「人生の土台は何ですか?」
聖書 マタイによる福音書7:24-29、イザヤ書54:9-13
2016年 11月 20日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【私たちの土台は簡単に崩れ去る】
「あなたの人生の土台は何でしょうか。
何を日々の喜びとし、生きる糧としているでしょうか。」
もしもこのように問い掛けられたならば、
改めて自分自身の土台が何なのかを確認することだと思います。
何を人生の土台としているかは、きっと人それぞれ違うと思います。
家族や友人たちから、毎日たくさんの支えや助けを受けながら、
私たちは日々の生活を送っています。
毎日生きていくのに必要な分のお金や食べ物も必要ですし、
少し余裕があれば、ちょっとくらい贅沢をする。
それは生活の中で味わえるひとつの喜びともいえるでしょう。
また、社会的な地位が与えられているから、
自分の役割を見出し、相応しく働くことが出来るのだと思います。
そんな今の自分たちの生活のあり方を見つめると、
自分という存在は様々なものに支えられていて、
自分を支える大切なものが土台となっていることに気付かされます。
そんな大切な土台の上に、私たちは毎日の生活を通じて、
知識や財産、人間関係など、様々なものを積み重ねているのです。
だからこそ、私たちが日々積み重ねてきたものが、
その土台から崩れ去っていくことは、
すべての人にとってあってはならないことですし、
何とかして避けなければいけないことと言えるでしょう。
しかしそれにも関わらず、私たちが積み上げてきたものが、
あまりにも脆く崩れ去り、
土台から根こそぎ奪い去られる出来事が時として起こります。
阪神・淡路大震災や、まだ記憶にも新しいであろう東日本大震災など、
自然の脅威は、私たちが当たり前に思っていた生活を、
簡単に押し流し、私たちの土台を揺り動かします。
また、2002年9月11日起こった、アメリカでの同時多発テロ以来、
世界はテロリズムの脅威に怯えています。
人間の悪に晒されるとき、
私たちがこれまで当然と考えていたことは、
あまりにも簡単にも揺り動かされ、土台は崩れ、
そして失われてしまうのだということを世界中の人々が痛感しました。
【地の基は揺れ動く】
このように、私たちが当然のものと信じて疑わないものが、
その根底から崩されていくような出来事は、
人類の歴史の中で、何度も何度も繰り返し起こってきました。
旧約聖書の時代、神に選ばれて神の民とされた、
あのイスラエルの人々もまた、土台を崩される経験をしました。
紀元前586年、イスラエルの民はバビロニア帝国の人々の手によって、
住み慣れた地から見知らぬ異国の地へと、強制的に連れて行かれ、
親しい友人や家族とも引き離される経験をしました。
また、神を礼拝するために建てられた、
エルサレムの神殿とその町は徹底的に破壊されました。
この出来事は、バビロンへの捕囚と呼ばれ、
イスラエルの人々に悲しみを与え続けました。
神は預言者イザヤを通して、捕囚についてこのように語りました。
これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
あのとき誓い
今またわたしは誓う
再びあなたを怒り、責めることはない、と。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。(イザヤ54:9−10)
山が移る、そして丘が揺らぐ。
それは、起こるはずのない出来事です。
しかし、その起こるはずもない、信じられない出来事が起こったのです。
まさにそれが、イスラエルの人々にとっての捕囚の経験でした。
当然のものだと、自分たちがこれまで考えていた、毎日の生活が奪われ、
彼らの土台はことごとく破壊されました。
それはまるで、ノアの時代に起こった洪水のようなものでした。
洪水がすべてのものを呑み尽くし、破壊し、奪い去っていく。
バビロンへの捕囚とは、すべてをひっくり返すような、
衝撃的な出来事だったのです。
しかし神は、預言者イザヤを通して、
このような出来事が起こることを予め預言していました。
イザヤ書24:18−19にこのような言葉が記されています。
天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
地は裂け、甚だしく裂け
地は砕け、甚だしく砕け
地は揺れ、甚だしく揺れる。(イザヤ24:18−19)
「地の基が震え動く」。
それは、大地震が起きるということとは少し違います。
この世界を造られた神は、この世界を支える基を置かれました(詩編24:2)。
「地の基」はたとえ大地震が起こったとしても、決して震え動くことなく、この地を支えるものです。
ですから、「地の基が震え動く」ことは、あり得ないことなのです。
しかし、イザヤは語ります。
すべての生き物の足場であり、決して揺らぐことがないと
私たちが信じて疑わない、この地の基が震え動く、と。
いや、そればかりでなく、地は「裂け」「砕け」「揺れる」というのです。
事実、イスラエルの人々にとって、
バビロンへの捕囚はそれほど衝撃的なものでした。
そして、地の基が揺れ動くような出来事は、
いつの時代も、様々な形で繰り返されてきました。
中世ヨーロッパでは、ペスト(黒死病)と呼ばれる伝染病が流行し、
