「おめでとう、恵まれた方」
聖書 ルカによる福音書 1:26-34、創世記 18:9-10
2016年 11月 27日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【天使ガブリエルの挨拶】
ある日、神がガブリエルという名の天使を、ナザレという田舎の村にいる
ひとりの女性のもとに遣わしたことから、きょうの物語は始まります。
マリアという名の女性のもとに天使ガブリエルは現れて、
このように言いました。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28)
「おめでとう」と訳されている言葉は、
「喜び」という意味をもつギリシア語が使われています。
ただ、この言葉はごく普通の挨拶の言葉で、
出会ったときにも、別れるときにも用いられるものでした。
そして、「主があなたと共におられる」という表現も、
当時のユダヤの人たちにとっては慣用的な挨拶です。
ですから、ギリシア語聖書を読むと、
天使ガブリエルはマリアに単に挨拶をしただけのようにも受け取れます。
しかし、突然、自分のもとに現れた天使が語り始めたこの言葉を、
マリアは単なる挨拶とは受け取ることが出来ませんでした。
まさにこれらの挨拶が本来持っていた意味として、
彼女はこれらの言葉を受け取ったのです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28)
突然、神の使いから祝福の言葉を告げられたのですから、それは当然驚きます。
ですから、「マリアはこの言葉に戸惑い、考え込」んでしまいました。
「いったいこの挨拶は何のことか」(ルカ1:29)と。
【「おめでとう」とは決して言えない状況に立つマリア】
「なぜ神は天使を遣わして、自分に祝福の言葉を語るのだろうか」と、
マリアが考え込んでいると、天使ガブリエルは
神から預かったメッセージを彼女に告げました。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:31)
婚約期間中であるマリアは、ガブリエルの語ったこの言葉を聞いた後、
「わたしは男の人を知りません」(ルカ1:34)と答えました。
彼女はどう考えても子どもを身ごもるわけがないのです。
いや、それどころか、ガブリエルの語った言葉通りに
彼女が身ごもるならば、婚約者のヨセフや周囲の人々から
「マリアは他の男性と関係をもったのではないか?」と、
あらぬ疑いをかけられることは目に見えています。
それは、「おめでとう」と祝福されるどころか、とても迷惑な話です。
そのため、マリアはガブリエルにこのように語りました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)
ガブリエルの言葉を聞いたマリアは、あれやこれやと、
天使が語る言葉を受け入れられない理由や、
受け入れるための条件を考えたことでしょう。
婚約者であるヨセフと結婚して、1年くらい経つ頃であれば、
この天使が語る言葉を快く受け入れることが出来るだろう。
そのように、自分にとって身ごもることが自然な時期、自然な状況ならば、
心から喜んで「おめでとう」という言葉を受け入れられるだろう、という具合に。
このような自分の思い描く、都合の良い条件にピッタリと合うならば、
彼女は「どうして、そのようなことがありえましょうか」などとは言わずに、
ガブリエルの語った言葉を素直に受け入れたと思います。
しかし、現実は全くと言っていいほど違っていました。
彼女は不自然で、その上、面倒な状況に置かれてしまったのです。
婚約期間ではあったが、結婚前の時期に子を宿す。
そして、男性と関係を持っているわけでもないのに身ごもる。
これが天使ガブリエルがマリアに告げて、
マリアのその身に実際に起こった出来事です。
マリアが立たされたのは、
「おめでとう」などとは決して言えない状況でした。
【神の恵みは既に注がれている】
そのため、マリアは当然不安な思いや恐れを抱えたことだと思います。
自分の身に起こることや、ヨセフや周囲の人々との関係など、
不安な要素はたくさんあります。
だからこそ、神はガブリエルを通して語り掛けたのです。
「マリア、恐れることはない」(ルカ1:30)と。
そして、恵みが既に与えられているという現実に、
目を向けるようにと促すのです。
「あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1:30)と。
この言葉を直訳すると、「あなたは神のもとで恵みを見出した」となります。
つまり、「あなたがどのような存在であるか関係なしに、
あなたは神の目から見れば、神の恵みを受けている現実に生かされている」と、
マリアは告げられているのです。
それは、マリアが「恵まれた方」と呼ばれていることから明らかです。
ここで「恵まれた方」と訳されているギリシア語に注目すると、
時制が現在完了の形を取っていることがわかります。
現在完了ということを意識して「恵まれた方」を訳し直すと、
「神から恵みを既に与えられていて、今も受け続けている者」となります。
つまり、マリアは、主イエス誕生の告知を受ける以前から、
神からの恵みが既に与えられている
「恵まれた者」であると宣言されているのです。
そのため、マリアが神から受けている恵みとは、
神に生命を与えられ、日々必要な糧を与えられていること。
そして、御言葉を語り掛けられ、
神によって日々の歩みを導かれていることといえるでしょう。
そうであるならば、神はマリアと同じように、私たちに対しても、
「おめでとう、恵まれた方」と語り掛けてくださっています。
それは、神が私たちに既に恵みを与えてくださっているという
神の恵みに溢れる現実に、私たちが生かされているからです。
神の恵みは、すべての人に絶えず与えられています。
私たちに生命を与え、私たちに日々必要な糧を与え、
