「私たちが築くべきもの」
聖書 創世記11:1-9、ヨハネの手紙 一 4:16-21
日時 2015年11月22日 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)
説教者 稲葉基嗣牧師
【「聞かない」共同体】
それは、この世界の人々が同じ言葉を話していた時代のことでした。
人々は、自分たちが世界中に散らされることを恐れ、こう言いました。
「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)
このように言った人々は「天まで届く塔のある町」を建てることによって、
ひとつになろうとしました。
この当時の人々は、今の私たちとは異なり、同じ言葉を用いていました。
しかし、それにも関わらず、彼らは全地に散らされることを恐れました。
「同じ言葉を用いていても、自分たちはひとつになれない」と
人々が考えていたことがわかります。
たとえ同じ言葉を話していたとしても、思いをうまく共有できず、
異なる考えや価値観を受け入れ合うことができない。
目の前の相手の言葉を聞き、理解できるのに、理解し合うことができない。
お互いの言葉を「聞かない」こと。
これが、この町の人々が抱えた問題でした。
その解決策として、「天まで届く塔のある町」を建てることによって、
人々はひとつになろうとしました。
「天まで届く塔」とは権力の象徴でした。
人々は、権力を用いることによって、ひとつになろうとしたのです。
しかし、それは神の意図したこととは正反対のことでした。
神は私たち人間を祝福して
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)と言われました。
この世界に広がっていくことは、神の祝福の現れであり、
神が望んだことでした。
そのため、「天まで届く塔のある町」を建設し、
人々が世界に広がっていくことを止めようとしたことは、
神の祝福を否定し、拒否することでした。
人々は、人間同士の声を、お互いに聞かないばかりでなく、
神の声さえも聞かない状態だったのです。
【人間の驕り高ぶり】
お互いの言葉を聞かず、神の言葉も聞かない、
この町の人々が「天まで届く塔」を建てた一番の動機は、
自分たちが「有名になる」ことでした。
彼らは、神の名がこの世界で讃えられることよりも、
自分たちの行いや業績、そして自分たちの名前が、
後の時代においても讃えられることを望んだのでした。
そして、彼らが建てようとした塔は、「天まで届く」ものでした。
人々は、神の領域である天にまで届く塔を、
自分たちの力によって建てることができると考えたのです。
天まで届く塔を建てることによって、
自分たちは神と同等な存在であると、世に告げ知らせようとしたのです。
これは明らかに、人間の驕り高ぶりです。
神によって造られた者が、神になることなどできません。
しかし、人々は神の位置に自分を置こうと努めたのです。
神の位置に自分を置くこと。
これは、様々な形で、いつの時代も繰り返されています。
それは特定の人々に限った話ではなく、
誰にでも起こる問題として繰り返されていることです。
現代に生きる私たちが大好きなのは、「自己中心」でしょう。
すべての物事の基準を神でなく、自分に置くことによって、
自分自身を神の位置へと高めるというあり方です。
神の言葉を聞かない。
周囲の人々の言葉を聞かない。
ただ自分の声、自分の欲求、自分の理想にばかり、耳を傾け続ける。
天まで届く塔の建設は、今も、形を変えて、
私たち自身の手によって続けられているのです。
【天から地に降った神、王なるキリスト】
さて、この人間の驕り高ぶりの象徴でもある塔を、
「主は降って来て」(創世記11:5)見た、と記されています。
物語の語り手は、皮肉を込めて、
「主は降って来て……見た」と物語っています。
人間が持てる限りの技術を用いて、どれほど高い塔を建てたとしても、
それは神の領域である天にまで届くものではありませんでした。
その上、神はこの塔を見るために、
わざわざ天から降って来なければならなかったのです。
そして、驕り高ぶりに満ちた人間の計画を中止させ、
人々を全地に散らすために、神は人々の言葉を混乱させました。
人間の驕り高ぶりは、最終的には混乱を招いたのです。
このように、神は「天まで届く塔」が建設されたこの時代、
人間に裁きを与えるために、天から降って来ました。
しかし、神が天から降って来たという出来事は、
「バベルの塔」の時代にのみ起こったのではありません。
人類の歴史において、「神が天から降った」という決定的な時があります。
それは、神の子であるイエス・キリストが生まれた時です。
この世界を造られ、この世界のすべてのものを治める
王であるお方が、自分の身分を捨て置いて、天から地に降った。
