「神が結び合わせたのだから」
聖書 マタイによる福音書5:31-32、創世記2:21-25
2016年 7月 10日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【離縁状を書けば、離縁は正当なものと認められるのか?】
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」。
この言葉は、おそらく、旧約聖書の申命記に記されている言葉の要約です。
そこにはこのように記されています。
人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。(申命記24:1)
この言葉を、当時の人々は要約して、こう言ったのです。
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と。
この言葉が、申命記に記されている言葉の要約だとするならば、
イエス様の時代の人々が、離婚の手続きをすすめる際、
「離縁状を書く」ことが重要視されていたことがわかるでしょう。
つまり、たとえ離婚をするのにまっとうな理由がなかったとしても、
離縁状さえ書いて、妻に渡せば、離婚は正当なものとして認められる、
という理解が一般的に広まっていたのです。
しかし、そのような理解で本当に良かったのでしょうか。
イエス様はそのような理解で良いとは、決して考えませんでした。
そのため、「しかし、わたしは言っておく」と言って、
イエス様は人々の理解を正そうとされたのです。
イエス様は、このように語りました。
不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。(マタイ5:32)
この言葉が男性の視点で描かれているのは、
聖書の時代が男性優位の社会だったためです。
適当な理由をつけて、離婚をすることは、
男性の側からのみ可能なことでした。
では、離縁状を渡されて、離婚をすることになり、
夫のもとから去っていかなければならなくなった女性は、
この当時どうなったのでしょうか。
男性優位の社会が築かれていた、この当時、
女性は結婚をして、男性に養われないと、生きることができませんでした。
離縁状を夫から渡された女性は生きていくために、
何としてでも、再婚しなければなりませんでした。
再婚が出来なければ、貧しい生活を強いられます。
何とか生きていくためには、
娼婦や奴隷として生きる道を選ぶしかなかったことでしょう。
ですから、イエス様は、自分の妻を離縁する者は誰でも、
「離縁した女性に、姦通の罪を犯させることになる」 と語りました。
そのように語ることによって、イエス様は、
弱い立場に立たされていた女性たちを守ろうとしたのです。
不純な動機であったとしても、
離縁状さえ書けば、離婚は正当なものと認められると考えていた当時の人々に、
そのような考え方で良いわけないと、イエス様は強く反対されたのです。
【神の業によってひとつとされる】
いや、弱い立場に立たされていた女性たちを守るためだけに、
「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という言葉に、
イエス様は解説を加えたのではありません。
イエス様はそもそも、結婚には離婚がつきものとは決して考えませんでした。
というのも、結婚は神の業だからです。
血もつながらない他人同士の人間が出会って、
一緒に歩んでいく選択をするため、
結婚は人間の業だと、思われがちかもしれません。
しかし、聖書は、その初めから、
神が、男と女を結び合わせると主張しています。
先ほど朗読していただいた創世記に記されている物語を思い起こしてみましょう。
男から抜き取ったあばら骨の一部で、女が造られた。
そして、神が女を男のもとへ連れて行き、ふたりは出会い、
男と女はひとつに結ばれた、ということが物語られています。
この場面に至るまでに、この男性は失望していたと思います。
というのも、神が「人が独りでいるのは良くない。
彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)と言ったため、
この男性は「自分に合う助ける者」、
つまり妻として一緒に生きて行くのに相応しい存在を探し始めます。
神があらゆる動物たちを彼のもとに連れて来て、
彼は動物たちと真剣に向き合って、動物たちに名前を付けます。
それはまさに、この男性、アダムにとっての「婚活」でした。
でも、「自分に合う助ける者」は一向に見つかりませんでした。
いつまで経っても妻を見つけることができない、
その事実に、彼は落ち込んだことだと思います。
そんな彼を見て、神が動き出されたのです。
彼を深い眠りに落とし、彼のために女性を造られたのです。
そして、神が、彼のもとに女性を連れて来て、
ふたりを結び合わせました。
この物語を通して、聖書はその初めから、
結婚がどのようなものなのかを宣言しています。
「結婚は神の業である」と。
まさに、神がこのふたりを結び合わせたのです。
