「神の権威の下で生きる喜び」
聖書 マタイによる福音書8:5-13、イザヤ書25:6-10
2017年 1月 29日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【私たちは「権威」に取り囲まれている】
私たちは様々な権威に囲まれて生きています。
時にそれに喜んで従い、
また時にはその権威によって押しつけられ、押さえつけられています。
誰かの権威に甘えることもあれば、
そこからどうにかして逃れようとすることもあるでしょう。
私たちを取り囲み、私たちに働きかける権威とは、
身近なところでいえば、自分の両親。
それは、私たちが生きる上で一番最初に出会う権威です。
そして、私たちは生きる中で様々な権威と出会っていきます。
学校の先生や部活の先輩、バイトや仕事の上司、
そして見えないところでは国家の権力など、
多くの権威が私たちに向かって働いている。
いや、ときには自分自身が権威をもつことだってあります。
私たちはそれを時には認め、時には否定したくなります。
私たちを取り囲む権威が、いつもうまく働くとは限らないからです。
だから、私たちは究極的で、
自分自身の拠り所となる権威をいつも求めます。
それは聖書の時代に生きた人々もそうでした。
【イエスのもとに近づいて来る人々】
新約聖書の時代、イエス様の噂を聞いた人々は、
イエス様が神に権威を委ねられた人なのだと、徐々に認めていったようです。
そのため、イエス様のもとには、いつも色々な人たちが近づいてきました。
イエス様に近づいてくる彼らには、それぞれに様々な動機がありました。
ある人は、イエス様を通して語られる、
驚くべき言葉を聞くためにやって来ました。
ある人は、病を癒やしてもらうために。
ある人は、イエス様に信仰深いと認めてもらうために。
またある人は、イエス様に論争を仕掛けるためにやって来ました。
このようにイエス様のもとに近づい来た人たちの多くは、ユダヤ人でした。
イエス様は、ユダヤの社会で生き、
ユダヤの教師として権威をもって人々を教えていたのですから、
ユダヤの人々がイエス様のもとに集まってくるのは当然のことでした。
でも、きょうの物語ではどうだったでしょうか。
カファルナウムにやって来たイエス様のもとに、
いつもと違う人が近づいて来たそうです。
その人は、ローマ軍の「百人隊長」という役職に就いている軍人でした。
このとき、カファルナウムはローマ軍の駐屯所があったので、
この地域でローマ帝国の軍人を見かけるのは、日常的なことでした。
でも、だからといって、彼らの間に交流があったかというと、
恐らく殆どなかったと思います。
ユダヤ人にとって、ローマの軍人たちは「異邦人」であって、
自分たちの国を支配するローマ帝国の人々です。
そのため多くのユダヤ人たちは、彼ら異邦人たちとの関わりは、
最低限のもので済ませようと心がけていたと思います。
ユダヤ人たちがそのような態度をとるのですから、
ローマの軍人たちだって、彼らに積極的には関わろうとはしなかったでしょう。
そうであるならば、この時にローマの軍人であり、異邦人である百人隊長が、
イエス様のもとに近づいてきたことは、とても不思議なことでした。
彼は一体なぜ、イエス様のもとに近づいて来たのでしょうか。
【「わたしの子が中風で苦しんでいます」】
この百人隊長がイエス様のもとに近づいて来たのは、
彼がある問題を抱えていたためでした。
彼が抱えていた問題とは、自分の子どもが病に苦しんでいたことです。
日本語訳の聖書では、「わたしの僕」と訳されていますが、
ここでは、「わたしの子ども」と訳した方が良いと思います。
彼の子どもが苦しんでいた病とは、「中風」と呼ばれる病気でした。
中風とは、「脳出血などによって起こる、半身不随」のことですが、
彼の子どもの症状がどのようなものだったのか
正確に知ることは、もちろん出来ません。
聖書の記述を手がかりに、私たちが知ることが出来るのは、
この病によって、いつも彼の子どもの身体には痺れがあり、
そして、激しい痛みがその子を襲っていたということです。
6節で「寝込む」と訳されているもともとの言葉は、
「倒れる」という意味があるため、 その痛みの激しさや、
身体の不自由さが深刻なものであったことが伝わってきます。
この百人隊長は、中風によって苦しむ我が子の姿を見て、
