「居場所を与えるために来られた方」
聖書 ルカによる福音書2:1-20、申命記10:17-19
2016年 12月 25日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【泊まる場所が見つからないマリアとヨセフ】
皆さん、クリスマスおめでとうございます。
きょう私たちは、この礼拝を通して、
私たちの救い主である、イエス・キリストがお生まれになったことを
一緒にお祝いする時間を過ごしています。
きょう一日、世界中のあらゆる教会で、
イエス様の誕生が喜ばれ、お祝いされていることでしょう。
そして、愛する家族や友人たち、また教会の人々と
一緒に楽しいひとときを過ごし、 美味しい食事を食べて、
プレゼントをお互いに交換し合う。
そのように、日本だけでなく、世界中が喜びに包まれ、
楽しく、明るい雰囲気になるのがクリスマスの日です。
そうであるならば、私たちのこの喜びのきっかけとなった
イエス・キリストの誕生は、さぞかし喜びに包まれ、
華やかに、多くの人に祝われたのだろうと想像してしまいます。
でも、どうやらそうではなかったと、
先ほど朗読していただいた聖書の言葉は私たちに告げます。
ルカはイエス様の誕生について、このように書いています。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7)
イエス様の両親であるヨセフとマリアは、
当時の皇帝の勅令に従って、住民登録をするために、
ユダヤ地方にあるベツレヘムの町を訪れていました。
当時の人々は、旅に出た際、
行った先々の地に住む親戚や知人を探し出して、
その人の家に泊めてもらったそうです。
7節で「宿屋」と訳されている言葉は、
商業的な宿泊場所ではなく、個人の家の客間を意味しています。
ですから、ヨセフとマリアも、当時の人々の習慣に従い、
一晩泊めてもらえないかと親戚や知り合いの家を尋ね歩いたことがわかります。
しかし、ベツレヘムの町は、自分たちと同じように、
住民登録をするためにやって来た人々で溢れていました。
恐らく、そのためでしょうが、ふたりがどの家を尋ねても、
家の客間には既に先客がいるため、
彼らを宿泊場所として受け入れてくれる家はありませんでした。
もちろん、宿屋に泊まるという選択肢もありましたが、
当時の宿屋は、ならず者や強盗も泊まる場所でした。
そのため、夫婦や子どもを連れて旅する人は、
宿屋に泊まるのを避けていたようです。
「個人の家の客間」を意味する言葉を7節で使っていることから、
ヨセフとマリアも宿屋に泊まることは避けていたことがわかります。
そのようなわけで、なかなか泊まるための場所を見つけることが出来ず、
彼らはベツレヘムの町を宿を探し求めて歩き回ったことが伺えます。
身重の女性には出来る限り、
身体に負担をかけないようにしなければなりませんから、
ヨセフはマリアの身体のことを気遣って、
焦りを覚えながら、泊まるための場所を探したことでしょう。
親戚や知り合いを尋ねても、既に先客がいるために断られる。
ダメ元で、見ず知らずの家を尋ねたでしょうが、
良い結果は得られませんでした。
そのように、なかなか泊まる場所が見つからない現状に、
ヨセフもマリアも泣きたくなったかもしれません。
その上、またひとつ問題が増えます。
何と、マリアが産気づいたというのです。
早く泊まる場所を見つけなければとますます焦るばかりです。
ルカは、とても短い報告で留めていますが、
想像力を働かせて、このときの状況について思い巡らしてみると、
ヨセフとマリアの置かれた状況が、
とても深刻な状況であったことがわかります。
【主イエスの生まれた場所】
最終的に、彼らは何とか泊まるための場所を探し当て、
無事にマリアの出産を終えます。
「飼い葉桶に寝かせた」という言葉から、
伝統的にはイエス様は馬小屋で産まれたとされていますが、
恐らく、一般の民家の居間のような場所であっただろうと
現在では考えられています。
今にも子どもが生まれそうで危ない状態のマリアを見て、
自分の家族の生活スペースである居間の一部を、
この家族に提供した人がいたということがわかります。
それは、泊まる場所がないと焦り、不安を抱えながら探し回っていた、
この二人に与えられた好意であり、親切でした。
