「神の義に飢え渇く」

「憐れみに生きる道を行け」 

聖書 マタイによる福音書5:7、ホセア書6:6

2016年4月24日 礼拝、小岩教会 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【「神の憐れみ」を受けるための条件なのか?】

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7) 

今日のイエス様の言葉には、少し違和感を覚えるかもしれません。 

憐れみ深い人が、憐れみを受けると、

イエス様が語っているかのように感じるからです。

イエス様は、後半の文で用いている「憐れみ」を、 

明らかに「神の憐れみ」と考えて語っています。

ということは、私たちが神の憐れみを受けるようになるためには、 

人を憐れまなければならないのでしょうか。

つまり、神の憐れみを私たちが受けるためには、

条件があるということなのでしょうか。

もしもそうであるならば、それは、私たちがこれまで教えられ、 

信じてきたこととは違うように感じます。

そのような印象を受けるから、

このイエス様の言葉に違和感を覚えるのでしょう。

もちろん、「神の憐れみを私たちが受けるための条件は、

あなたが憐れみ深くあることだ」という意味で、

イエス様はこのように語ったわけではありません。

私たちが憐れみ深くある前から、

神の憐れみは、私たちに注がれているのですから。

しかし、それにしても、

なぜイエス様はこのような物の言い方をしたのでしょうか。

おそらくイエス様は、私たちが既に神から憐れみを受けていることを、 

「大前提」として受け取めて欲しいと願ったのだと思います。

 

【「憐れみ(ヘセド)」に生きる】

では、イエス様のこの言葉の大前提にある、

「神の憐れみ」とはどのようなものなのでしょうか。 

イエス様が神の憐れみについて語る際、

マタイによる福音書の中で二度も引用した(マタイ9:13、12:7参照)、

ホセア書の言葉に注目してみましょう。

預言者ホセアを通して、神はこのように語られました。

わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア6:6)

 

ここで「愛」と訳されている言葉は、

ヘブライ語で「ヘセド」という単語です。

「ヘセド」は、旧約聖書の中で「憐れみ」や「愛」、「恵み」など、

様々な意味で訳されます。

神が「いけにえよりも、ヘセドを喜ぶ」と語っているように、

このヘセドという言葉は、旧約聖書において、とても重要な言葉です。

それと同時に、マタイによる福音書で、

「わたしが喜ぶのはヘセドであって、いけにえではない」という

ホセア書の言葉を、イエス様が2度も引用していることから、

イエス様にとって、「ヘセド」「憐れみ」が重要であったことは明らかです。

その上、この福音書をまとめた福音書記者マタイにとっても、

「憐れみ」は重要な言葉でした。

数多くあるイエス様の言葉の中から、ホセア書を引用した言葉を、

彼は2つも選び、この福音書におさめたのですから。

ところで、この「ヘセド」という言葉ですが、

これは単に人を憐れみ、可哀想に思うことを意味する言葉ではありません。

聖書学者たちの研究を通して、

「ヘセド」は、神と人との間に結ばれた契約関係に基づいて注がれる、

欠けることのない愛を指す言葉だということがわかっています。

この契約関係とは、神が私たちの神となる、ということです。

旧約聖書の時代、神は、「わたしがあなたの神となる」と語り、

この契約を一方的にイスラエルとの間に結ばれました。

人がいくら神との契約関係を破っても、

神は諦めずに、この関係を続けてくださいました。

このように、神が憐れんでくださったように、

人を憐れむことが「ヘセド」という言葉に含まれています。

では、「ヘセド」は、どのような形で、

私たちの間で表わされるものなのでしょうか。

私たちが神によって示されたヘセド、憐れみに生きるとは、

どのようなことなのでしょうか。

今からおよそ2000年前に、神は、イエス様を通して、

憐れみに生きることを私たちに示してくださいました。

神の子であるイエス様は、完全な人間となって、この地上で生活をされました。 

それを通して、神は私たち人間と同じ立場に立ち、 

私たち人間が生きる上で経験する様々なことを一緒に経験されたのです。 

イエス様は、私たちと同じところに立ち、

私たちの身になって考え、私たちと一緒に喜び、

私たちと一緒に悲しみ、私たちと一緒に苦しまれました。

その意味で、「ヘセド」=「憐れみ」に生きることは、

「共感」することといえるでしょう。

他の人の心を知り、その人の立場で物事を見ること。

そして、その人の身になって考え、

その人が感じるように感じることこそ、憐れみに生きる道なのです。

私たちは、福音書の中に記されているイエス様の憐れみの行為に目を留めるとき、

神の憐れみが究極的な形で示されていることに気づきます。

それは、あのゴルゴタという名の丘の上に立てられた十字架です。

すべての人が苦しんでいる罪の現実に光を射すため、

イエス様は十字架に架かったことを、聖書は証言しています。

それによって、自分の生命を差し出し、私たちに生命を与えてくださった、と。

この十字架の出来事を通して、神の憐れみは示されたのです。

 

