「キリスト者の価値観」
聖書 マタイによる福音書 8:28-34、創世記 13:8-18
2017年 2月 19日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【どんな価値観の下で生きているか?】
価値の判断基準は、人それぞれ異なります。
たとえば、突然手に入ったお金を、何に使うのかによって、
人の価値観が、如実に現れることがあります。
ある人は、手にしたそのお金を貯金することを選ぶでしょう。
ある人は、家族と美味しい食事を食べるために使います。
ある人は、 趣味のために全てを注ぎ込み、
またある人は、本来自分の手元にあるものではなかったものだと捉えて、
貧しい人たちや災害で苦しむ人たちのために募金をしたり、
教会の働きのために献金することを選びます。
まさに、人それぞれです。
このような価値観は、一体どのように形作られていくのでしょうか。
人間誰もが、家庭や生まれた国、そしてその時代の影響を受けて、
幼い頃から、価値観や物の考え方を身につけていきます。
そしてその後、出会う友人たちや先生、書物や経験などから学んだこと、
政治的な立場、宗教、経済状況などから、様々な影響を受けることによって、
私たちの価値観は形づくられてきました。
そんな私たちに対して、先ほど朗読していただいた、
マタイによる福音書の物語は、問い掛けています。
「あなたはどのような価値観を持って生きているのですか?」と。
そして、そのように問い掛けながら、マタイはこの物語を通して、
イエス様の「弟子」と呼ばれる者がもつ価値観を紹介しています。
【悪霊を追い払って頂いた二人の人】
ガラダ人と呼ばれる人々の暮らす地域で、
イエス様が悪霊を追い出したという、きょうの物語には、
この地に暮らす、3つのグループが描かれています。
最初のグループは、悪霊に取りつかれていた2人の人です。
どうやら彼らは、この地域に暮らす人々から避けられていたようです。
28節によれば、彼らが原因で、この地域で暮らす人たちは、
この2人がいる、周辺の道を通ることができませんでした。
彼らがいるその周辺の道が通れなかった理由について、
「彼らはひどく狂暴で」(マタイ8:28)と記されていますが、
もともとの言葉は「難しい」という意味に過ぎません。
悪霊に取りつかれたこの2人の人たちが、
この地域の人たちにとっては、厄介で迷惑な存在だったのでしょう。
悪霊に取りつかれていたために、暴れだすことが多かったのかもしれません。
心で思うことを制御しきれず、
暴言や狂言、人を呪い、傷つけるような言葉を吐き続けたのかもしれません。
このように、人々から厄介な者として見られていた、この2人の人は、
この地域にイエス様が来たことを知ると、
イエス様のもとにやって来て、叫びました。
「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(マタイ8:29)
彼らが言う「その時」とは、世の終わりの日のことです。
悪霊たちにとって、世の終わりの日が来ることは、
自分たちが滅びる日が来たことを意味していました。
でも、まだそのときは来ていないのに、このとき、
イエス様が自分たちを追い払いにやって来たのです。
ですから、悪霊たちはイエス様に抗議して叫んだのです。
「まだその時ではないはずなのに、なぜですか?」と。
そして、イエス様に抗議をすると共に、彼らはイエス様に懇願しました。
「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」(マタイ8:31)と。
悪霊たちのこのような願いを聞いた上で、
イエス様は悪霊たちを、2人の人から追い払いました。
ここでは描かれていませんが、悪霊に取りつかれていたこの2人の人は、
悪霊の支配から解放されて、
これまでの生活に戻ることが出来ました。
そのため、彼らにとって、この出来事は大きな喜びだったはずです。
ですから、彼らはこの喜びを、町の人々に伝えに行ったことでしょう。
【豚を失った人々、それを聞いて恐れる人々】
ところで、このときに衝撃的な事件が起きたことを、
マタイは私たちに伝えています。
イエス様に追い出された悪霊たちは、
彼らが願った通り、豚の中に入ったそうです。
しかし、悪霊が侵入してきたことが突然の出来事だったため、
豚はパニックに陥ったのでしょう。
パニックになった豚の群れは、崖を下りはじめ、
ガリラヤ湖に向かって走り出して行きました。
そして、何と、ガリラヤ湖にそのまま入り込んで、溺れて死んでしまったのです。
1世紀半ばのユダヤ人たちは、この物語を読んで喜んだと思います。
というのも、豚は、ユダヤ人が忌み嫌った生き物でしたし、
この時に悪霊までも一緒に滅びたというのですから。
でも、豚の飼い主にとっては、迷惑な話です。
飼い主たちは、この豚の世話をすることによって、
生活をしていたでしょうから、
