「この方こそ、私たちを導く光」
聖書 マタイによる福音書2:1-12、イザヤ書60:1-6
日時 2015年12月20日 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)
説教者 稲葉基嗣牧師
【星を追いかけてやって来た学者たち】
それは、今から2000年と少し前の出来事でした。
夜空に強く光り輝く星が現れたそうです。
その星を追いかけて、東の方からやって来た学者たちがいました。
彼らは、この強く光り輝く星を見つけた時、
この星はユダヤ人の王が産まれるしるしに違いないと確信し、
産まれてくる子と会うため、意を決して、ユダヤの地へと旅立ったのです。
彼らはユダヤの都であり、当時のユダヤの王ヘロデのいる、
エルサレムへ向かい、ヘロデ王に尋ねました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)
ここで「ユダヤ人の王」と言われている者は、
旧約聖書の時代から人々が待ち望み続けた救い主、メシアのことでした。
ユダヤの人々が強く待ち望み続けた救い主が産まれるしるしを見たと、
東の地から異国の学者たちがやってきて伝えたのです。
この突然の知らせを受けた、当時のユダヤの王であるヘロデは、
この知らせを喜びませんでした。
彼は、不安を抱きました。
ヘロデのこのような反応のわけは、
ヘロデという人物について知れば、納得できるものです。
ヘロデは、自分の地位を守るため、家族を殺した人物として、
当時の人々に知られていました。
自分の家族に手をかけてまで、王で在り続けようとするヘロデが、
「ユダヤ人の王が産まれる」という知らせを受けた時、
不安を抱いたのは当然のことでした。
それは、自分に取って代わる王が現れるという悪い知らせなのですから。
【不安を抱くエルサレム】
奇妙なことに、どうやら、ヘロデと同じように、
「エルサレムの人々も皆」、不安を抱いたようです。
ヘロデはエルサレムの人々から、あまり人気はありませんでした。
そんなヘロデに代わる王ならば、人々から歓迎されたはずです。
何より、旧約聖書の時代から強く待ち望み続けた、
ユダヤ人の王である、救い主メシアの誕生なのですから、
人々から歓迎され、喜ばれるのが当然です。
しかし、エルサレムの人々は皆、なぜか不安を抱いたというのです。
その不安の原因は、エルサレムの人々が、
ヘロデの性格を知っていたからだと思います。
彼は、無慈悲で、傲慢、そして打算的な人物でした。
また、彼は疑い深い性格でした。
かつて彼は、その疑いの心から、自分の王位を守るため、
子どもたち、妻、親戚、そして友人たちを国外追放し、
また時には投獄し、処刑しました。
このような人物として知られていたヘロデが、
ユダヤ人の王が産まれるというこの知らせを聞いたならば、
きっと産まれてくる子を殺すためなら、彼は何でもするだろうと、
エルサレムの人々は思ったことでしょう。
ユダヤ人の王といわれる子が産まれることによって、
引き起こされる可能性のあるトラブルを予測し、
エルサレムの人々は不安を感じたのです。
生まれてきたユダヤの王、救い主メシアが殺されてしまうかもしれない。
そればかりでなかう、自分たちにまで
何らかの被害があるかもしれない、といった具合に。
【不穏な空気が漂うユダヤの地】
東の方から来た学者たちの携えてきたこの知らせは、
このようにエルサレムの町に不安を与えました。
ヘロデは、このような知らせを受け、早速、
ユダヤ人の王として待ち望まれている子が、どこに産まれるのかを、
聖書に詳しい祭司長たちや律法学者たちに調べさせました。
祭司長や律法学者たちの調査の結果が、ヘロデにこのように伝わりました。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(マタイ2:5-6)
この報告を聞くと、ヘロデは、東の方から来た学者たちに、
ユダヤ人の王はベツレヘムに産まれることになっているらしいと伝え、
こう言って、彼らをベツレヘムへと送り出しました。
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(マタイ2:8)
ヘロデは、自分の思いを偽っています。
彼は幼子を拝むためにではなく、殺すために探しているのですから。
今日、私たちは、イエス様が産まれたことを喜び、
お祝いする礼拝のときをもっています。
しかし、イエス様が産まれたその当時、ユダヤの地域は、
ヘロデ王の偽りと企みによって、不穏な空気が漂っていたのです。
【星が先立って進む】
さて、ヘロデの言葉を聞き、
学者たちは自分たちが目指す場所がはっきりしました。
