「鶏は何度鳴いた?」

「鶏は何度鳴いた?」

聖書 ヨハネによる福音書18:15-27、士師記2:8-15 

2016年2月21日 礼拝、小岩教会(日本ナザレン教団)

説教者 稲葉基嗣 牧師

 

【ペトロの三度の否定】

イエス様は、兵士たちやユダヤ人の下役たちに、

ゲツセマネの園で捕らえられた後、アンナスのもとへ連れて行かれました。

この当時の大祭司はカイアファという人でしたが、

アンナスは、カイアファの前任の大祭司であり、

大祭司を退職した後も、強い影響力を持っていました。

そのため、大祭司カイアファのもとへイエス様を連れて行かせる前に、

アンナスは、自分のもとへイエス様を連れてこさせたのです。

さて、この時、アンナスのもとへ連れて行かれる

イエス様の後を追う2人の弟子たちがいたと、ヨハネは報告しています。

それは、「十二弟子」のリーダーであるシモン・ペトロと、

「もう一人の弟子」と呼ばれている人物でした。

イエス様がゲツセマネの園で逮捕された時、

彼らはイエス様を見捨てて逃げてしまいましたが(マルコ14:50)、

どうやら気を取り直して、イエス様の後を追ったようです。

ヨハネによれば、ペトロと一緒にイエス様の後を追った、

「もう一人の弟子」と呼ばれている人物は、

アンナスと知り合いだったようです。

そのため、彼は一緒に来たペトロを連れて、

アンナスの屋敷の中庭にまで入ることができました。

すべての福音書に記されているあの有名な事件が起こったのは、

この時のことでした。

ペトロがイエス様のことを、3度「知らない」と言った事件です。

この話は、なぜこれほど有名な話になったのでしょうか。

それは、この出来事が起こる以前に、 

イエス様がペトロに語ったある言葉が関係しています。

イエス様が捕らえられるその夜、「最後の晩餐」と呼ばれる食事の席で、

ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)

と言った直後に、イエス様は、ペトロにこのように語りました。

 

鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(ヨハネ13:38) 

 

悲しいことに、その後、イエス様が言われた通りになってしまったのは、

先ほど読まれた箇所の通りです。

ペトロは3度、イエス様を否定しました。

そして、ペトロが3度イエス様を否定したその時、

鶏の鳴き声が聞こえてきました。

この鶏の鳴き声は、ペトロの心にどのように響いたのでしょうか。

他の3つの福音書を見ると、ペトロは泣いたことが記されています。

イエス様を信じていると言いながら、否定してしまう自分が恥ずかしくなって、

彼は涙をこらえ切れず、泣いたのでしょう。

自分の罪深さに耐え切れなくなって、

自分自身に失望して、彼は涙を流したのでしょう。

 

【主イエスに従いながら、主イエスを否定する】

しかし、今日私たちが読んだヨハネによる福音書に

目を移してみると、どうでしょうか。

鶏が鳴いた直後のペトロの反応について、ヨハネは完全に沈黙しています。

そして、「するとすぐ、鶏が鳴いた」(ヨハネ18:27)という報告がなされて、

ペトロはこの受難の物語から姿を消してしまいます。

鶏が鳴いた後のペトロの行動を、読者に想像させるためなのでしょうか。

このヨハネによる福音書は、

4つの福音書の中で1番最後に書かれた福音書だと考えられています。

ですから、ヨハネによる福音書が書かれた当時に、

この福音書を読んだ人々の多くは、少なくとも

1番最初に書かれた福音書である、マルコによる福音書は知っていると思います。

そうであるならば、この時に、ペトロが泣いたことは

人々によく知られていたことだったといえます。

しかしそれにも関わらず、ヨハネは、

イエス様を3度否定した直後のペトロについて、沈黙するのです。

それは、読者である私たちが、自分とペトロを重ね合わせるためでしょう。

ヨハネは、ペトロの情報を打ち切ることによって、

私たちに問い掛けているのです。

「もしも、あなたがペトロの立場だったら、

この鶏の鳴き声を聞いた時、どのような反応をしますか」と。

私たちがペトロの立場であったなら、

当然、他の福音書に描かれているように、彼と同じように、

自分の罪と向き合う時、私たちはただ泣き崩れるしかありません。 

何より、イエス様と一緒に過ごしてきた、これまでの日々のことを思い起こすと、

その悲しみや失望は、より深まるばかりです。

この時のペトロは、単にイエス様を否定したわけではありませんでした。

彼の心をどん底にまで突き落としたのは、

彼が、イエス様に従いながら、イエス様を否定したという事実でしょう。

ペトロはイエス様に従って、イエス様について行きました(ヨハネ18:15) 。

しかし、彼はイエス様の後を追って来たそのときに、イエス様を否定したのです。

その上ペトロは、イエス様に敵対する人々の仲間であるかのように振る舞い、

うまくその場に紛れ込み、溶け込もうとしました。

18節にこのように記されています。

 

僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。(ヨハネ18:18)

 

