「主イエスが招く声を聞いたならば」

「主イエスが招く声を聞いたならば」

聖書 マタイによる福音書 4:18-25、イザヤ書 60:19-22

2016年2月7日 礼拝、小岩教会(ナザレン)

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【なぜ主イエスに従ったのか?】

イエス様が「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)と語り掛け、

弟子たちを招くこの場面を読む度に、私はいつも疑問に思うことがあります。

「なぜ彼らはイエス様に従ったのだろうか」と。

23-25節に描かれている人々については、納得がいくでしょう。

ある人たちは、イエス様の教えを聞いて、

心動かされたから、イエス様に従ったのでしょう。

ある人たちは、悪霊を払ってもらい、病を癒してもらったから。

またある人たちは、奇跡を起こすイエス様の力を目の当たりにしたから、

イエス様に従ったのでしょう。

このように、23-25節に登場する人々に関しては、

彼らがイエス様に従ったその動機を想像できるので、

彼らの行動に納得ができます。

では、あの2組の兄弟たちに関してはどうでしょうか?

ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、

なぜイエス様に従ったのでしょうか。

残念ながら、彼らがイエス様に従った動機は記されていません。

ペトロたちにとって、イエス様との出会いは突然のものでした。

漁師である彼らは、いつものように朝を迎え、仕事に出て行き、

いつものように、ガリラヤ湖で仕事をしていたのですから。

そんな時彼らは、突然、イエス様から声を掛けられたのです。

「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)

彼らがイエス様に従った理由は、

イエス様の教えを聞いたからでも、病を癒されたからでも、

奇跡を目の当たりにしてからでもありませんでした。

もちろん、彼らには彼らなりの理由があって、イエス様に従ったのだ思います。

しかし、その動機を福音書記者マタイは書き記しませんでした。

彼らがイエス様に従った動機について、沈黙することによって、

マタイはあるひとつのことを強調しています。

彼らがイエス様に従って、弟子となった理由はただひとつである、と。

それは、彼らがイエス様に名前を呼ばれて、従うようにと招かれたからです。

イエス様が招くならば、抵抗できない。

神の招きとは、そのような力強いものなのだと、

この物語は証言しているのです。

イエス様に従う者たちが心の中で抱く様々な動機が、

イエス様に従う者たちを、イエス様の弟子にするのではありません。

イエス様の招きが、イエス様の招く声が、

イエス様に従う者たちを、イエス様の弟子にするのです。

それは、いつもイエス様のそばで過ごしていた、

ある特定の人々にのみ言えることではありません。

いつの時代の信仰者にも言えることです。

私たちが、イエス様に従う動機は、実に様々です。

しかし、私たちが抱く動機が私たちに信仰を与え、

私たちをイエス様の弟子にするのではありません。

そうではなく、神の招きこそが、私たちに信仰を与え、

私たちをイエス様の弟子にするのです。

 

【「あなたらしく」神を証しする】

では、イエス様は、ご自分の弟子として招いた者たちに、

どのように語られたのでしょうか。 

また、弟子たちに、どのように生きるように招かれたのでしょうか。

さきほど読まれた箇所で語られているのは、

私はあなたがたを「人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)

という、シモンとアンデレに向けられた言葉です。

「あなたがたは、これまで漁師として生きて来たが、

これからは、人々を神のもとへと招く者になる」

とイエス様は、シモンとアンデレに語りました。

興味深いことに、イエス様は、

シモンとアンデレが漁師であることを受け止めた上で、

そして、彼らのこれまでの歩みや、彼らの個性、人格などを知った上で、

あなたがたを「人間をとる漁師にしよう」と招いておられるのです。

それは、イエス様に従って生きることは、

これまでの彼らの経験や漁師であることが

否定されるのではないことを意味します。

いや、寧ろ、イエス様の弟子として生きるとき、

今までの経験のすべてが豊かに用いられる、というのです。

ですから、漁師であるシモンとアンデレは、

もっとも相応しい言葉で、イエス様からの招きを受けたのです。

そうであるならば、もしも、シモンとアンデレが漁師ではなかったら、 

イエス様は別の表現を用いて、彼らを招いたことでしょう。

彼らが大工であったなら、「人間を建てる大工にしよう」と語りかけ、

教師であったなら、「人間を育てる教師にしよう」と、

そして、料理人であったなら、「人間に塩気を与える料理人にしよう」

という具合に語りかけたことでしょう。

ですから、イエス様は、すべての人々に最も相応しい招きをなさるはずです。

あなたらしく、神の栄光を証ししなさいと、

イエス様はすべての人々に語り掛けておられるのです。

自分らしく生き、自分らしく神を証しするとき、

私たちは神の言葉を携えて生きる、メッセンジャーとなります。

いや、私たち自身が、神の招く声として、神に用いられるのです。

しかし、私たちはそれと同時に、この世が発する声から招きを受けています。

この世は、私たちに語りかけ、要求してくるでしょう。

あなたが、自分らしく生きられるなんて、幻想だ。

与えられている持ち味、特徴、個性というものを殺し、

ある決まった型に合うような人間でいなさい、と。

そして、もしもその型に合わないならば、他のところへ行きなさい、と。

このような声は、私たち一人一人の存在を、最も良い方法で活かし、

豊かに用いる、神の招く声とは正反対のことです。

神は、様々な人々をキリストの弟子として選ばれます。

神が選ぶのは、ある決まった型にはまった人だけでもなければ、

高い能力を持っている人だけでもありません。

神が私たちを選ぶ理由は、学歴があり、優秀だからでも、

まして、血によるつながりでもありません。

神はすべての人を、自由に招かれます。

そして常に、神の側に理由があるのです。

神が招かれたから、神の恵みによって、

私たちはキリストの弟子とされました。

そして、神の自由な招きの中で生かされているから、

私たちは、自分らしく生きることによって、

神の栄光を現すことができるのです。

 