このような出会いを、神が二人のために、
備えてくださった結果、泊まる場所が与えられたのだと思います。
でも、このように神が備えてくださった場所だといっても、
救い主であるイエス様が生まれた場所は、
決して特別な場所ではなかったと言えます。
何度も何度も泊まることを断られた末に、
辿り着いた民家の居間で、イエス様は生まれました。
その家の家族もその場にはいるため、
肩身の狭い思いをしながら、出産であり、滞在でした。
そこには、生まれたばかりの子を寝かせるためのゆりかごもありませんでした。
飼葉桶をゆりかご代わりに使い、最低限のものを何とか整えたのが、
イエス様が生まれた場所でした。
飼い葉桶とは、馬や牛が食べるエサを入れるための箱ですから、
衛生的には決して良い状態ではありません。
もちろん、泊まる場所がないよりは遥かにマシでしたが、
そのような場所に、飼い葉桶の上に寝かせられるのは、
生まれたばかりのイエス様が寝る環境としては、最悪でした。
ですから、出産を終えたマリアとヨセフは、
喜びよりも先に、無事に子どもを産めたことに胸をなでおろしたことでしょう。
でも、ホッとした思いを抱く一方で、
このような場所で産まれることになってしまったことについて、
産まれたばかりの自分の子に対して、
申し訳無い気持ちがあったかもしれません。
何より、救い主である方をお迎えするのに
相応しい場所を用意出来なかったため、
彼らは悲しい思いを抱いたことだと思います。
【すべての人にとっての喜びの出来事】
イエス様の両親がこのような思いを抱えていた、
その同じ頃に起こった出来事を、ルカは続けて紹介しています。
舞台はユダヤ地方の荒れ野。
そこで夜通し羊の番をする羊飼いたちのもとに天使が
突然現れ、イエス様の誕生を告げました。
そのときの様子をルカはこのように書いています。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:9-12)
救い主の誕生が、まず初めに羊飼いたちに告げられたことは、
とても奇妙なことだと思います。
ユダヤの人々が長い間待ち望み続けてきた、救い主の誕生なのですから、
宗教指導者や王、またローマの皇帝や政治家たちに
伝えれば良いではありませんか。
指導者たちがイエス様を信じ、受け入れれば、
彼らを通して、国全体に喜びが伝えられるのですから。
効率だけを考えるならば、そうするべきでしょう。
しかし神は、まず初めに羊飼いたちに
この喜びの知らせを伝えることを選びました。
この当時、羊飼いたちは、人々から優先されて何かを得るような
特別な扱いを受けるような職業ではありませんでした。
いや、寧ろその正反対の扱いを彼らは受けていました。
羊飼いたちは、何をしでかすかわからない危険なならず者だと、
人々から偏見の目で見られて、常に差別を受けていました。
そのため、町の中に彼らの居場所はありませんでした。
彼らは肩身の狭い思いをいつも味わい続け、
荒野で生活を続けていたことでしょう。
そんな羊飼いたちに、神はわざわざ天使の大群を遣わして、
救い主の誕生を知らせました。
なぜ彼らが一番最初に、救い主の誕生の知らせを聞く人々として、
神に選ばれたのでしょうか。
それは、居場所を失い、肩身の狭い思いをし、
差別を受け、ならず者と見られていたからです。
そんな人々から低く見られ、
彼ら自身も自分たちは価値のない存在と思っている羊飼いたちにこそ、
神は、喜びの知らせを伝えたかったのです。
救い主の誕生は、あなたがた羊飼いをはじめ、
すべての人々のための喜びの知らせであると明らかにするため、
神は、羊飼いたちを一番最初に選んだのです。
【羊飼いたちによって告げられた喜び】
さて、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、
急いで、幼子を探しに出かけました。
ベツレヘムの町中を探し回り、たくさんの人々に聞いて回る中で、
町の人々から拒絶されもしたことでしょう。
でも、それでも諦めずに、色々な人に聞きまわって、
探し続けた末に、彼らはついに幼子イエスのもとに辿り着いたのです。
そして、彼らは天使が自分たちに告げたことを伝えました。
そう、神は、この羊飼いたちを用いて、マリアとヨセフに改めて、
