「神の恵みを絶えず求める」
2016年4月3日 礼拝、小岩教会
聖書 マタイによる福音書 5:1-3、申命記 8:11-18
説教者 稲葉基嗣牧師
【「幸いだ!」】
イエス様は山に上り、腰を下ろして、弟子たちに語り掛けました。
そのとき語られた「山上の説教」と呼ばれるイエス様の言葉集が、
マタイ福音書5-7章に記されています。
このときイエス様に語り掛けられた弟子たちは、
「使徒」と呼ばれる12人の弟子たちだけではありませんでした。
「群衆」という言葉も使われていることを考えると、
ここで使われている「弟子」という言葉は、
もう少し広い意味で、使われているといえます。
イエス様のもとに集まって来た人々の中には、
子どもから老人までいたでしょうし、
性別や社会的な地位も問われることなく、実に様々な人々がいました。
イエス様は、そのような人々に向かって、口を開き、語り始めました。
イエス様が最初に語った言葉はこのようなものでした。
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)
日本語訳の聖書ではわからないのですが、
新約聖書が書かれた言語であるギリシア語の聖書を見てみると、
実際の語順は、「幸いだ、心の貧しい者たちは」となっていることに気づきます。
つまり、イエス様は「幸いだ」と宣言することから、
この「山上の説教」を語り始めているのです。
この「幸いだ」という言葉は、祝福の言葉です。
その祝福の根拠とは、神が祝福しているからに他なりません。
私たちには、神に祝福されている現実があるため、
イエス様は「幸いだ」と宣言することから、「山上の説教」を語り始めたのです。
【「心の貧しい人々」とは誰か】
3-12節で、イエス様は合計9回も「幸いである」と語っています。
9回も「幸いだ」と宣言したこの箇所で、
イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである」と
初めに語ることを選ばれました。
心の貧しい人々は、幸いである(マタイ5:3)
一体どういう意味なのだろうと考えさせられる言葉です。
ここで「貧しい」と訳されている言葉は、
「貧困」を意味する「プトーコス」というギリシア語が使われています。
この「プトーコス」という言葉は、
財産を持たず、物乞いをしなければ生きることが出来ないほどの、
極めて貧しい状態を指す言葉です。
しかし、イエス様はこの時、
単に「貧しい人々は、幸いである」とは言いませんでした。
そうではなく、「心の貧しい人々は、幸いである」と語ったのです。
「心の貧しさ」と聞くと、恐らく多くの人は、
考え方が偏っていたり、心が狭かったりする状態を思い浮かべると思います。
しかし、そのような意味でイエス様は「心の貧しい人々」のことを、
「幸いである」と言ったわけではありませんでした。
ここで「心の」と訳されている言葉は、
ギリシア語から直訳すると「霊において」という意味です。
つまり、イエス様はこのように宣言されたのです。
「幸いだ、霊において極めて貧しい人々は」と。
それでは、「霊における貧しさ」とはどのような状態を指すのでしょうか。
それは、神に依存しないと生きることが出来ない状態。
神によってのみ満たされる状態のことです。
そのような状態である人々のことを、
「霊において貧しい人々」とイエス様は表現されました。
霊において、つまり神との関係において、
極めて貧しい状態が「幸いである」というのですから、「心の貧しい人々」とは、
ひたすらに神の恵みを求め続ける人々のことを指す言葉といえます。
ですから、「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉を、
このように言い換えることができるでしょう。
生きていく上で、他の何よりも、神を心から必要とする者たちは、幸いである。
これこそ、この山上の説教で、イエス様が初めに伝えたかったことなのです。
【神の恵みを忘れてしまう私たち】
しかし、このようなイエス様の言葉を喜んで聞く一方で、
イエス様の言葉に反論する声が、私たちの心の中で沸き起こることがあります。
「そもそも、なぜ神に依存して生きる必要があるのだろうか。
神など無視して、自分の好きなように生き、
必要なものは自分の力で手に入れることの方が
私たちにとって幸いではないか」というような声です。
私たちが心で抱くこのような思いを、
旧約聖書の時代の人々も、どうやら同じように感じたようです。
ですから、モーセは人々に向かって警告を与えました。
わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申命記8:11-14)
モーセが「主を忘れることのないように、注意しなさい」と警告を語った理由は、