イエス様が来たということは、驚くべきことです。
バベルの塔の時代、地上の権力者たちは、天まで届く塔を建て、
神と肩を並べることを目指しました。
それに対して、神の子であるイエス様は、
地に降り、私たち人間と共に歩んでくださいました。
イエス様が来られたのは、
私たちに混乱をもたらすためではありませんでした。
神の言葉にも、周囲の人々の言葉にも耳を傾けず、
ただ自己中心に、自分の思いのままに歩む私たち人間のために、
イエス様は、天から降って来られたのです。
私たちが神を愛し、周囲の人々を愛する者となることを願い、
イエス様は、私たち人間と共に歩むことを通して、
私たちに愛を示してくださいました。
虐げられている弱い人々や罪人と呼ばれる人々に手を差し伸べることを通して。
そして、すべての人々の罪を赦すために、
十字架にかかり、死ぬことを通して、イエス様は愛を示してくださいました。
イエス様こそ、神の愛の究極の現れなのです。
【神の業によって、ひとつにされ、散らされる】
神は、バベルの塔の時代に、言葉を混乱させることを通して、
人々を全世界に散らしましたが、
イエス様を私たちのもとに送って以来、
イエス様を通して、ひとつの共同体を築かれました。
それは、神がまず私たちを愛してくださったのだから、
互いに愛し合いなさいと語られた、信仰者の群れです。
この信仰者の群れは、教会と呼ばれる共同体です。
神は、キリストにあって、教会をひとつとしてくださいました。
言葉や文化、民族、性別、世代、出身地、興味の対象など、
様々な違いを抱えながらも、教会はキリストにあってひとつです。
教会にとって、それらの様々な違いは、
私たちがひとつとなることや、散っていくことの理由とはなりません。
私たちを散らすのは神です。
そして、私たちを散らすのが神ならば、
私たちをひとつにするのも神なのです。
私たちひとりひとりを、ひとつの共同体に呼び集めてくださった神は、
この交わりの中で、互いに愛し合い、仕え合い、励まし合い、
祈り合いながら、歩んでいくようにと招いておられるのです。
【互いに愛し合う共同体】
教会は、神によって呼び集められた信仰共同体である。
これは私たちが強く抱くべき確信です。
しかし、それは常に課題を抱えているということでもあります。
お互いが抱える様々な違いを、
私たちは乗り越えていかなければなりません。
言葉や文化、民族、性別、世代、出身地、興味の対象など、
様々な違いを抱えながら、共に歩むようにと、
私たちは招かれているのです。
使徒ヨハネは、このような課題を知った上で、このように語りました。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(Ⅰヨハネ4:19-21)
神を愛する者は、イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合う。
言っていることはとてもシンプルですが、
とても厳しく、難しいことが語られていると感じてしまいます。
愛せない現実を知る度に、落胆することでしょう。
しかし、私たちは自分自身に最終的な希望を置きません。
最終的に私たちは、神に希望を抱いて、
神に信頼して生きるように招かれています。
そうであるならば、
神が成し遂げてくださる業に強く信頼を置きましょう。
神がキリストにあって、教会をひとつとしてくださるのだ、と。
神がひとつにしてくださるから、
私たちはお互いの様々な違いを乗り越えて、
イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うことができるのです。
【私たちが築きべきもの】
神が与えてくださっている、このような希望の約束を見つめるとき、
私たちが築くべきものは、何であるかを知ることができます。
私たちが築きべきものは、
私たちの努力によって、自分たちを神の位置に高めることを目的とした、
高い塔ではありません。
私たちが築くべきものは、
人に自慢するような高い塔でも、建物でもありません。
私たちが築きべきものは、
主イエスを信じる者たちによって築かれる共同体に他なりません。
私たちが築くべきもの。
それは、互いに愛し合うことをやめない交わり。
互いに手を取り合って、祈り合って歩んでいく、信仰者の群れです。
神が愛され、神がこの地上に建ててくださったこの交わりを、
私たちは教会と呼びます。
この共同体を、共に築いていくようにと私たちは招かれているのです。
最終的に、神が教会を築き上げ、
私たちをキリストにあってひとつにしてくださるのは神です。
ですから、私たちの主である神を信頼しつつ、共に歩み続けていきましょう。
互いに愛し合うことを決してやめることなく、
神の言葉を聞き、お互いの言葉に耳を傾けながら。
私たちが互いに愛し合うことを通して、
神の愛はこの世界に明らかになっていくのです。