「病を担う神」
聖書 マタイによる福音書 8:14-17、イザヤ書 53:3-5
2017年 2月 5日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【自らの弱さ・儚さに嘆く生涯】
「病」は、いつの時代の人にとっても悩みの種です。
出来る限り、健康で過ごしたいと願っても、
病は突然、私たちの身に降り掛かってきます。
病気になると、身体が弱るため、
今まで出来ると思っていたことが出来なくなります。
そのため、予定していたことを諦める必要が生じることもあります。
病気の種類によっては、身体だけでなく、心まで弱ってしまいます。
このようにして、病を患うとき、
私たちは自分の弱さや無力さを実感することになるのです。
確かに、聖書の時代よりも、今の時代のほうが遥かに医療が進んでいます。
でも、とはいえ、 病になる私たちの身体や、
それを受け入れる心が強くなったわけではありません。
ですから、どんなに医療が進んでも、
どんなに人の寿命が伸びたとしても、
病を抱えるとき、私たちは自分の肉体の弱さを覚え、
人の人生の儚さに嘆きたくなります。
きょうのこの礼拝の中で一緒に声を合わせて読んだ、
詩編90篇の詩人の嘆きの言葉は、私たちの嘆きでもあると思います。
人生の年月は70年程のものです。
健やかな人が80年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩編90:10)
新約聖書の時代、イエス様に病を癒してもらった人々も、
今の私たちと変わらず、病を抱えるとき、
自分の弱さに直面し、嘆き続けました。
医療が進んだ現代とは違って、この時代の人々は、
今では簡単に治る病でさえ、命を落とす危険もありました。
そのため、現代に生きる私たち以上に、
人生の苦しみや、人の生命の儚さについて知り、
人間の弱さに直面する機会は多くあったと思います。
【「彼はわたしたちの病を担った」】
きょう開かれたマタイによる福音書の物語には、ふたつの話が描かれています。
ひとつは、ペトロの義理のお母さんの熱が、イエス様によって癒される話。
もうひとつは、その日の夕方に、病を癒してもらうために、
イエス様のもとに多くの人たちが訪れた話です。
実際に、イエス様は多くの人々の病を癒しました。
でも、だからといって、「病を癒す絶大な力を持っているから、
イエス様は私たちの救い主なのだ」と、読者に証明し、
説得をするために、マタイはこの物語を記したわけではありません。
マタイは、イエス様がたくさんの人々を癒やしたという
きょうの物語を、預言者イザヤの言葉を引用して結んでいます。
「彼はわたしたちの患いを負い、
わたしたちの病を担った。」(マタイ8:17)
この言葉は、さきほど一緒に読んでいただいた、
旧約聖書のイザヤ書53章からの引用です。
イザヤ書53章で描かれている人物は、「苦難のしもべ」と呼ばれる人です。
預言者イザヤによれば、この人は、人々から「軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:3)人でした。
このことから考えると、ここで「病」と言われていることは、
何も「病気」だけを指しているわけではないことがわかります。
あれこれとそれらしい理由を並べ立てて、人を軽蔑することや、
この人は自分には役に立たないと決めつけて、人を見捨てることこそが、
私たちの「病」であると、預言者イザヤは指摘しているのです。
つまり、私たちは自分自身の身体の状態だけでなく、
周囲の人との関係の中においても、病を見出すのです。
その意味で、いわば、人間社会の病巣のようなものを、
この「苦難のしもべ」と呼ばれる人は背負った、といえるでしょう。
預言者イザヤによれば、「苦難のしもべ」が、
私たちの病を背負ったということには、大きな意味がありました。
イザヤは言います。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)
「苦難のしもべ」は、私たちの病を背負っただけではありませんでした。
イザヤによれば、彼が様々な懲らしめを受けたことによって、
私たちの病は癒されたのです。
マタイによる福音書を書いたマタイという人は、
イザヤ書においてこのように描かれている
「苦難のしもべ」の姿と重ね合わせて、イエス様の姿を見ました。
そのため、彼は確信をもって、イエス様が人々の病を癒した物語の後に、
イザヤ書の言葉を置き、私たちに伝えているのです。
「イエス様こそ、私たちの病を担ってくださった方である」。