産まれてきた子どもの重要な役割を伝えたのです。
「産まれてきたこのイエスという男の子が、私たちの救い主なのだ」と。
泊まる場所を見つけられず、民家の居間で
肩身の狭い思いを味わいながら出産することになり、
飼い葉桶をゆりかご代わりに使うしか方法がなかった。
そんな親として不完全で、足りないところだらけな自分たちのところに、
救い主であるイエス様が来ました。
そして、人々から差別され、苦しむ羊飼いたちのところに救い主が来ました。
まさに自分には「居場所がない」と叫ぶすべての者たちのところに、
イエス様は救い主として来られたのです。
それが神によって与えられた喜びであると、
クリスマスの物語は私たちに告げるのです。
イエス様と出会い、居場所が与えられた羊飼いたちは、
この後、神を賛美しながら元の場所へと帰っていきます。
人間的な目で見れば、彼らを取り巻く状況は、
何も変っていないのかもしれません。
でも、神が共にいるという事実を知った今、
羊飼いたちは変えられていました。
彼らのくちびるに賛美の歌声が与えられ、
彼らは神をたたえながら帰っていったのです。
私たちに居場所を与えるために、救い主が来た、
という喜びの知らせを彼らは受け取ったため、喜んだのです。
【主イエスが私たちに与えた居場所】
さて、それではマリアやヨセフ、そして羊飼いたちのこの物語は、
私たちにとってどのような物語なのでしょうか。
彼らのように、居場所が見つからないことが、
私たちには時としてあります。
それは家の中に誰もいなくて、
自分は一人ぼっちだと気付かされるときかもしれません。
批判や身に覚えのない悪口を言わるなどして、
私たちの存在を否定する力と出会うときかもしれません。
友人や周囲の人々との間に、微妙な距離を感じるときかもしれませんし、
仲間はずれや、無視を経験するときかもしれません。
そのように、自分の居場所を見出すことができず、
どこに立つべきなのかをわからなくなるとき、
私たちの心は簡単に潰されてしまいます。
でも、そのようなとき、私たちは飼い葉桶で寝ている
イエス様の姿を思い出すように招かれています。
イエス様は居場所がなくて苦しむヨセフやマリア、
羊飼いたちのもとに来て、共にいてくださいました。
そして、彼らに対してそうだったように、私たちに対しても、
イエス様は同じように、私たちと共にいてくださいます。
そう、救い主であるイエス様が、私たちに居場所を与え、
イエス様ご自身が私たちの居場所でいてくださいます。
あなたの存在そのものが素晴らしく、美しいんだと
私たち一人ひとりに、イエス様は語り掛けてくださっているのです。
でも、自分だけが居場所があれば良いのではありません。
私たち以外にも、居場所を必要としている人々は、必ずいます。
だから、居場所を必要としているすべての人々のために、
私たちはイエス様の誕生の知らせを、
すべての人の喜びとして伝えに行くようにと招かれているのです。
私たち自身が、誰かの一時的な居場所になる必要が
ときにはあるかもしれません。
でも、私たち自身には人間的な弱さや限界があるため、
誰かの居場所で居続けることは出来ません。
しかし、救い主として私たちのもとに来てくださったイエス様は、
私たちの居場所であり続け、私たちに居場所を与え続けてくださる方です。
イエス様は私たちに教会という場所を与えてくださいました。
ここは、お互いに赦しあい、愛し合って生きるように招かれている場所です。
ここは、年齢や性別、社会的な地位や持っている能力、財産などで、
判断されず、お互いの良い部分も悪い部分も受け入れ合う場所です。
そして、イエス様は私たちに
天の国という場所を与えると約束してくださいました。
私たちは生きる限り、どうしても赦し合えない、
愛し合えないという弱さを抱えてしまいます。
でも、天の国においては、誰もが自分の抱えるすべての弱さを乗り越えて、
赦し合い、愛し合うことが出来ます。
そのような希望に溢れる場所を、
イエス様は私たちのために用意してくださっているのです。
イエス様によって、私たちに居場所が与えられ続けている。
それは、喜ぶべき知らせなのです。
ですから、私はあなた方にお願いします。
私たちのために産まれた救い主、イエス・キリストにあって、喜びなさい。
大いに喜びなさい。