「神と向き合う日を待ち望む」
聖書 マタイによる福音書5:8、出エジプト記19:9
2016年 5月 8日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【ただひとつの願い】
「神を見る」ことをイエス様は、将来の希望として語りました。
この地上においてではなく、将来、神の国に迎え入れられるその日、
「心の清い人々」は、「神を見る」と、イエス様は宣言されたのです。
神と、顔と顔を合わせて、豊かに交わりをもつ日が来ることは、
旧約聖書の時代から今日に至るまで、
信仰者たちの心からの願いであり、希望です。
ですから、きょう一緒に声を合わせて読んだ、
詩編27篇をうたった詩人は、このように祈りました。
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩編27:4)
神は目には見えない方ですから、
神と直接に顔と顔を合わせることは、この地上ではかないません。
それでも、今このとき、「主の家」である神殿に宿り、
神の言葉を聞き、神に祈ることを通して、
神との交わりをもち、この交わりを心からの喜びとする。
旧約聖書の時代以来、信仰者たちは、神とのこのような交わりを
「ただひとつの願い」と言って、求め続けました。
【神と向き合うことを恐れた人々】
しかし、「神を見る」ことを求めるその一方で、
聖書の時代の人々は、神を見ることに恐れを覚えていました。
創世記に登場する族長ヤコブは、ペヌエルという場所で、
夜通し神と戦った後、このように言いました。
「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(創世記32:31)
どうやら、旧約聖書の時代、
人々は神を見ることは死につながると考えていたようです。
そのため、ヤコブは、神と顔を合わせていたにも関わらず、
自分が生きていることに驚いて、
「わたしは神を見たのに、なお生きている」と語ったのです。
この時のヤコブと同じように、偉大な信仰者や預言者、
イスラエルの指導者として知られる人々も、
神と顔と顔を合わせることを恐れました。
モーセは、燃える柴の間から神の声を聞いたとき、
神を見ることを恐れて、顔を覆い隠しました(出エジプト記3:6)。
また、預言者イザヤは、
預言者としての召命を受けたとき、このように語りました。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ6:5)
神の側から近づいて、何らかの方法で神が御自分を人間に見せたとき、
神を見た人々は皆、自分があまりにも神の前に出るに相応しく無いことに気づき、
自分の死を思い、神に対する恐れを覚えたのです。
神と顔と顔を合わせて向き合いたいけれども、
神を直接見るにふさわしくないために、
神と向き合うことが出来ない、そんな現実を私たち人間は抱えているのです。
それは、イザヤが語ったように、
私たち人間が「汚れた唇の者」であることが大きく関係しています。
なぜイザヤは「わたしは汚れた唇の者」と言ったのでしょうか。
それは、自分は神を喜ばせるよりは、
神を失望させてしまう歩みを続けている者であることを、
自分の口から出る様々な言葉を通して、彼が実感していたからでしょう。
いつも愛情や優しさで溢れる言葉や、
神に感謝と賛美を捧げる言葉が、この口から出てくるわけではなく、
人を傷つけ、呪うような言葉を吐き捨てることもあったことでしょう。
それはイザヤだけでなく、私たち人間すべての問題です。
私たちは、神を喜ばせるよりは、
神を失望させてしまう歩みを続けてしまっています。
その原因となっているものが、
私たちに深く染み付いている「罪」であると聖書は語ります。
この罪が私たちの心に深く根を張り、
私たちの言葉も、行動も、心で抱く思いにも強く悪い影響を与えているため、
イザヤは「わたしは唇の汚れた者」と語ったのです。
そして、彼は神を見つめたとき、
「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言って、
神と向き合っている状況に恐れたのです。
罪があるかぎり、どれだけ神と顔と顔を合わせることを願っても、
誰も、神を見ることはできません。
神と顔と顔を合わせて向き合いたいけれども、
神を直接見るにふさわしくないために、
私たちは神と向き合うことが出来ないのです。
そのため、神の側が私たち人間の現実に心を配ることがありました。
神はモーセと交わりをもとうと願ったとき、彼にこのように語り掛けました。
見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。(出エジプト記19:9)
神は、「濃い雲」に包まれたシナイ山でモーセと会うことによって、
モーセが神の顔を直接見ないようにし、
モーセと交わりをもち、イスラエルの民にモーセを通して語り掛けました。
私たち人間の罪の現実を考えると、それが限界だったのでしょう。
しかし、それでも神は、私たちとの交わりを求め続けてくださったのです。
神は、私たちと関わり続けることを、決して諦めない方なのです。
【神の御顔を避けようとする私たち】
しかしその一方で、人間の方から、神のもとを離れていくことがありました。
いや、そのようなことばかりであるという方が正しいでしょう。
最初の人間アダムとエバは、神との約束を破ったとき、
「神の御顔を避けて」、茂みに隠れました(創世記3:8)。
それ以来、人間が神の御顔を避けて生きることを、
選び取り続けたことを聖書は物語っています。
また神の側から離れていくこともありました。
それを旧約聖書では、神が「み顔を隠す」と表現されています。
この言葉は、人間の罪に対する神の怒りの表現です。
人が神を神と認めず、神に背いて歩み続けるとき、神はみ顔を隠されました。
いずれにせよ、神の顔を見ることが出来ないその根本的な理由は、
神の側にではなく、私たち人間の側にありました。
【私たちは、神と交わりをもつように造られた】
ここで思い出したいのは、そもそも私たち人間が
どのような存在として造られたか、ということです。
聖書はその初めに、私たちが土の塵から造られたと証言しています。