イザヤ書にある通り、「彼はわたしたちの患いを負い、
わたしたちの病を担った」(マタイ8:17)のだから!と。
イエス様が背負ってくださった私たちの病とは、私たちの罪です。
事実、この「苦難のしもべ」の姿に、
私たちの罪を背負って、十字架に架けられたイエス様の姿を、
代々の信仰者たちは重ねて見てきました。
そう、イエス様が十字架に架けられる前に、
何度も鞭を打たれ、人々から蔑まれ、懲らしめを受けたのは、
私たちの罪が根本的な原因であり、
イエス様が十字架上で槍で刺し貫かれたのは、私たちが神に背いたためでした。
そして、イエス様が受けたこの苦しみは、私たちの病が癒やされるため、
私たちの罪が赦されるために、受けたものでした。
マタイはこのように受け止め、信じたから、
イザヤ書の言葉をきょうの物語の結びに記したのです。
【「罪」という名の私たちの「病」】
では、私たちの罪とは、どのようなものでしょうか。
私という一人の人が犯す罪は数多くあります。
思いにおいても、言葉においても、行いにおいても、
私たちは神の前に、喜ばれないことをしてしまいます。
でも、私たちはこの罪が、誰にも影響を与えないと思い込んではいけません。
この罪は、鎖のように絡まり、
他の人を縛り付け、苦しめるほどの力をもっています。
私たち人間の罪は、様々な形で私たちを取り巻き、
私たちの生活の中で、人との関係の中で、表面化しています。
いじめはいつまで経ってもなくなりませんし、
家庭の中にも、たくさんの傷があります。
「ヘイトスピーチ」という言葉に代表されるように、
人の尊厳を傷付け、差別し、誰かを攻撃することでしか、
自分の主張をうまく伝えることが出来ません。
豊かさを求めるあまり、弱さを抱える誰かを、
気づかぬ内に踏みにじってしまっています。
また、人を道具のように見てしまい、
自分にとって役に立つのか、役に立たないのかで、
私たちは人を判断してしまいがちです。
このように、私たちの抱える罪とは、
個人のレベルで留まることは決してありません。
罪は、鎖のように周囲の人々に絡みつき、巻き込み、
苦しみの連鎖を際限なく続ける力を持っているのですから。
そのため、この世界を見渡すとき、私たち人間の罪によって、
引き起こされる病が数多く存在することに気付くでしょう。
受け入れられないからといって、壁をつくり、誰かを排除をすれば、
怒りや憎しみがまた別の形となって襲い掛かってくることを、
私たちはこの世界で起きている様々な出来事を通して、
何度も何度も学んでいます。
いや、学んでいるはずです。
しかし、私たちの病の多くは、
私たちの手で解決し、癒やすことが出来ないものばかりです。
それゆえに、私たちは自分たちのこの病と向き合うときに、
自分の弱さや無力さを感じるのです。
だからマタイは、「彼はわたしたちの患いを負い、
わたしたちの病を担った」とイザヤ書の言葉を引用する際、
「弱さ」や「無力」という意味を持つ言葉を用いて、
「患い」と表現したのでしょう。
この罪という名の病によって、私たちの身体、私たちの心、
私たちを取り巻く人間関係、私たちのこの社会、世界は、ボロボロです……。
弱さを感じ、無力さで押しつぶされそうです。
そうであるならば、これらを私たちの「病」と呼ばずして、
一体何を「病」と呼べるでしょうか。
詩編90篇の嘆きの言葉にあったように、
まさに「得るところは労苦と災いにすぎません」。
【私たちの神は、私たちの病を担い、癒される】
しかし、私たちは、私たち自身が抱える病を見つめるとき、
悲しみ、嘆き続ける必要はありません。
確かに、私たちの抱える「罪という名の病」は絶望的です。
しかし、そのような私たちの現実に、
神は救いの手を伸ばしてくださいました。
神は、私たちのこの病を癒すために、
イエス様を私たちのもとに送ってくださいました。
いや、私たちの罪は、イエス様が
十字架に架けられることによって、既に赦されました。
そうであるならば、私たちのこの病には、
既に救いの光が照らされているのです。
しかし、この罪という名の病が完全に癒され、
神の喜びとなる日が訪れるまでには、時間がかかります。
だから、私たちは相変わらず苦しんでいるのです。
でも、時間はかかるけれども、神が少しずつ、少しずつ、
この病を癒すために救いの手を差し出してくださっています。
自分では何も変わっていないように思います。
相変わらず、自分の言葉や態度で、周囲の人々を傷付けてしまっています。
しかし、神が私たちの病を担ってくださって、
私たちを癒やしてくださっているという現実に、
私たちは今、生かされているのです。
このような現実に生かされているということこそ、