彼らは、エルサレムから南におよそ10kmほど離れた場所にある、
ベツレヘムの町へと旅立ちました。
すると、不思議な出来事が起こったと、9節に記されています。
彼らが東方で見た、あの星が彼らに「先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった」(マタイ2:9)というのです。
星がとても不思議な動きをしていることに気付くでしょう。
学者たちの移動のスピードに合わせ、星は東から西へ動き、
エルサレムに着くと、次は南へと動き、
最後には、ユダヤ人の王として産まれるイエス様がおられる場所の上で、
その星は止まったというのです。
そう、まさに彼らは、この星に導かれて、
イエス様のもとまでやって来たのです。
この星は、まさに、神の導きのしるしでした。
この星を用いて、神は、彼らを遠い東の地から、
ここまで導いてくださったのです。
だからこそ、学者たちは、イエス様と出会う前に、
この「星を見て喜びにあふれた」(10節)のでしょう。
神がこの旅を導いてくださっていた。
この事実は、彼らにとって大きな喜びでした。
そして、彼らはついに、あの星によって示された、ユダヤ人の王、
ひとりの幼子である、イエス様との出会いを果たしたのです。
【主イエスこそ、私たちを導くお方】
学者たちがイエス様と出会ったこの時、
夜空に輝く星はその役割を終えました。
神は、もう彼らを星によって導く必要がなくなったからです。
神は、イエス・キリストを、救い主として彼らにお与えになりました。
イエス様は、ユダヤ人のみの王、ユダヤ人のみの救い主ではありません。
イエス様は、すべての人を救い、すべての人の歩みを導かれる方です。
イエス様と出会った今、もう彼らには、あの星による導きは必要ありません。
遠い空の上で輝く星よりもずっと近くに、イエス様がいてくださるのですから。
そして、遠くで輝く星よりも、遥かに力強く輝く光を放つ方が、
イエス様が、彼らのもとに来られたのですから。
神は、イエス様を通して、この学者たちだけでなく、
すべての人々に、そう、私たち一人一人に光を照らしておられるのです。
クリスマスのあの夜、東の方から来た学者たちが出会った幼子、主イエス。
この方こそ、私たちに導きの光を与えてくださる方なのです。
【イエス様が私たちに与えてくださる光】
では、私たちを光り照らしてくださったイエス様は、
私たちにとって、どのような光なのでしょうか?
イエス様は私たちに、一体何を与えてくださったのでしょうか?
イエス様が私たちに与えてくださった光。
それは、悲しみや嘆き、不安を覚える私たちに、希望を与える光です。
イエス様は、神であるにもかかわらず、
驚くべきことに、人となり、私たちと一緒に歩んでくださいました。
悲しみや嘆き、不安を覚える中にあっても、
それでも私はあなたと共にいると、イエス様は語り続け、
私たちの希望の光で居続けてくださるのです。
そして、何より、イエス様は私たちに愛を与える光です。
神を愛し、人を愛することを、イエス様はその生涯をかけて、
その命をかけて、私たちに教えてくださいました。
人々からいくら拒絶されても、いくら罵られても、
いくら傷つけられても、いくら見捨てられても、
イエス様が、人々を愛し抜いた姿が、この福音書の中に記されています。
それは、私たちの間に平和を与える光です。
イエス様は人を愛し、赦すことを教えてくださいました。
力によって相手を屈服させることによってではなく、
自分に敵対し、自分を拒絶する人々を赦し、愛し抜くことを通して、
平和をもたらそうとされました。
私たちがイエス様によって与えられる光とは、そのような光なのです。
それは私たち人間がいくら頑張っても、手に入れることの出来ない光です。
ただイエス様によって与えられる光です。
驚くべきことに、イエス様によって与えられるこの光は、
社会的に特別な地位をもっている人、
高い学歴をもっている人、お金持ちの人など、
ほんの一握りの特別な人たちのものではありません。
イエス様は、すべての人のために来ました。
そう、私たちすべての者のために来られて、
私たちに光を与え、私たちの生涯を導こうとされているのです。
喜びのときも、悲しみ涙を流すときも、
怒りを覚え失望するときも、嘆くときも、葛藤するときも、
イエス様はいつも私たちと一緒にいて、私たちの生涯を導いてくださるのです。
病いのときも、深い喪失を経験したときも、死を迎えるときさえも、
イエス様がいつも私たちと一緒にいて、
私たちの光であり続けてくださるのです。
これこそ、クリスマスの日、明らかになった喜びなのです。
この喜びを胸に、イエス様と共に歩んで行こうではありませんか。
イエス・キリスト。この方こそ、私たちを導く光なのですから。