居ても立ってもいられなくなったのでしょう。
だから、近頃ユダヤの人々の間で話題になっている
あのイエスという人のもとに行ってみようと思い立ち、
彼はイエス様のもとにやって来て、お願いをしたのです。
「主よ、わたしの子ども(新共同訳では「わたしの僕」)が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」(マタイ8:6)
【「ただ、ひと言おっしゃってください」】
彼のこの言葉に対して、イエス様は「わたしが行って、
いやしてあげよう」(マタイ8:7)と快く答えています。
しかし、それに対する百人隊長の返事はこのようなものでした。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(マタイ8:8a)
この百人隊長は、カファルナウムに駐在していたため、
異邦人である自分と関わりを持つことが、
ユダヤ人にとって、何を意味するのかをよく知っていました。
「ユダヤ人にとって、異邦人の家へ行くことはあり得ないことである」と。
ですから、彼は「主よ、わたしはあなたを
自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言って、
イエス様に自分の家に来てもらうことを断って、こう言いました。
ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの子ども(新共同訳では「わたしの僕」)はいやされます。(マタイ8:8b)
病の癒やしを求めて、イエス様のもとに近づいてくる人は皆、
病に苦しむ自分や愛する人の身体に、直接その手で触れてもらって、
病を癒やして欲しいと思っていたことでしょう。
しかし、それに対してこの百人隊長は、
「ただ、ひと言おっしゃってください」と願いました。
この人は、何と小さく、ささやかな願いをしたのだろうかと思わされます。
イエス様に自分の家の近くまで一緒に来てもらって、
自分の子を家の外に連れて来て、
イエス様に癒やしてもらうことだって出来たはずなのですから。
彼のこの言葉を聞いたイエス様は、驚いてこう言われました。
イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。(マタイ8:10)
イエス様がこう言ったのは、
百人隊長の謙虚さを見たからではありませんでした。
イエス様の言葉に力があることを強く信じて
「ただ、ひと言おっしゃってください」と
彼が願ったから、イエス様は驚かれたのです。
聖書を与えられ、神の民と呼ばれているイスラエルの中でさえ、
イエス様はこのような信仰をもつ人に出会ったことがなかったからです。
【神の権威の下で、主イエスは語られた】
この百人隊長は、強く信じていました。
イエス様が「あなたの子の病は癒される」と語るならば、
自分の子どもの病は必ず癒される、と。
ですから、「ただ、ひと言おっしゃってください」という彼の願いは、
小さく、ささやかなものではありませんでした。
謙虚な響きを持ちながら、大胆で、信仰に溢れた言葉だったのです。
自分の目の前にいるイエスというこの人が、
神によって権威を与えられている人ならば、
彼が語られた通りにならないはずがないと、彼は強く信じていました。
この百人隊長はこれまで、自分の部下である兵士たちへの命令が、
自分が語ったその通りに実行されることを経験してきました(マタイ8:9)。
それは、彼自身にそのような力があったから
というわけではありませんでした。
自分の上官や、軍の司令官、そしてローマ皇帝によって権威を与えられていて、
その権威に基いて、彼が兵士たちに命じてきたため、
彼の言葉に部下たちは従いましたし、
彼自身も自分より上の権威には従ってきました。
そうであるならば、神によって権威を与えられている
イエス様の言葉が、実現しないはずがないと、彼は信じていました。
聖書が語る神の言葉の力について、百人隊長である彼が、
一体どれほど知っていたのかはわかりません。
いや、ユダヤ人でもない彼が知っていることは、
本当に僅かだったことでしょう。
しかし、それでも、彼は神の権威を認め、
神の権威の下で語られるイエス様の言葉に、強い信頼を置いたのです。
事実、神の権威の下で語られる言葉には、驚くほどの力があります。
