「主イエスの渇きによって命を得る」
聖書 ヨハネによる福音書19:28-37、イザヤ43:1-2
2016年3月20日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【「わたしは渇く」】
「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)。
イエス様が十字架の上で、こうつぶやいたとヨハネは記しています。
なぜ十字架の上で、イエス様はこのようにつぶやいたのでしょうか。
単に、喉の渇きを覚えたからでしょうか。
どうやら、ローマの兵士たちは、そのように受け取ったようです。
彼らは、酸いぶどう酒を含ませたスンポンジをヒソプという植物につけて、
イエス様の口もとに差し出しました。
ただし、そのぶどう酒の量は、喉を潤すには十分な量とはいえなかったでしょう。
きっとローマの兵士たちは、イエス様をからかう目的で、
「渇いた」とつぶやいたイエス様に、酸いぶどう酒を飲ませたのだと思います。
しかし、イエス様は喉が渇いたという意味で、
「わたしは渇く」と言われたのではありません。
それは、旧約聖書の詩編69篇に記されている祈りでした。
詩編69篇をうたった詩人は、このように祈りました。
神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み奔流がわたしを押し流します。叫び続けて疲れ、喉は涸れ わたしの神を待ち望むあまり 目は衰えてしまいました。(詩編69:2-4)
この詩編は、苦しみの中にある信仰者の痛烈な叫びです。
水の中で溺れそうになるほどの息苦しさを感じ、
神の救いをひたすら待ち望んで、彼は叫び続けました。
「神よ、わたしを救ってください」と。
詩人は、喉が涸れてしまうほど、神に向かって叫び続けたようです。
「わたしは渇く」と十字架の上でつぶやいたイエス様は、
この詩編の詩人と思いを重ねて、
「神よ、救ってください」と心で叫び続けたのです。
そして、神に向かって叫び続けたため、イエス様は渇きを覚えたのです。
イエス様が覚えたその渇きとは、「霊の飢え渇き」というべきものでした。
イエス様は、神との交わりに飢え渇いていたのです。
【神との交わりに飢え渇く】
神の子であるイエス様は、いつも神と親しい交わりをもっていました。
朝から晩までいつも神は共にいてくださるとイエス様は強く実感していました。
散歩をしているときも、食事をしているときも、
弟子たちと雑談をしていたときも、人々が敵対してくるときも、
人々の不信仰な現実に嘆いているときも、神はいつも変わらずに、
イエス・キリストの父なる神であり、イエス様と共に歩む方でした。
しかし、イエス様が十字架にかけられたこのときは違っていました。
イエス様は、神から見捨てられ、神との親しい交わりを失てしまったのです。
それは、想像も絶するほどの苦しみと、
言葉にできないほどの深い悲しみが伴うことだったと思います。
今まで当たり前であった神との交わりを失ってしまったのですから。
このとき、イエス様は、死に向かう苦しみや肉体の痛みを味わい、
人々から受ける蔑みや辱めに耐えていました。
それに加えて、神に完全に見捨てられることをイエス様は経験したのです。
絶望したことでしょう。
だから、ひたすら神との交わりが回復されることを
祈り求めて、つぶやいたのです。
「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と。
【「神の義」から遠く離れている私たち】
ところで、イエス様はなぜ神から見捨てられたのでしょうか。
イエス様が神を冒涜し、神に背いた歩みをしていたからでしょうか。
イエス様を敵視して、イエス様を殺そうと企んだ人々は、
「あの男は、神の子であると自称して、神を冒涜している」
とローマ総督のピラトに訴えました。
しかし福音書を読むとき、イエス様が神を冒涜し、
神に背く歩みをしていたとは、とても思えません。
寧ろ、イエス様は誰よりも、神を愛する人でした。
誰よりも憐れみの心をもって行動し、
誰よりも神と人を愛し、神と人に心から仕える人でした。
そんなイエス様の姿を見つめるとき、
彼のうちに、神に見捨てられる理由など見つけ出すことなどできません。
事実、イエス様自身の側に原因はありませんでした。
原因は他にありました。
神がイエス様を見捨てた理由について、使徒パウロは、
コリントの教会へ宛てて書き送った、第二の手紙の中で、
このように書いています。
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(Ⅱコリント5:21)
「私たちが神の義を得ている状態」 とは、
私たちが神と神が愛するすべての人々と、
正しい関係を築くことが出来ている状態です。
それは、私たちが神を神と認め、神を愛し、共に生きるすべての人々と、
神の愛によって結ばれた関係を生きることといえるでしょう。
パウロによれば、この「神の義」を私たちが得るために、
神は「罪と何のかかわりもない方」であるイエス様を罪に定めました。
ということは、私たちは「神の義」を失っている状態だったということです。
実際、神の義ではなく、自分の義を振りかざして、
神を無視し、好き勝手に振る舞う人間の姿が、聖書には描かれています。
「主のみを愛しなさい」と語られているのに、他の神々を拝んだ人々の姿や、
愛し合いなさいと言われているのに、憎しみ合ってしまう人々の姿を、
私たちは聖書を読むとき、簡単に見つけることが出来ます。
しかし、「神の義」を失って生きているのは、