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7) 

 

イエス様が語られたこの言葉は、

このような大前提があった上で語られたものです。

ですから、イエス様の言葉をこのように言い換えることができるでしょう。

「イエス様によって憐れみを受けたように、 

人々に対して憐れみ深くある人々は、幸いである。

その人たちは憐れみを受ける」と。

 

【神の憐れみに生きる道を行け】

では、すでに神の憐れみを受けている者が、憐れみ深くあるとき、

「その人たちは憐れみを受ける」とはどういうことなのでしょうか。

イエス様は、この言葉を約束と希望に満ちた言葉として語っています。

それは、人が、憐れみ深くあるとき、 その憐れみの行為の中に、

神の憐れみを見出すことができるという約束です。

そして、私たちが望んだ以上に

豊かな神の憐れみを受けることができるという希望です。

この約束と希望を抱くとき、「その人たち」という言葉を

どの範囲まで広げることが出来るかが、私たちに問われているのかもしれません。 

実際に行動し、憐れみを施す人だけが憐れみを受けるのでしょうか。

神の憐れみはそのような限定的なものではありません。

そうではなく、憐れみを施される人にこそ、神の憐れみは及ぶものです。

私たちが憐れみに生きる道を行くならば、

さらに豊かな神の憐れみに私たちは出会うことになるのです。

その意味で、神の憐れみを知り、神の憐れみに生きる人々は、 

「神の憐れみの源泉」であるといえます。

神の憐れみは、私たち一人ひとりの存在を通して、

この世界により具体的な仕方で表されていくものだからです。

そうであるならば、「憐れみ」を具体的な行動をもって、

この世界の隣人たちに示すようにと、私たちは招かれています。

それが、神によって招かれている憐れみに生きる道といえるでしょう。

ところで、私たちは「ナザレン教会」という、

ある特徴をもった教会に呼び集められています。

ナザレン教会は、その創設のときから

「憐れみ」に生きることを大切にして、今日まで歩んで来ました。

20世紀はじめに、アメリカのロサンゼルスの教会の牧師は、

貧困者やホームレスの人々の世話に取り組む活動をしていました。

それと同時に、彼はキリスト教徒らしい生き方をすべきことを

強調する運動をはじめました。

それがまさに、憐れみ深く生きることでした。

やがてこうした活動に賛同する人々と教会が全米各地から集まり、

それらの諸教会・教派が合同して組織されたのが、ナザレン教会の始まりです。

ナザレン教会の由来は、イエス様が「ナザレ人」と呼ばれたことにあります。

イエス様は、貧しい人々、虐げられた人々を愛し憐れみ、

彼らを癒し、慰めました。

また、罪人と呼ばれる人々と共に食卓につき、

彼らを教え罪の赦しを宣言しました。

そこで、ナザレン教会の最初の指導者たちは、

「弱い者・小さな者と共におられたイエス・キリストを信じる群れ」

ということを常に思い起こすために、

「ナザレの」もしくは「ナザレ人」を意味する、

「ナザレン」を教派の名称として選んだのでした。

そうであるならば、「憐れみ深くあること」は、

主イエスを信じ、彼に従う者が大切にすべきものであると同時に、

ナザレン教会に集う信仰者として、

私たちがより一層大切にすべきものだといえるでしょう。

今日も、神は私たちに語りかけておられます。

「憐れみに生きる道を行け」と。

ですから、神の憐れみを求めて、

私たちは憐れみを示す歩みをしようではありませんか。

弱っている人がいるならば、そばに立って、手を差し伸べましょう。 

悲しんでいる人がいるなら、寄り添って、まずその悲しみを共にしましょう。 

そうやって、周囲の人々と共に歩んで行こうではありませんか。 

私たちが憐れみ深く生きようとするならば、

神は、更に豊かな憐れみを私たちと私たちが出会う人々に、

惜しむことなく注いでくださるに違いありません。

さぁ、神によって示されている、憐れみに生きる道を歩んで行きなさい。

神に仕え、人に仕える歩みへと、あなたがたは招かれているのですから。