【「天の国」という新しい現実を生きる】

さて、このような「自由」と「多様性」に溢れた、

神の招きを見つめる一方で、見落としてはいけないことがあります。

それは、イエス様に従った弟子たちが、

ただイエス様の後をついていっただけではないことです。

ペトロとアンデレは、網を捨て、 

ヤコブとヨハネは、舟と父親を残して、

イエス様に従ったとマタイは報告しています。

ということは、イエス様に従うために、

私たちは何かを捨てる必要があるのでしょうか。

正直、それはとても不安を抱き、葛藤を覚える言葉でしょう。

しかし、ペトロとアンデレは、網を捨て、 

ヤコブとヨハネは、舟と父親を残して、イエス様に従いました。

つまり、人によって、捨てるものに違いがあります。

ですから、誰もが職を捨て、財産を捨て、

そして、家族を捨てなければならないわけではありません。

では、私たちはイエス様に従って歩むとき、

何を捨てるようにと招かれているのでしょうか。

それは、イエス様が私たちに語りかけてくださった言葉と

深く関係しています。

私たちは、イエス様に招かれ、イエス様の言葉を聞きました。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)

 

ですから、イエス様に従うということは、イエス様が語った、

「天の国」という新しい現実が来ることを受け入れるということです。

そして、「天の国」というその新しい現実を生きるために、

私たちは、何かを捨てなければならないのです。

それは、「自分がしがみついている世界」です。

私たちが「しがみついている世界」とは何でしょうか。

それは、自分がこうであって欲しいと望む世界です。

自分を中心に置いて、自分の理想通りにまわる世界を私たちは望みます。

そして、そのような世界の実現のために、

私たちは日々奮闘し、理想にしがみついています。

またそれは、この世界はこういうものだと諦めてしまうような世界です。

悲しみや失望に慣れきってしまう。

争いや抑圧があるのは当然のこと、

人々が愛し合えず、憎しみ合ってしまうのは、

自然なことだと思い込んでしまう。

そのような世界を私たちは思い描き、しがみついてしまっています。

だから、イエス様は私たちに語りかけてくださったのです。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)

 

天の国とは、神の支配を意味します。

ですから、天の国が近づいたということは、

私たちが思い描いている世界とは、決定的に違う世界が訪れるということです。

神の支配が将来訪れることは、預言者たちが語り続けたことでしたし、

旧約聖書の時代から、人々が、心から待ち続けてきたことでした。

預言者イザヤはこのように預言しました。

 

太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となりあなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなくあなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となりあなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ60:19-20)

 

そこで描かれているのは、

太陽と月が、私たちのこの世界を光り照らす世界ではなく、

主なる神が私たちの永遠の光となる世界です。

嘆きの日々は終わることがないと諦め、失望する世界ではなく、

嘆きの日々は終わると宣言された世界です。

この光景を想像してみると、

私たちが思い描く世界とは、

決定的に違う世界が訪れることがわかるでしょう。

同じように、いやそれ以上に、イエス様が「天の国は近づいた」と語り、

私たちを招いている新しい現実は、

私たちが頭のなかで思い描いている世界のあり方とは、

決定的に違う世界であり、

神が与えてくださった約束に基づく、希望にあふれる世界なのです。

ですから、最早、私たちは自分たちが思い描いている世界に

しがみつく必要はありません。

自分を中心に置いて、自分の理想通りにまわる世界を望み続ける必要も、

自分の理想の世界の実現のために、

日々奮闘し、疲れ果てる必要もありません。

神が、私たちに対する愛に基づいて、

私たちの歩みを導いてくださるのですから。

また、私たちが招かれている新しい現実とは、

悲しみや失望に慣れきってしまった世界でも、

争いや抑圧があるのは当然のことだ諦めている世界でもありません。

そうではなく、人々が愛し合い、赦し合って共に歩むことができ、

そして、弱い者、虐げられている者にこそ、手が差し伸べられるのです。

これが、イエス様が「天の国は近づいた」と語り、

私たちを招いていおられる新しい現実です。

ですから、キリストの弟子とは、

このような新しい現実を受け入れて生きる者です。

そして、キリストの弟子として招かれている私たちの課題は、

「この新しい現実を喜べているか」ということです。

胸躍るような新しい現実に招かれていることを、

私たちが心から喜ぶとき、私たちの生き方は、神の招く声となります。

キリストの弟子として生きる私たちを通して、

神は私たちの周囲の人々を、自由に招かれるのです。

 

【主イエスが招く声を聞いたならば】

さて、このような喜ぶべき神の招きを聞くとき、

私たちはいつもチャレンジを与えられることになります。

「あなたは、慣れきった世界に留まるのか。

それとも、神が約束されている新しい現実を生きるのか」と。

漁師であった人々が職をなくし、父親を置いていったように、

しがみついてきた世界を捨てて、神の約束する世界へと

この足を踏み出すことは、不安定な歩みに思えるかもしれません。

しかし、この天の国という新しい現実へと招いた方は、

イエス様はご自分の弟子と共に歩んでくださいます。

神が約束を与え、神が道を示し、神が共に歩んでくださるのです。

だから、キリストの弟子として生きることは、

胸躍る喜びに満ちた歩みなのです。

神は、この聖書という書物を通じて、私たちに問いかけ続けておられます。

「イエス様が招く声を聞いた時、あなたはどう応えるのか?」と。

どうか、神が招かれる新しい現実に、希望を抱き、

喜びに心を踊らせて、歩み出すことができますように。