何も聖書の時代の人々だけの話ではありません。
今を生きる私たちも、彼らと何も変わりません。
どれだけ文明が進んでも、どれだけ歴史を重ねても、
神との関係が私たち人間の力で改善されることはありませんでした。
寧ろ、新しい技術を見出し、力を身につけるほど、
神など必要ないと言って、自分の力に頼って生きようと奮闘してきたのが、
私たち人間の歴史ということができるでしょう。
また、神が「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)
と語り掛けても、そして私たち自身が平和を心から願っても、
憎しみに心が支配されて、復讐や争いを起こすことを選び続けています。
ですから、神の義から遠く離れているのは、
聖書に記されている時代の人々だけではありません。
私たちこそ、神の義から遠く離れている者なのです。
【なぜ神は、主イエスを見捨てたのか?】
しかし、神から遠く離れて生きる私たちを、神は見捨てませんでした。
私たちが神の義を得て、神と正しい関係を築き、神と交わりをもつために、
神の側から近づいて、私たちが抱える「罪」を解決してくださいました。
そう、神は私たち人間と関わり続けることを諦めなかったのです。
神の言葉を聞かず、神を裏切り、自分勝手に生きる私たちを、
神の側から見放し、関係を断つことは簡単に出来ました。
それにも関わらず、神は、私たち人間を愛する決断をしてくださったのです。
神が、神の義から遠く離れて生きる私たちに、
神の義を得させるために取った方法は、
独り子であるイエス様を私たちのもとに送ることでした。
そして、私たち人間の罪をすべて背負わせて、
イエス様を十字架にかけ、殺すことでした。
そうです。私たちが神から遠く離れて生きていたから、
イエス様は罪がないにも関わらず、罪人に定められて、
十字架の上で死ななければならなかったのです。
イエス様が神から見捨てられて、十字架の上で死んだ理由は、
私たちが神から遠く離れて生きていたからです。
だから、私たちを神との豊かな交わりへと再び呼び戻すために、
イエス様が犠牲となってしまったのです。
私たちすべての人間の罪を背負って、罪人に定めたため、
イエス様は、神から完全に見放されることになりました。
それは、私たちが本来たどるべき道でした。
私たちこそが、本来、神から見放されて、神との交わりに飢え渇くべきでした。
しかし、イエス様が代わりに神に完全に見捨てられ、
神との交わりに飢え渇いたのです。
「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)とつぶやいた、イエス様の言葉は、
私たちの代わりに語られた言葉だったのです。
私たちが神との交わりに渇くことなく、
神との関係を回復し、命を得るために、イエス様が渇きを覚えられたのです。
ですから、イエス様は「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と
死を迎える直前に語り、息を引き取りました。
このとき、すべての人に罪の赦しを与え、
救いを得させるための、神の業が完全な形で完成したのです。
イエス様のこの言葉は、
私たちの救いは、徹底的に受け身であることを示しています。
神との関係は、私たちが積み重ねる努力や善い行いによって、
達成できるものではありません。
救いは、ただ神の一方的な恵みによるものなのです。
私たちに出来ることはただ一つ。
神の行う業を知ったとき、喜んで受け取ることのみなのです。
【いのちは溢れ出る】
さて、このとき、不思議なことが起こったとヨハネは報告しています。
イエス様の遺体に、ローマの兵士の一人が槍を刺すと、
「血と水とが流れ出た」(ヨハネ19:34)というのです。
それは、イエス様のうちから命が流れ出たことを象徴するような出来事でした。
イエス様の死によって、十字架の上で流された血によって、
私たちには命が与えられました。
死んでいたも同然だった神との関係が、イエス様の犠牲によって回復され、
新しい命を与えられたのです。
イエス様から流れ出たこの命は、すべての人々のために流されたものです。
渇くことのない水が湧き出る、喜びの泉は、主イエスのもとにあります。
ですから、イエス様によって与えられた命を感謝して受け取り、
喜びをもって神との関係を生きようではありませんか。
そして、神の恵みによって与えられたこの命を、
神によって豊かに用いていただきましょう。
イエス様の死を見つめるとき、私たちはもはや、
この生命は自分一人の力で保つことが出来ているわけではないと気付かされます。
イエス様の死によって、命を与えられたのですから、
私たちは自分のためにのみ、自分の命を用いるべきではありません。
私たちは、命の泉がイエス様から湧き出ていることを知っています。
ですから、神に愛された喜びを胸に、この喜びを分かち合いましょう。
救いは既に成し遂げられたのですから。
目を開いて、この世界を見つめるとき、
そこにはたくさんの「渇き」があることにも気付かされるでしょう。
人間関係の中での渇き。
愛に対する渇き。
平和が実現しないことへの渇きなど、
この世界では「わたしは渇く」という声がいつもどこかで響いています。
満たされない何かに苦しんでいる人が、
私たちのそばにもいるかもしれません。
ですから、「渇き」がある場所に、「渇き」を覚えている人々のもとに、
イエス様から湧き出る血と水とを携えて出て行きましょう。
主イエスによって私たちは、既に命を与えられているのですから。
喜びと感謝をもって、この命を分け与えに行こうではありませんか。