私たちの人生を導くことを通して、
神はその恵みを私たちにいつも与え続けてくださっています。
そして、神の恵みの究極の現れとして、
神はご自分の独り子であるイエス様を与えてくださいました。
イエス様を通して、私たちに罪の赦しと復活の希望、
そして永遠の生命を与えてくださいました。
それゆえに、私たちは既に神の恵みを受けていて、
今もその恵みを受け続けている「恵まれた者」なのです。
【苦難の中を歩む】
しかし、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけられているにも関わらず、
私たちは決して「おめでとう」とは言えない状況に置かれることがあります。
仕事や勉強で疲れて、毎日クタクタになって家に帰ってくる。
争いやトラブルに巻き込まれることもある。
なぜかわからないけども、涙がこみ上げてくることだってある。
「おめでとう」と宣言させない現実は、
私たちの周りに様々な形で広がっています。
マリアだって、神の恵みが既に与えられている現実に気付かされたとしても、
相変わらず恐れや不安は彼女に伴いました。
その上、彼女はイエス様の母親として生きたわけですから、
自分の息子であるイエス様の生涯の終わりに起こった出来事を通して、
その後、大きな悲しみを経験しました。
イエス様は奇跡を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払い、
教えを語ることを通して、人びとからの尊敬を受けた一方で、
最終的には、イエス様は人々から非難され、
ムチを打たれ、その両手と足に釘を打たれ、
苦しみながら十字架の上で死んでいきました。
そのような姿を見つめたマリアにとって、
イエス様の母として生きるということは、喜ばしいこととは、
決して手放しでは言えなかったと思います。
しかし、このような出来事が起こることを知った上で、
神はマリアに「おめでとう、恵まれた方」と語り、
イエス様の母として生きるようにと招いたのです。
私たちは、一体それをどのように理解すれば良いのでしょうか……。
それはきっと、神の恵みを与えられて生きている私たちは、
神の御手に導かれて、苦難の中を歩まされることがあるということなのでしょう。
では、なぜ神は、「おめでとう」とは手放しでは言えない場所へと
私たちを連れて行くのでしょうか。
それは、神がそのような場所を放っておけないからだと思います。
私たちを祈りへと導くために、
また、私たちを用いて、必要な手を差し伸べるために、
神は私たちが決して手放しでは喜べない場所へと、私たちを導かれます。
もちろん、私たちがそこで経験する苦しみや悲しみの一つ一つを見て、
神は「おめでとう」とは決して言いません。
共に悲しみ、泣いてくださいます。
しかし、神は最終的に、私たちを恵みのうちに取り扱ってくださいます。
私たちが予測不可能なことも、私たちが嘆き苦しむこともすべて、
恵みと憐れみに満ちている神の御手のうちにあるのですから。
それが、マリアを通して、私たちに明らかにされている希望です。
確かに、彼女はイエス様の母として生きる苦しみを経験しました。
しかし、すべての人の希望とつながる出来事が、
イエス様を通して起こったということを知ったとき、
彼女は慰めを受け、神の恵みを見出したのだと思います。
神の恵みが溢れているとは決して思えない現実や、
「おめでとう」とは言えない出来事は数多くあります。
しかし、恵み深い神の御手の内にあって、
その一つ一つは必ず正しく取り扱われていきます。
私たちが経験する苦難は、私たちから神の恵みを
完全に奪い去ることなど決して出来ません。
ですから、神が私たちに向かってその御手を伸ばし、
私たちの現実に恵みと憐れみに満ちた救いを与えてくださることを、
私たちは心から信頼して、神に向かって祈ることが出来るのです。
たとえ「おめでとう」とは言えない状況に置かれたとしても、
それでも、神が伸ばされる救いの御手を求めて祈ることが出来るのは、
神が私たちに与えてくださった大きな恵みだと言えるでしょう。
【神の恵みは決して変わらない】
ですから、私たちは、さきほど一緒に交読した詩編27篇を歌った
詩人と共に、希望を抱いてこう告白するのです。
「主はわたしの光、わたしの救い」(詩編27:1)と。
実は、この詩編27篇という詩編は、
信頼の歌の後に、嘆きの祈りがなされるという構造を持っています。
それは私たちの信仰の現実をよく表していると思います。
私たちは神に信頼をしているからこそ、
神の前で嘆き、悲しむことが出来るのです。
手放しでは喜べない、決して「おめでとう」とは言えない状況の中で、
神の救いの御手が伸ばされることを信じて、
「主よ、わたしの光、わたしの救い」と叫ぶ。
これこそ、私たち信仰者の現実なのだと思います。
私たちがそのように告白し、祈り続けることが出来るのは、
神の恵みが決して変わることがないからです。
天使ガブリエルを通して、神がマリアに告げたように、
神は私たち一人一人に「おめでとう、恵まれた方」と宣言されています。
現実を見つめると、決して「おめでとう」とは言えない現実が
私たちの周りに広がっているかもしれません。
しかし、神はあなたがたに恵みを与えてくださっています。
これこそ、私たちが拠って立つべきところです。
この変わらない神の恵みが、すべての人に注がれているという
喜びのメッセージは、私たち一人ひとりに委ねられています。
ですから、この喜びの知らせを携えて出て行こうではありませんか。
「おめでとう」という声が聞こえない場所に、
「おめでとう、恵まれた方」と告げ知らせる者へと
私たちは神から任命されているのですから。
主キリストにあって、既に実現している恵みの現実を、
この世界に告げ知らせようではありませんか。
さぁ、主キリストの恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりを携えて出て行きなさい。