彼はイエス様に敵対する人々と一緒に火にあたり、暖を取っていました。

人々が語るイエス様のうわさ話や悪口などを聞いて、

適当に相槌を打つペトロの姿。

そして、自分がイエス様の弟子だとバレないように、

目立たないように、コソコソしているペトロの姿が想像できるでしょう。

これは、イエス様に従いながら、

イエス様を否定する歩みができる証拠に他なりません。

それは当然、ペトロ個人の、彼特有の問題ではありません。

イエス様に従いながら、イエス様を否定すること。

それは、私たちも抱える問題なのです。

 

【鶏は何度鳴いた?】

ですから、自分自身にこのように問い掛けてみましょう。

「もしも、3度イエス様を否定する度に、鶏が鳴くのだとしたら、

私たちの人生の中で鶏は何度鳴いているのだろうか」と。

このように自分に問いかけてみると、私は胸が痛みます。

これまでに一体どれほど、イエス様を否定したことでしょうか……。

イエス様を信じていることを、この口で否定することだけが、 

イエス様を否定することではありません。

私たちの言葉や行動が、イエス様の喜ばれるものでないとき、 

私たちは、「私」という存在を通して、

イエス様を信じていることを否定しています。

人を傷つける時、イエス様も傷ついています。

争い合う時、イエス様もその争いを悲しんでいます。

人を無視する時、互いに愛し合いなさいと言われたイエス様を無視しています。

自分の考えを押し付けることで、目の前の相手を否定しているとき、

イエス様を押しのけて、自分を神の位置においています。

イエス様のことを、この口では信じていると言いながら、

イエス様を否定した歩みを、私たちはあまりにも簡単にすることができるのです。

私たちは一体どれほど、イエス様を否定してきたのでしょうか。

あぁ、私たちの人生において、鶏は一体何度鳴いたのでしょうか……。

 

【私たちのため、主イエスは十字架へ向かって歩んだ】

このように自分の罪や過ちを見つめて、失望し、思い悩む私たちに、

神は「しかし」と語り掛けてくださいます。

「あなたは自分の罪と向き合う時、

自分ではどうしようも出来ず、苦しんでいる。

《しかし》、そんなあなたのために、

私は独り子であるイエスをあなたたちのもとに送ったのだ」と。

ペトロが「違う」と言って、イエス様と自分の関係を否定したそのとき、

鶏が鳴いたそのとき、

イエス様は大祭司の前に立って、裁判を受けていました。

刻一刻と、御自分の死へ向い、十字架へ至る道を歩まれました。

それは、イエス様自身が抱える罪のためではなく、

私たちが抱える罪のためでした。

イエス様を否定することしか出来ない私たちの罪を赦すため、

イエス様は十字架へ至る道を進んで行かれました。

イエス様が裁判の席に立ち続けているのは、 

「それでも、あなたを赦そう」と、

ペトロに、そして私たち一人一人に言われている証拠です。

私たちがイエス様を否定するため、何度も何度も鶏が鳴き続けるから、

私たちの罪の現実が、これほどまでに悲惨だから、 神は憐れんでくださいました。

だから、イエス様が十字架の死へ向かって歩まれたのです。

 

【鶏は今日も形を変えて鳴き続ける】

もしも私たちが、ただ自分の罪のみを見つめるならば、

ペトロがイエス様を否定した時に聞こえてきた、この鶏の鳴き声は、

私たちに対する神の戒めの響きだと感じてしまいます。

「鶏の鳴き声が聞こえる前に、神に立ち帰りなさい」と。

しかし、イエス様がペトロのために、

そして私たちのために、裁判の席に立って、

十字架へ向かう道を歩んでいることに気付くとき、

この鶏の鳴き声は、決して神が与えた戒めや警告ではないことに気付かされます。

この鶏の鳴き声は、神の憐れみと恵みを告げるものです。

それは、神から離れて生きている自分の姿に気付かせるための、

恵みに満ちた鳴き声です。 

そしてそれは、私たちの罪を赦すために、私たちを徹底的に愛し抜くために、

イエス様が立っている事実に気付かせるために、鳴り響いています。

そして、罪の赦しを宣言し、神の愛と憐れみを告げ知らせます。

この鶏の鳴き声は、私たちに対する神の恵みそのものなのです。

今日も、明日も、そしてこれからも、私たちを神のもとへと呼び戻すため、

この鶏の鳴き声は、この時とは違う形で、

様々な形で鳴き続け、この世界に響いています。

それは、礼拝を通して、賛美や祈り、聖書の言葉を通して、

私たちのもとに届いている鶏の鳴き声かもしれません。

また、それは、周囲の人との関わりの中から聞こえてくる鳴き声かもしれません。

神は、様々な出来事を豊かに用いて、思いがけない方法を用いて、

今日も私たちに、鶏の鳴き声を届けてくださるのです。

ですから、鶏が鳴く度に、私たちは神の恵みを知り、神に感謝しましょう。

鶏の鳴き声を聞いた時、

私たちは、私たちが本来いるべき場所がどこであるのかを告げられます。

ですから、この鶏の鳴き声を聞いた時、

本来いるべきではない場所から立ち上がり、

喜びをもって、神のもとへと立ち帰って行こうではありませんか。

さぁ、神の語る言葉に耳を澄ましましょう。

鶏は、何度鳴いていますか。