人々の生命と生活を脅かしました。
また日本においては、幕末期の黒船来航や、第二次世界大戦での敗戦など、
人々の生活を根底から変える出来事は、何度か起こっています。
このように、私たちが当然と考えていることが、
簡単に揺り動かされ、その土台は震え動き、覆される。
そのようなことは、いつの時代にも大いに起こり得ることなのです。
もしかしたら、10年後に、そのような日が来るかもしれませんし、
明日、来るかもしれません。
そうであるならば、改めて自分に問いかける必要が出てくるでしょう。
「私たちの土台は突然の嵐のような出来事に耐えられるものなのだろうか。
もしもそうでないとしたならば、
一体、何が私たちにとっての揺るがない土台となりうるのだろうか」と。
【神と共に生きる幸い】
イエス様は山上の説教の終わりに、「岩の上に家を建てた賢い人と、
砂の上に家を建てた愚かな人」についての譬え話を語られました。
この譬えを語ることを通して、イエス様は私たちに
「何が揺るがない土台なのか」を教えてくださいました。
たとえ嵐に襲われても、揺らぐことのない土台をもつ人とは、
イエス様によれば、神の言葉を聞く人ではありません。
賢い人も、愚かな人も、どちらの人も、
神の言葉を聴いている人として、イエス様は描いています。
それでは、この両者の違いとは、一体何だったのでしょうか。
この両者の違いは、神の言葉を聞くことではなく、
神の言葉を聞いたとき、その言葉に従って行なうのか、
それとも行わないのかという点にあります。
イエス様によれば、神の口から語られた言葉を聞いて、
それを行なうことこそが、確かな土台を作るのだというのです。
いや、神が私たちに語りかけた言葉の通りに生きようとするならば、
その人は、神が語り掛けてくださった言葉を
自らの土台にして生きていると言えるでしょう。
そうするためには、神の言葉を絶えず聞き、
神と共に生きる必要があります。
ですから、神と共に生きることこそ、
私たちの人生の決して揺るがない堅い土台なのです。
でも、だからといって、神の言葉を聞いて行なう人々には、
岩のような堅い土台があるから、大丈夫というわけではありません。
イエス様が語られた譬え話を注意深く読んでみると、
岩の上に家を建てる賢い人にも、砂の上に家を建てる愚かな人にも、
等しく嵐は訪れていることがわかります。
どちらの側にも「雨が降り、川があふれ、
風が吹いてその家に襲いかかる」のです。
ですから、神を信じて生きていれば、辛いことや苦しいことなど一切ない、
というわけにはいかないのです。
相変わらず辛く、苦しい出来事はやってきます。
その上、私たちが苦しんだ結果、私たちがこれまで
大切に積み重ねてきたものが崩されることだって有り得る話です。
しかし、そのようなことが起こったとしても、
私たちの土台は決して揺らぐことがないということを、
イエス様はこの譬え話を通して教えておられるのです。
たとえ激しい人生の嵐に遭おうとも、
私たちがその嵐の中で自分自身の力では立っていられなくても、
神の言葉を聞いて、それを行なう私たちに堅固な土台を与えた神が、
私たちの足を支えてくださるのです。
これが、神の言葉を聞いて行なう者に与えられている喜びの現実なのです。
さきほど交読文で一緒に声をあわせた読んだ、詩編19篇をうたった詩人は、
神の言葉によって与えられるその喜びを、このように歌っています。
主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。(詩編19:8−9)
たとえ打ちのめされたとしても、
神の言葉は、私たちの魂を生き返らせる力を持っています。
それゆえに、私たちは神の恵みによって、
再び立ち上がることができるのです。
【復活の主キリストを人生の土台として生きる】
これから先、予期せぬ不幸に見舞われることがあるかもしれません。
人生の嵐とも呼べるような出来事が起こるかもしれません。
人の悪意と出会い、傷つけられるかもしれませんし、
人を愛せない自分を知って、自分自身に失望するかもしれません。
様々な出来事を通して、自分の土台が揺り動かされ、
地の基が揺れ動く経験をこれからすることがあるかもしれません。
いや、もしかしたら、今その最中にいる方もいるかもしれません。
しかし、主キリストにある土台は決して揺るがないということに、
私たちは強い希望を持ち続けることが出来ます。
それは、私たち自身の努力で勝ち取った土台ではないからです。
私たちを愛してやまない方が、まず初めに、
私たちに御言葉を語り掛けてくださいました。
この神の言葉を聞いて、それを行なうとき、
私たちの土台は、神の業によって堅いものとされていきます。
この世界を造られ、この世界のすべてを治めておられる、
王である神の言葉に聞き従うことこそが、
私たちが拠って立つ土台を堅くする唯一の道なのです。
ですから、私はきょう、主キリストにあって、あなたがたに勧めます。
いつも神と共に歩み、決して揺らぐことのない神の言葉に、
どうか耳を傾け続けてください。
そして、どうか神の言葉をあなたの人生の土台にして歩んでください。
たとえどれだけ打ちのめされたとしても、
私たちの「魂を生き返らせ」、この「心に喜びを与え」る
神の御言葉が私たちの土台とされているならば、
私たちは神の御業によって常に新しく造り変えられ、
神によって生かされるのです。