「天からの贈り物」

「天からの贈り物」

聖書 マタイによる福音書7:7-12、サムエル記 下 12:13-23

2016年 10月 23日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【希望と期待と同時に、失望を与える言葉】

きょうのイエス様の言葉は、聖書に記されている数ある言葉の中で、

多くの人々に期待と希望を与えてきたのと同時に、

失望を与えてきた言葉でもあると思います。 

イエス様はこのように語られました。 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:7-8) 

 

私たちは、この言葉に希望を抱いて、神に祈り続けてきました。 

また、求め続けてきましたし、探し続けてきました。

そして、神が天の門を開いて、私たちに祝福を与えてくださると、

信じて、門をたたき続けてきました。

それなのに、一向に神は私たちの祈りに応えてくださらず、

神は私たちの祈りに沈黙しているように感じることがあります。

また時には、全く望んでいなかったものを与えられることもあるでしょう。 

そのようなとき、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という

イエス様のこの言葉を前にして、私たちは神に裏切られたように感じます。

いや、自分の祈りが不完全だったのか?

自分の信仰が弱く、浅かったのが問題だったのか? 

と、自分自身の信仰者としての姿勢を疑い出すこともあるでしょう。

喉から手が出るほど必要なものがあるときに、私たちに希望を与える一方で、

時には、このように失望を与えるこの言葉を、

私たちは一体どのように理解すれば良いのでしょうか。 

 

【キリスト者が築くように招かれている親子関係】 

イエス様のこの言葉の理解を、

続く9-11節の言葉が助けてくれると思います。

そこには、このように記されています。 

 

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタイ7:9-11) 

 

イエス様は、親と子の関係を思い起こすように促しています。 

「パンを欲しがる自分の子どもに、石を与える親がいるだろうか。 

また、魚を欲しがる自分の子どもに、蛇を与える親がいるだろうか」と。 

私も、そして恐らく、この場にいる皆さんも、 

素直にこの言葉を受け入れることができるでしょう。 

しかし、この言葉をすべての人々が素直に受け止めることは、 

現代において、少し難しいかもしれません。 

子どもに良いものを与えない親の姿が、 

ニュースを通じて、私たちのもとに届いているのですから。 

ですから、11節に記されている、「あなた方の天の父は、 

求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉を理解する際、 

自分の親から、理想の父としての神を理解すべきではありません。 

彼らには尊敬できる面もあれば、

当然一人の人間として欠けや弱さも抱えています。 

そのため、両親との関係の中で受けるイメージを、神に当てはめるような形で、 

神を理解しようとするとき、必ず歪みが生じてきます。 

キリスト者である私たちにとって、親子関係とは、 

ただ神おひとりが、私たちの父であると受け止めることから始まるのです。 

神に造られ、神に愛されている一人の人間として、 

お互いに出会い、そこに弱さや欠けがあることを認め合いながら、 

親子関係を日々築き直していくように招かれているのです。 

 

【パンや魚が石やヘビに見えることがある】 

このように、私たち人間一人ひとりと同様に、

親子も神の前に対等な関係を築くように招かれていますが、 

親には20年前後の期間、子どもを育て、

保護する務めが神から与えられています。 

その務めの中で、親として出来ることにおいても、

知識においても、 当然限界はあります。

しかし、それでも出来る限り良いものを自分の子に与えたい

と願うのが、親というものです。

そのような思いを前提にして、イエス様はここで語っているのだと思います。 

でも、親の思いや行動を受け取る側の子どもからすれば、 

両親から与えられるものがいつも、パンや魚のように、

自分が心から欲しがっているものとは限りません。 

良いものが、石やヘビに見えることはあり得ることです。 

なぜこんなものを与えるのか?と思うこともあります。 

いや、好奇心のゆえに、不必要なものや危険なものに

手を伸ばすこともよくあるでしょう。 

実際、子育てをしていると、そのようなことの連続です。 

こちらは良いものを与えようとしています。 

でも、娘の方はといえば、 テーブルの上に置いた手紙やらヘアゴムに

手を伸ばして、それを食べようとする。 

だから、親である私たち夫婦は、娘が好奇心から欲しいてやまないものを、彼女から遠ざけて、危険を回避しようとするわけです。 

このような自分の娘の姿を見ていると思うのです。

私たちがいくら祈り続け、求め続け、探し続けても、 

一向に神が私たちに与えてくださらないのは、

私たち自身が、実は、石やヘビのような、危険で、または不必要なものを 

必死に求めているからなのかもしれない、と。

求めているものが与えられないで、他のものが与えられたときは、

パンや魚が、石やヘビのように不必要なものに見えてしまいます。

だから、失望します。 

もしかしたら、私たちは徹底的に自分を愛し、自己中心に生きているから、 

神が私たちのためを思って、良いものを与え、不必要なものを与えないでいる 

その現実に気付かないでいるのかもしれません。 

そのようなことを思うとき、私は、使徒パウロの言葉を思い出します。 

彼は、コリントの教会に書き送った第二の手紙の中で、

このように書いています。

 