私たちが喜びとしている「福音」というものです。
私たち自身の力で、私たちは罪の赦し、病の癒やしを得たわけではありません。
神が私たちを愛し、私たちを憐れんでくださったから、
イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったから、
だから、私たちは罪を赦され、この病を癒されたのです。
神の一方的な恵みによって、このような現実に生かされているから、
神の救いは、私たちにとって驚きであり、喜びの知らせなのです。
【復活の希望を心に刻みつけて生きる】
愛する小岩教会の皆さん、預言者イザヤが語り、
マタイが確信をもってその言葉を再び語った通り、
神は、私たちの病を担い、癒してくださる方です。
病というものは、それがこの肉体を蝕む病気であれ、
人間関係の間に見られるいさかいや、傷であれ、必ず苦しみが伴います。
でも、この病に苦しみ、悲しみ、嘆くとき、
私たちは決して一人で苦しんでいるわけではないことを、
いつも思い出してください。
私たちが信じる神というお方は、インマヌエルと呼ばれる方です。
その意味は「神は、私たちと共にいてくださる」です。
神は、罪や病によって私たちが苦しむのを、
遠くの方からただ眺めている方ではありません。
私たちを完全に癒してくださるその日まで、
神は私たちと共にいて、共に歩み、私たちと共に苦しんでくださいます。
そして、罪という名の病を担い、癒してくださる方は、
私たちの弱さや無力さ、不安や恐怖さえも知って、
それさえも私たちと共に担ってくださいます。
「その病によって、あなたはもう苦しむ必要はないんだよ」と言って、
神は、愛する私たちに手を差し伸べてくださいます。
そして、私たちの苦しむ重荷を背負い、私たちに平和を与えてくださるのです。
このように、私たちの病を担ってくださる方が、
私たちと一緒に歩んでくださることは大きな喜びなのです。
ですから、私たちの病を担ってくださる神と共に、
この地上での旅を歩み続けて行きましょう。
私たちにとって、この地上での旅は、天の御国を目指して歩む旅です。
神は、この旅を歩む私たちに、
「復活の生命」を与えるという希望を与えてくださいました。
復活の生命が与えられるということは、
神が私たちの罪を赦し、罪が私たちにもたらす傷や、
罪によって引き起こされる人間関係の病を完全に癒す
ということ以上の恵みを与えてくださっているということです。
「癒やし」は、本来あった状態にしか戻れません。
しかし、私たちの罪、病、弱さ、無力さ、
そのすべてを担ってくださる神は、
私たちに「復活の生命」を与えることを通して、
「癒やし」以上のことを私たちに起こしてくださいます。
使徒パウロは、コリントの教会に送った第一の手紙の中で、
その希望をこのように書き記しています。
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(Ⅰコリ15:52)
やがて朽ちる肉体をもつ私たちは、
どれだけ医療が進んだとしても、弱く、無力な存在です。
しかし、神が定めたその日が来たならば、
復活の生命を与えられた私たちは、一瞬のうちに変えられます。
「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。
私たちの病を担い、癒やしを与え、
私たちの罪を赦しと復活の希望を与えてくださった神が、
私たちを一瞬のうちに、朽ちない者へと変えてくださるのです。
私たちには、主キリストにあって、このような希望が与えられています。
今は、この地上での旅は、弱さや無力さを背負い、自分の罪と戦い、
この社会の病的で、攻撃的な扱いに苦しむことが多いかもしれません。
しかし、私たちには喜ぶべき知らせが既に与えられています。
主キリストにあって、希望を与えられています。
愛する小岩教会の皆さん、神が私たちに与えてくださったこの希望を
しっかりと見つめて歩んでいきましょう。
たった一人で、この地上を歩むのでは、
あまりにも簡単に、苦しみや悲しみに押し流されてしまいます。
でも、感謝すべきことに、私たちには教会の交わりが与えられています。
イエス様によって与えられている希望を一緒に見つめながら、
共に祈り合い、助け合い、支え合い、お互いに励まし合いながら、
天の御国へと続くこの旅路を歩んでいきましょう。
私たちの病を担い、癒し、復活の希望を与えてくださる、
神の救いの御手が、今も私たちに伸ばされていることに目を向けて、
喜びと感謝を抱きながら、この希望をしっかりと心に刻みつけて、
この一週間も歩んでいきましょう。