神の恵みを忘れてしまう危険が、私たちには常にあるからでしょう。
神は、すべてのものを造られた、この世界の創造主です。
そして、すべてを造られた方である神は、
私たちに必要なものをすべて与え、私たちを養ってくださる方です。
食べる物も、飲む物も、着る服も、住む家も、
神が私たちを養ってくださるから与えられているものです。
また、私たち人間は、一人で生きることができるようには造られていません。
そのため、神は友人や家族、愛する人々と私たちを出会わせてくださいました。
そして、私たちの命さえも主である神が与えてくださったのです。
私たちは、自分の力ですべてのものを獲得し、
自分の力のみで生きているのではありません。
神が私たちに必要なものをすべてを与え、私たちを養ってくださるのです。
その意味で、私たちは神の恵みに完全に依存している存在だといえます。
いや、そもそも、神に頼って生きることこそ、
私たち人間の本来あるべき自然な状態なのです。
それにも関わらず、私たちは神からすべてのものを
恵みとして与えられているという事実を忘れてしまうことがあります。
自分の能力や経済力、社会的地位、家族や友人の力など、
様々なものに、絶対的な信頼を置き、
私たちは神の恵みに頼らなくなってしまいます。
私たちがそのような弱さを抱えているから、
モーセは「主を忘れることのないように、注意しなさい」と警告し、
イエス様は、「心の貧しい人々は、幸いである」と語り、
神の恵みを絶えず求めて生きることこそ、幸いであると宣言されたのです。
【神の恵みである福音】
ところで、神が私たちに与えてくださった恵みとは、
私たちが身の周りにあって当然と思っているものだけを指すのでしょうか。
それらひとつひとつは、もちろん、かけがえの無い神の恵みですが、
神が特別な恵みを与えてくださったことを、聖書は証言しています。
それは、イエス様を通して、神がすべての人々に与えてくださったものです。
神が、イエス様を通して、私たちに与えてくださったものとは、
イエス様の十字架上での死と復活を通して私たちに与えられました。
イエス様が十字架にかかり死ぬことによって、
私たちの罪は赦され、私たちと神との関係は回復されました。
そして、イエス様が死者の中から復活したことを通して、
死に対する勝利と、復活の希望を私たちは得ることができました。
それは、すべての国の人々にも、
すべての時代の人々にも及ぶ、神の恵みの業です。
イエス様を通して神が私たちに与えてくださったこれらのことこそ、
私たちに必要なことだから、神は恵みとして与えてくださったのです。
ですから、この神の恵みこそ、私たちを豊かにするものです。
この神の恵みをひたすらに求める人々こそ、
霊において貧しい人々なのです。
【天の国はあなたがたのものだ!】
さて、神が私たちを愛してやまないゆえに、
私たちに絶え間なく注ぎ続けてくださっている、これらの恵みを
ただひたすら求める者たちに、イエス様はこのように告げました。
天の国はその人たちのものである(マタイ5:3)
神の恵みは、誰にでも注がれているものです。
そのような神の恵みを拒絶することなく、受け取り続ける者こそ、
この地上において、天の国の実現を垣間見ることができる、
とイエス様は言われたのです。
「あなたがたは、この地上において、天の国の現実を味わうことができる」と。
では、今、私たちが味わうことのできる天の国とは
一体どのようなものなのでしょうか。
天の国とは、神の御心が実現する領域のことをいいます。
神の御心とは、何でしょうか。
それは、第一に、私たちが神との交わりに生きることです。
また、キリストにあって私たち自身が変えられていくこと。
神に愛されたように、私たちが周囲の人々と愛し合うこと。
そして、神によって与えられている平和が、この世界に実現することです。
私たちが神の恵みをひたすらに求め続け、神の恵みを受け取るとき、
確かに神が恵みによってこれらのものを与えてくださるのです。
そのため、天の国の現実を私たちは味わうことができるのです。
ですから、イエス様は「今、天の国はあなたたちのものだ」と宣言されたのです。
確かに、天の国は、今はまだ不完全な形であるかもしれません。
しかし、私たちに恵みを絶え間なく与えてくださる神は、
神の恵みを喜んで受け取る人々を用いて、この地上に、
天の国の現実を少しずつ少しずつ実現させてくださっているのです。
だから、霊において貧しい人々は幸いなのです。
そのような人々は、この世界に天の国の現実を実現させる、
神の恵みを、素直に受け取ることが出来るのですから。
どうか、神が与える恵みを絶えず求め続けることができますように。
そして、神から受け取ったこの恵みを携えて、この世へと出て行きましょう。
神は、イエス様と出会った私たちを用いて、
天の国の現実をこの世界に告げ知らせたいと願っているのですから。