「この人を見よ」

「この人を見よ」

聖書 ヨハネによる福音書19:1−16、ゼカリヤ書6:12 

2016年3月6日 小岩教会、礼拝 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【「見よ、この男だ」】

 

「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 

 

そう言って、ピラトが指差したその人は、 

実にみすぼらしい姿をしていました。 

その人は、鞭を打たれた後であったため、弱り果て、

身体のいたるところの肉が削がれ、 体中から血が流れ出ていました。 

その上、ローマの兵士たちから何度も、何度もビンタされたため、 

顔もボロボロになり、見るに耐えない有様でした。 

また、その人は「ユダヤ人の王を自称した」という理由で、

逮捕され、ピラトのもとに差し出されてきました。

そのため、ローマの兵士たちは、彼に紫の服を着せて、

嘲りの象徴である茨の冠をその頭に置き、

王さまのような姿に仕立てあげました。 

それは、「ユダヤ人の王」と呼ぶにはあまりにも滑稽で、無様な姿でした。

彼に対して人々が抱く憎しみや嘲りに対して、 

彼は、あまりにも無防備でいました。

このように、弱々しく、みすぼらしい姿で立つこの男を指差して、

ピラトはユダヤ人たちに向かって言ったのです。 

 

「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 

 

【主イエスを釈放しようと努めるピラト】

ピラトが指差したその男の名前は、イエスといいました。 

そう、様々な奇跡を行い、驚くべき教えを語った、あのイエス様です。

罪人と言われる人々の友となり、

弱さを覚え苦しんでいる人々に寄り添って歩んだ、あのイエス様です。

ユダヤ人たちに逮捕され、ローマの兵士たちにたくさんの暴力を受け、

今、裁判の席に立たされているイエス様を、

ピラトはなぜ「見よ、この男だ」と言って、指差したのでしょうか。 

それは、ユダヤ人たちの同情を誘うためでした。

ピラトは、ユダヤ人たちが「この人は罪人です」

と言って連れてきたイエス様を尋問する中で、

「この男に罪を見出すことが出来ない」と判断しました(ヨハネ18:38)。

ユダヤ人たちの訴えは、イエス様に対する彼らの憎しみや妬みから

来ているものだと、ピラトは見切っていたのだと思います。

そのためピラトは、イエス様をユダヤ人たちの前に連れて来て、

鞭打ちによって傷つき、弱り果てたイエス様のその姿を、彼らに見せました。

そうすることによって、彼らの同情を誘い、

彼らが執拗に叫び続ける、イエス様に対する無意味な訴えを、 

取り下げさせようとしたのです。

このときのピラトは、それに加えて、

何度も何度もユダヤ人たちの説得を試みました。 

「過ぎ越し祭」というユダヤ人たちの祭りのとき、

一人の罪人を釈放することが慣例となっていたようです(ヨハネ18:39)。

ピラトはこの慣例を用いることによって、 イエス様を釈放しようとしました。

しかし、ユダヤ人たちは、

バラバという強盗の釈放を求めました(ヨハネ18:40)。

また、本来、十字架刑に決まった者が受ける鞭打ちを、

刑罰に定まる前に行うことによって、ユダヤ人たちのうっぷんを晴らそうとした。

しかし、このようなピラトの努力も虚しく、

事態はますます悪くなるばかりでした。

「殺せ、十字架につけろ」というユダヤ人たちの声は、

ますます高まるばかりでした。 

その上、彼らは自分たちの願いを通すため、

 

「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19:12)

 

と叫び、ピラトを脅すことまでし始める有様でした。

ピラトの行った、イエス様を釈放するための試みは、

すべて失敗に終わってしまったのです。

 

【誰が王であったか?】

このように、熱狂的にイエス様の死刑を求めるユダヤ人たちを前にして、

ピラトは最終的に折れてしまい、イエス様をユダヤ人たちに明け渡し、

十字架刑へ至る道を開いてしまいました。

このときピラトは、最後の最後に皮肉を込めて、

ユダヤ人たちに向かって言いました。

 

「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」(ヨハネ19:15) 

 

このピラトの言葉を聞いたとき、

その場にいたユダヤ人たちから返って来た答えに驚かされます。

 

「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」(ヨハネ19:15) 

 

イエスを妬み、憎しみ、十字架にかけて殺したいと願うあまり、

彼らは「皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。

ユダヤ人たちにとって、

「神のみが自分たちの王」だったはずではなかったでしょうか。

旧約聖書の時代に立てられた、イスラエル・ユダヤの王たちでさえ、

王である神の代理人と考えられていました。

中には、そのような考えさえ認めず、

人間の王を立てることに反対する人々までいたほど、

ユダヤ人たちは、いつの時代も徹底的に

「神のみが自分たちの王です」と信じ、告白してきました。

そのため、イエス様の裁判の場にいたユダヤ人たちが、この時に

「皇帝のほかに王はありません」と語ったことには、驚きを覚えます。

それは、大切にしてきた自分たちの信仰を、

否定するかのような発言だったからです。

彼らは、ローマの皇帝さえも利用して、イエス様を殺そうとしたのでしょう。

その意味で、この時の彼らの王は、実際のところは、

神でも、ローマ皇帝でもなく、彼ら自身だったといえるでしょう。

彼らは、自分自身の願いや思いを貫き通すために、

神を王座から引き下ろし、自分がその王座について行動したのです。

考えてみると、このとき、多くの人々が

自分が王であるかのように振る舞いました。

自分自身に力があるかのように思い、

自分の決定が、すべてを決めるかのように考え、

イエス様に対して、王のように振る舞ったのです。

ピラトがイエス様に語った言葉が、それを象徴していると言えるでしょう。 

ピラトは、自分の質問に対して沈黙するイエス様に、こう言いました。

 