聖書はその初めから、神が言葉を語り掛けることによって、
この世界のすべてのものは造られたと明言しています。
ということは、この世界を造ることが出来るほどの力をもった言葉を、
神の権威に基いて、イエス様は語っているということなのです。
そうであるならば、イエス様が「あなたの子は癒される」と語るならば、
イエス様が語られた通りに、必ず実現するのです。
【あなたは誰の権威を認めているのか】
だから、この百人隊長は、自分の子どもが病になったとき、
究極的な権威をもつ方のいるところに来たのです。
それは、自分の上司やローマ皇帝、医者やローマの神々のもとではなく、
主イエスのもとでした。
この方にこそ、主イエスにこそ、神に与えられた権威があるのです。
イエス様に権威を与えた神は、百人隊長とイエス様の出会いを通して、
この物語を読むすべての人々に、私たちに問い掛けておられます。
「あなたにとって、究極的な権威を持っているのは一体誰なのか」と。
それは、家族でしょうか。
勤めている会社でしょうか。
国家や法律でしょうか。
それとも、あなた自身でしょうか。
「あなたは、誰の権威の下で生きているのか」と、
神は私たちにいつも問い掛けておられるのです。
【「あなたが信じたとおりになるように」】
しかし、私たちに問い掛けるだけでなく、
神はこの物語を通して、私たちを招いておられます。
「この世界を造り、あなた方一人一人を造られた
神である主の権威の下で生きなさい」と。
イエス様は権威をもって、この百人隊長に、そして私たちに命じました。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(マタイ8:13)
とても力強い言葉を語って、イエス様は彼を送り出しました。
そもそも、「神を信じないと何も始まらない」と語っているかのようです。
もちろん、神はすべての人に、権威をもって関わってくださっています。
でも、神を信じ、神の権威を認めていなければ、何が起こっても、
それはただの偶然だとか、奇跡で片付けられてしまうでしょう。
しかし、神を信じる時に、神が私たちに働きかけてくださることを
強く実感することが出来ます。
この世界を造られ、私たち一人ひとりを愛しておられる神は、
私たちに、救いの手をいつも伸ばしてくださっています。
神が望み、神が語り掛けてくださるならば
私たちが不可能だと鼻で笑い、諦め、落胆するところに、
神は私たちが歩むべき道を切り開いてくださいます。
私たちの信じる神は、この世界を何もないところから、
言葉を語り掛けることによって造り出し、
今もこの世界を治めておられるお方なのですから。
そして、十字架にかかり、死んで、墓に葬られたイエス様を、
3日目に復活させたのが、私たちの神です。
この世界の造り主であり、死の先に復活の生命を与えることのできる、
そのような業を権威をもって行なうことの出来る方が、
私たちの神として、私たちに関わり続けてくださっています。
ですから、神の権威の下で生きることは、私たちにとって大きな喜びなのです。
神が権威を持って働くならば、私たちが最悪だと思うような場所に、
神は最善の道を用意して、私たちの歩みを導くことさえも出来ます。
だからイエス様は言われました。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と。
この言葉は「神が奇跡を起こすことさえも、あなたは信じているのか」
と問いかけるような言葉です。
そんなの無理だと正直、反対したくなります。
しかし、この日曜日の朝、私たちは、イエス様が権威を持って
百人隊長に語られた言葉を、信仰をもって受け取りたいと思うのです。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(マタイ8:13)
あなたがたがこの礼拝堂を出て、帰る場所は、
様々な権威、様々な力が働いている場所かもしれません。
そこは、権威に囲まれ、苦しみ、落胆し、
思うようにいかない現実に涙を流している場所かもしれません。
しかし、神はその場所に、権威をもって働かれます。
神が私たちに対する愛をもって、語り掛け、
その御手を伸ばされることを信じましょう。
さぁ、あなたが暮らす日常へと「帰りなさい。
あなたが信じたとおりになるように。」(マタイ8:13)