人間が神によって造られたそのとき、
神は、人間の鼻に息を吹きかけられました(創世記2:7)。
「人はこうして生きる者となった」のです。
息を吹きかけられるためには、顔と顔とを合わせなければなりません。
ですから、私たち人間は、神と顔と顔を合わせる存在として、
神によって造られたのです。
そして、親密な交わりをもつことができるように、
神と顔と顔を合わせて語り合う関係を築くことが出来る者として造られました。
それなのに、神の顔を避けることになってしまったのです。
神が交わりを求めるとき、神の側がみ顔を隠して、濃い雲で覆いをつくり、
人間に近づかなければならなくなってしまいました。
神の顔を見ることが私たちには困難なことに、
いや不可能なことになってしまいました。
私たちの抱える罪が、私たちを神と向き合えなくさせているのです。
この罪の問題が解決されて、神と顔と顔とを合わせることは、
旧約聖書の時代から、信仰者たちの心からの願いなのです。
【「心の清い人々」とは誰か?】
イエス様は、神を見ることができるのは、「心の清い人々」と語りました。
「清い」という言葉は、不純物がないという意味です。
イエス様は、何を不純物と考えたのでしょうか。
それは、明らかに、私たちを神から遠ざける罪の問題です。
この罪の問題は、心の問題に留まるものではないことを、
イエス様はこのように教えています。
口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。……」(マタイ15:18-20)
そうであるならば、一体誰が神を見ることができるのでしょうか。
パウロが「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と語ったように、
「心の清い者はいない、一人もいない」のでしょうか。
実際、そう感じますし、私たち人間誰もが、
罪を抱えているならば、そうなのでしょう。
「心の清い者はいない、一人もいない」のでしょう。
ということは、誰も神を見ることなど出来ないのでしょうか。
出来ないのだとしたら、それにも関わらず私たちが「心の清い人々」と宣言され、
将来「神を見る」と約束されているのは、神の妥協の結果なのでしょうか。
イエス様は、私たちが到底実現することの出来ない理想を掲げて、
「心の清い人々は幸いである」(マタイ5:8)と語ったわけではありません。
私たちが「心の清い」状態であり続けるのは、無理であるにも関わらず、
それはイエス様を通して、実現されます。
イエス様によって、私たちが抱える不純物は取り除かれていくのです。
そう、イエス様によって、罪の問題は解決されました。
イエス様が、十字架にかかることによって、私たちの罪が赦されました。
だから、イエス様は、「あなたは心の清い者だ」と宣言してくださるのです。
そして、イエス様が私たちを「心の清い者」に変えてくださるから、
「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
聖なる、汚れのない、栄光に輝く」(エフェソ5:27)者として、
私たちは神の前に立つことができるのです。
私たちが「心の清い者」となるために、
神は、「苦行が必要だ」とは決して言いません。
また、「心の清い者」となるために、
良いことを積み重ねる必要もありません。
驚くべきことに、神からの贈り物として、
イエス様は私たちのもとに来てくださり、
このイエス様によって、私たちの心は清くされるのです。
イエス様を通して、私たちは「心の清い者」に新しく造り変えられます。
ですから、神と顔と顔を合わせて出会う日は、
私たちのもとに「恵みの贈り物」としてやって来るのです。
【神の言葉を心に据える】
では、「贈り物」であるならば、
私たちはどのような者であっても、良いということなのでしょうか。
私たちがどのような人間であったとしても、イエス様によって、
私たちは「心の清い者」とされているというのですから。
たしかに、神は、私たちのありのままの姿を受け止めてくださる、
愛と憐れみに溢れているお方です。
しかし、神に受け入れられた者は、そのままでいられるはずがありません。
イエス様によって、私たちが心の清い者へと変えられるのですから。
「心の清い者」に変えられたその新しい現実に、
ふさわしく生きるようにと、私たちは招かれているのです。
私たちを造り変えるものとは、神の御言葉です。
この御言葉を私たちの心に刻みこむのは、聖霊なる神の力です。
聖霊とともにあるならば、私たちは造り変えられていきます。
「心の清さ」が私たち自身のうちで、日々実現していくのです。
ですから、私たちは願いましょう。
神が語る言葉がこの心に刻み込まれることを。
この心の奥深くから変えられていくことを、心から願いましょう。
そして、私たちが自分自身の考えの代わりに、
神の言葉をこの心に据えて行動することができるようにと。
将来、神と向き合う日に備えて、
神は少しずつ、少しずつ、私たちを
イエス様に似た者へと造り変えてくださいます。
神は、それが出来るお方です。
しかし、自分の姿を見つめるとき、
自分は神の前に立つに相応しく無いと思うことが、多くあるかもしれません。
しかし、私たちの人生のすべては、
神と顔と顔を合わせて出会うための備えの日々でもあります。
その長い年月をかけて、神は私たちをゆっくりと、
しかし、確実に、イエス・キリストに似た者へと造り変えてくださるのです。
「心の清い者」と呼ばれるに相応しい姿へと、私たちを整えてくださるのです。
ですから、神の御業を心から信頼して、歩んでいきましょう。
あなたがたは、幸いです。
主キリストにあって、「心の清い者」へと変えられていくのですから。
そして将来、神と顔と顔を合わせて出会う日が、やってくるのですから。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Ⅰコリント13:12)
神と顔と顔とを合わせるその日を、喜びの日として、心待ちにし、
私たちはこの世の旅路を歩んで行きましょう。
その日、私たちは神と出会い、神をはっきりと知るようになるのです。
主イエス・キリストの恵みと平安が、あなた方と共にありますように。