ですから、イエス様は「結婚が神の業である」ことを、このように語りました。
「神が結び合わせてくださったものを、
人は離してはならない」(マルコ10:9)と。
このように、結婚した夫婦の間にある結びつきは、
神によって結び合わされたものなのです。
だから、イエス様は「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」
について、こう言われたのです。
不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。(マタイ5:32)
しかし、それにしても、何をもって人は、
結婚を「不法な結婚」と判断するのでしょうか。
不完全な人間と不完全な人間が出会って結婚していることは、
すべての夫婦に言えることです。
誰一人、責められるところの全くない、完全な人間などいないのですから。
「神の業によって一つとされる」という、
聖書が語る結婚観に立つならば、
私たち人間誰もが抱える不完全な部分さえも、
神に用いられて、神の業によって夫婦が固く結ばれていきます。
そのような神の業を信頼するようにと、私たちは招かれているのです。
【神の業に信頼する】
そう考えると、ここでイエス様が問題としたのは、
「不法な結婚」があることではない、といえるでしょう。
イエス様が問題視したのは、「法を守って手続きをしさえすれば良い」
という考えが、人々の間で支配的であることでした。
離縁状を渡して、自分の妻と離婚する人々は、
たしかに、神の言葉である律法を守っていました。
しかし、律法の本質的な意味をどれだけ汲みきれていたのでしょうか。
結婚について、神が結びつけたという理解に立つならば、
どうして離縁状を喜んで書くことが出来るでしょうか。
どうしても、結婚生活を続けることが出来ないという、
厳しい状況に追い込まれた者の最後の手段として、
離縁状を書いて離婚するという手段が許されていると考えるべきです。
しかし、イエス様の時代の人々は、
「離縁状を書きさえすれば大丈夫」と考えていました。
結婚が、神の業であるという理解が尊重されず、忘れ去られていました。
私は時々、クリスチャンの中でさえ、
「結婚は神の業である」という理解を失っている現実を耳にします。
結婚が決まったカップルに対して、
「今が一番楽しいときだから」と語り掛ける言葉が聞こえてきます。
たしかに、不完全な人間同士が出会って、
一緒に生きようとするのですから、困難はつきものでしょう。
時には、衝突もあるでしょう。
自分たちふたりだけでなく、それぞれの家族や、
子どもたちのこと、仕事のことで、頭を悩ませることもあるでしょう。
しかし、それでも、もっともっと神の業に信頼を置いて欲しいと思うのです。
不完全な人間同士が出会います。
しかし、それにもかかわらず、神が結び合わせてくださったのだから、
神が結婚を完成させてくださることに、神の業に信頼を置いて欲しいのです。
神の「愛は多くの罪を覆う」ものだからです(Ⅰペトロ4:8)。
そのような神の業を、私たちは信頼するようにと招かれているのです。
【教会は、主キリストにあってひとつとされている】
さて、新約聖書の時代、この結婚についての考えは、
教会の理解と結びつけて考えられました。
神が教会をひとつに結び合わせる、と。
教会は、神によって救われた者が、ひとつの場所に集っています。
ここに集う一人ひとりは、全く違う存在です。
世代も、考え方も、社会的な立場も、
住んでいる場所も、何もかも違います。
しかし、それにも関わらず、神の業によってひとつとされています。
そこに多様性があるにも関わらず、
価値観の違いがあるにも関わらず、
お互いに受け入れ合うことが出来、
主キリストにあって一致することが出来ます。
それが、教会という、神が結び合わせてくださった人々の群れなのです。
神が結び合わせてくださることを、
私たちは、教会の交わりを通して、教えられ続けたいと思います。
神に愛されているように、愛し合う。
神に赦されたように、赦し合う。
そして、主イエスが仕えてくださったように、お互いに仕え合う。
そのような交わりが築かれていくようにと、教会は招かれています。
教会がその招きに応え続けようとするとき、
それがきっと、私たちが所属する他の様々な共同体においても、
私たちを通して広がっていくはずです。
そして、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合って生きることを、
教会の交わりを通じて知るとき、
その交わりは、ここから広がっていくことになります。
夫婦の間に、家族に、職場や学校に、そして地域社会に。
そう、私たちが暮らすこの世界に、
神が豊かな交わりをもたらそうと願っておられます。
私たちを結び合わせ、ひとつにしてくださるのは、神です。
ですから、神が起こしてくださる業に、
心から信頼し、期待して、私たちは日々の務めを果たしていきましょう。
主キリストの平和があなたがたと共にありますように。