「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」(ヨハネ19:10) 

 

この言葉に対して、イエス様は口を開き、このように答えました。 

 

「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハネ19:11) 

 

イエス様の語ったこの言葉は、

この出来事の背後にある真実を伝えています。

このとき、ピラトも、ユダヤ人たちも、ローマの兵士たちも、

誰もが自分の力によって、イエス様を十字架にかけて、

イエス様の命を奪うことが出来ると考えていました。

しかし、イエス様は言われます。

 

神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。(ヨハネ19:11)

 

イエス様が傷つき、血を流し、人々から罵られ、

十字架にかけられ、死に至る、この出来事が起こるのを、

最終的に許可したのは、ピラトでもなく、ユダヤ人でもありません。

この出来事が起こるのを許可したのは、イエス・キリストの父なる神です。

これこそが、この出来事の背後にある真実です。

神が許可されたから、そして、神の計画にイエス様が従ったから、

イエス様は血を流し、人々からあざ笑われ、

このようなみすぼらしい姿になったのです。

 

【ほかのだれによっても、救いは得られない】

神の計画とは、私たちを救いへと導くための計画でした。

本来、私たち人間は、神との豊かな交わりに生き、

周囲の人々と愛し合って生きる者として、神に造られました。

それにも関わらず、神も、周囲の人々も愛せない。

憎しみや妬みに心が支配されて、争い合い、人を傷付けてしまう。

自分の目的にばかり捕らわれ、神を忘れて生きてしまう。

自分の利益ばかり考え、他人のことを顧みずに行動してしまう。

神を信じていると口では言いながら、神との交わりを拒否してしまう。

これが私たちが抱える罪の現実です。

私たちが罪を抱えて苦しむ姿を、神は放っておくことが出来ませんでした。

私たちを愛してやまないから、

神は、イエス様を私たちのもとに送ってくださったのです。

だからこそ、神はこの時、ピラトの口を通して語られたのです。

 

「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 

 

私たちが見つめるその人は、イエス様は、

傷ついて血を流し、人々からあざ笑われ、みすぼらしい姿で立っています。

なぜイエス様はこれほどまで傷ついているのでしょうか。

なぜ神はイエス様が血を流して苦しむ計画を立てられたのでしょうか。

直接的に、イエス様のその傷は、ユダヤ人たちの拒絶のしるしです。

しかし、彼らが憎しみや妬みに心を支配され、

神ではなく、自分を王の座につけて行動していたことを考えると、

決して、イエス様の傷の原因は、彼らだけにあるとは言い切れません。

もしも私たちがその場にいたのならば、

当然、私たちもイエス様を拒絶してしまったことでしょう。

ですから、イエス様のその傷は、私たちの拒絶のしるしでもあるのです。

そうです、私たちの抱える罪がイエス様をこのような姿にしました。

ですから、神は私たちに語り掛けます。

「この人を見よ。

そして、自らの罪を知り、私のもとに立ち帰りなさい」と。

しかし、神は私たちを罪人に定めるために、

イエス様を傷つけたのではありません。

私たちの抱える罪を解決するため、神はイエス様を傷付け、

十字架にかけて、イエス様の命を奪いました。

これが、私たちを救いへと招くために、神が取られた方法でした。

そして、このような神の計画にイエス様が心から従ったのは、

私たちを愛したからにほかなりません。

私たちは、イエス様のうちに、愛を見出し、愛を知ることができるのです。

イエス様は私たちにこのように語り掛けておられます。

 

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(ヨハネ15:12−14)

 

イエス様は語られたとおりに、私たちに愛を伝えるために、

その身を投げ出して、愛を示してくださいました。

私たちの友となるために、傷つき、血を流してくださいました。

「この人を見よ」と語り掛けられ、イエス様の姿を見つめるとき、

私たちはイエス様に愛されたように、

互いに愛し合って生きるようにと招かれているのです。

しかし、私たちはあまりにも簡単に、

イエス様が示してくださった愛を忘れてしまいます。

だからこそ、神は、今日も私たちに語り掛けておられるのです。

 

「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5) 

 

イエス様を見つめて、愛を知って欲しい。

そして、主イエスがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

それによって、主イエスの友として生きて欲しい、と。

どうか神の招きに応えて、主イエスを見つめ続けて歩むことができますように。