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:7-9) 

 

パウロに与えられた「とげ」というものは、

まさに石やヘビのようなものでした。

この「とげ」が何であったのかは、聖書の記述からはわかりません。

肉体的な弱さだったのかもしれないし、

彼が当時置かれていた情況だったかもしれません。

いずれにせよ、彼はその「とげ」が与えられたことに苦しみました。

だからこそ、「このとげを取り除いてください」と、

神に必死に祈り、求め続けました。

しかし、祈りの中で神がパウロに示されたことは、

この「とげ」が石やヘビではなく、パンや魚であるということでした。

このとげは、彼の働きを妨げ、彼を苦しめるためのものではなく、

彼をより豊かに生かすものだったのです。

パウロにとって、必要だから、神がこの「とげ」を与えたのです。

ですから、神はパウロに告げます。

 

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)

 

キリストを伝える宣教の働きに招かれたパウロにとって、

自分の弱さと直面することは何度も何度も経験してきたことでした。

いくらキリストを伝えても受け入れられない。

教会の問題を解決へ導こうと頑張っているのに、

周りからの批判の声に、潰されそうになる。

何度も何度も直面する自分の弱さに悲しみを覚えるパウロにとって、

「とげ」はまさに必要のない、石やヘビでした。

しかし、この「とげ」を与えられ、

いつもその「とげ」によって苦しむことを通して、

自分の弱さによって受ける苦しみにも、遥かに勝る、

神の恵みの大きさに彼は触れたのです。

神の恵みにこそ、自分は生かされていることに、

彼はこの「とげ」を与えられることを通して、改めて気付かされたのです。

実際の所、この「とげ」は、神がパウロに与えた石やヘビではなく、

パンや魚であったのです。

 

【主イエスが差し出すパンや魚=山上の説教における命令】 

それでは、イエス様が私たちに差し出しているパンや魚とは、 

一体どのようなものなのでしょうか。 

イエス様は、マタイによる福音書の5-7章に記されている、 

山上の説教と呼ばれる教えを通して、

私たちに良いものを与えようとしておられます。 

イエス様は命じられました。 

「一切誓いを立ててはならない」(マタイ5:33-37)。 

「復讐してはならない」(マタイ5:38-42)。 

「思い悩むな」(マタイ6:25-34)。 

そして、「父が完全であられるように、

あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と。 

イエス様が私たちに命じておられることは、不可能とも思える要求です。 

でも、イエス様は私たちに「求め続けよ」(マタイ7:7)と命じられるのです。 

父なる神は、私たちを保護し、養い育ててくださいます。 

そして「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい」(マタイ7:12)

という言葉に喜んで従える者へと、神と人を心から愛し、仕える者へと、 

私たちを日々、少しずつ成長させてくださいます。 

そのために、神は全力を尽くし、愛を尽くして、

諦めず、私たちを見捨てることなく、

私たちに関わり続けてくださっているのです。

私たちが何度神に背いても、どれほど与えられたものに不平不満を覚えても、 

神は惜しみなく、私たちを愛し続けてくださるのです。 

その意味で、主イエスが私たちに差し出し続けてくださっているパンや魚とは、 

この絶え間なく私たちに注がれる、神の愛といえるでしょう。 

 

【制限のない祈り】 

このような神に、私たちはいつも祈ることができます。 

求め続け、探し続け、叩き続けることができます。 

驚くべきことに、イエス様のこの言葉には、制限がありません。 

「あなたがたは自分の目に見える範囲内のことのみ求めて、探し続けなさい」 

とは、イエス様は言いませんでしたし、 

「あなたがたは、7回まで求めることができる。 

でも、それ以上は、たくさん良い行いをしなければいけません」 

とも当然言いませんでした。 

イエス様は、何の制限もつけずに私たちに命じられたのです。 

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:7-8) 

 

私たちは、祈りにおいて、自由に神の前に求めることが許されているのです。 

国境も、時代も、信念や、人種の違い、対立や争いも、

私たちの祈りを妨げることは出来ません。 

この地上では、私たちを縛り付けるこれらのものから、祈りは私たちを自由にし、 

私たちは神の前に求め続けることが許されているのです。 

この自由な祈りの中で、私たちが求め続けるとき、

私たちには必ず、パンや魚が与えられます。 

神の目には、パンや魚なのに、私たちの目には、石やヘビにしか見えない、 

そんな求めなかったものを見出すこともこともあるでしょう。 

神の沈黙を突きつけられることもあるでしょう。 

しかし、それは神が私たちのために、最善のものとして与えてくださった、 

天からの贈り物なのです。 

だから、この日曜日の朝、私たちは神に信頼して、

イエス様の言葉を受け取りましょう。 

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:7-8) 

 

どうか、神からの最上の贈り物が、あなたがたに天から注がれ続けますように。 

 

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(Ⅱコリント13:13)