ、そしてアブラハムを選び、

彼らの子孫であるイスラエルを、神の祝福を担う民として選びました。

神は、イスラエルを祝福することを通して、

この地上のすべての民族、すべての人々を祝福しようと計画されたのです。

しかし、旧約聖書の歴史が一貫して語るのは、

イスラエルを通して、人々を祝福することができなかったということです。

神の祝福を担い、人々に祝福を与えるべきイスラエルの民も、

神に背き、神に反逆する歩みをし続けてしまったのです。

神の計画は失敗に終わってしまったのでしょうか。

私たちの目にはそのように見えるでしょう。

しかし、私たちが神に感謝すべきことは、

すべての人々を祝福することを、神が決して諦めなかったこと。

そして、神が私たちを愛し続けてくださったことです。

神は、独り子であるイエス・キリストを、

私たちのもとに送ってくださいました。

イエス・キリストを私たちのもとに送ること通して、

神は私たちを、すべての人々を祝福する決断をされたのです。

すべての人々を祝福するため、

人間が抱え続ける「神への反抗」という問題、

つまり罪が解決されなければなりませんでした。

神へ反抗し続けるならば、人は神の祝福を

自分のものとして受け取ることはできないのですから。

私たち人間が抱える罪を解決するために、神が取られた方法は、

独り子であるイエス様を十字架にかけることでした。

イエス様が命をかけることによって、

イエス様が十字架の上で死ぬことによって、

神は、私たちひとりひとりの罪を赦されたのです。

神は、神に反抗し続ける私たちを、徹底的に赦し、愛されたのです。

これこそ、神がイエス様によって私たちに与えてくださった祝福なのです。

私たちにとっての良き知らせは、

祝福に溢れる現実が私たちのもとに来ているということです。

本来ならば、自分たちが神に背き続けたために

受け取ることなど到底できない神の祝福が、

神の恵みによって、イエス様を通して、私たちに与えられるのです。

これこそ、私たちに与えられている福音、良き知らせなのです。

 

【私たちは、神の祝福の担い手】

私たちが神の祝福を受け取っているという良き知らせを、

イエス様は、弟子たちにこのように語られました。

 

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ24:46-48)

 

イエス様は、福音が「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。

そして、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。

そうです。私たちは神から受け取った祝福を、

自分たちだけのものとして握りしめ、独占すべきではありません。

神の祝福を受け取った私たちは、

祝福の証人として生きるように招かれているのです。

神の祝福を受けている者は、自分が神に祝福されていること、

自分が福音を受け取って、

救いを得ているということでは満足すべきではありません。

神の祝福を受けている者は、その祝福を分け与えるように招かれているのです。

弟子たちの祝福の証人としての歩みが、エルサレムから始まったように、

私たちも祝福の証人としての歩みをこの場所から始めようではありませんか。

さぁ、神の祝福を携えて、この世へと出ていきましょう。

あなたがたは、神の祝福の担い手、神の祝福の証人となっているのですから。