大量に豚が死んでしまうのは、彼らにとっては大損害です。
この出来事を見て、彼らは恐ろしくなって逃げ出してしまいましたが、
やがて、豚を失ったことに悲しみ、
生活の手段の多くを失ったことに茫然としたことでしょう。
この豚を飼っている人たちこそ、
この物語で描かれている第2のグループです。
【「私たちのところから、出て行ってください」】
イエス様との出会いによって引き起こされた、
悪霊を追い出してもらった人たちと、豚の飼い主たちの経験は、
町の人々に伝わり、噂として、瞬く間に広まっていきました。
確かに、イエス様の行なうことは素晴らしいものでした。
ガリラヤ湖の向こう岸の、あのガリラヤで流れていた
イエス様に関する噂が、この地域の人々にも届いていたならば、
イエス様は彼らに心から歓迎されたことでしょう。
「このイエスという人のもとに行けば、病気は癒される。」
「イエスという人が語る教えは素晴らしい!」と言って、
多くの人たちが期待しつつ、
イエス様のもとに集まってきたことだと思います。
イエス様が来て、病人を癒やし、悪霊を追い払い、
素晴らしい教えを語ってくれるならば、それはもう大歓迎です。
ところが、実際は違いました。
人々の間で今回の騒動については、こんな風に噂されました。
「あのイエスという人は、例のあの二人から悪霊を追い払ったみたいだが、
どうやら、彼が行なうのは、良い事ばかりではないらしい。
もしかしたら、俺たちのもとに厄介なことをもたらすかもしれないぞ。」
「君は知ってるか?
ほら、ガリラヤ湖の近くで豚の群れを飼っているあの人がいるだろう。
イエスの力によって追い払われた悪霊が、
あの人の飼っている豚に入り込んだせいで、
豚が何百匹も死んでしまったらしいよ。
それはそれは大損害さ。」
イエス様が悪霊を追い払うだけならば、当然、彼らも喜んだことでしょう。
悪霊に取りつかれた二人の人が原因で、通れなかった道が(マタイ8:28)、
再び通れるようになったのですから。
しかし、この噂を聞いた町の人々は、悪霊を追い出すことの出来る
イエス様の力を知って、驚きつつも、恐怖を覚えたのだと思います。
「自分たちにまで、何か悪いことが起こるのではないか」。
「イエスという人によって、厄介事がやってくるのはごめんだ」と。
そのため、彼らはイエス様のもとに来て、
「どうか、私たちのところから出て行ってください」と言って、
イエス様とその弟子たちを追い出してしまいました。
イエス様は、ガダラ人の地に住む人々が、
必要としていたことを行ったはずです。
厄介者と見られていた、悪霊に取りつかれていた2人の人から、
悪霊を追い出し、この問題を解決しました。
しかし、豚の群がパニックに陥って、死んでしまったため、
イエス様は人々から、面倒なことを引き起こす、厄介な者と見られ、
「ここから出て行ってくれ」と言われ、
その地を追い出されることになってしまったのです。
まさに、イエス様ご自身が語っていたように、
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」が、
「人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)のです。
【私たちの価値観と神の言葉の衝突】
このように、イエス様が引き起こす業を中心に、
様々な反応がこの物語の中に、見られました。
悪霊を追い出してもらった人々は、心から喜び、
豚を失った飼い主たちは、恐れ、経済的な損失に失望しました。
町の人々は、どちらの声も聞いたでしょうが、
豚の飼い主たちの受けた被害を見て、
自分たちまで厄介事に巻き込まれるのではないかと恐れて、
イエス様と弟子たちを追い出してしまいました。
しかし、彼らはそもそもなぜ、
イエス様が自分たちと一緒にいるのを恐れたのでしょうか。
それは、この地の人々にとって、経済的な豊かさや、
生活の安定こそが最も優先するべきものだったからです。
もちろん、極端にそれを求めすぎるのは異常ですが、
ある程度の豊かさは私たちの心を支えるでしょうし、
生活が安定することは、自分だけではなく、
一緒に暮らす人たちにとっても大切なことです。
しかし、この町の人々は、
経済的な豊かさや、生活の安定に心を奪われていました。
イエス様が悪霊を追い払ったことによって、
豚の群が死んで、大損失を被ったことの方にばかり気を取られていました。
たしかに、人間的な目で見るならば、
悪霊が追い払われた結果、豚が犠牲となって、
豚の飼い主たちの多くの資産が失われました。
でも、この出来事は、イエス様の言葉を借りるならば、
この地上に富を積むことではなく、「天に富を積む」(マタイ6:20)
出来事だったのではないでしょうか。
悪霊を追い払ってもらった人々は、
悪霊を追い払ってもらうことによって、これまでの生活に戻ることが出来、
愛する人たちと一緒に暮らすことがまた出来るようになったのですから。
この経験は、彼らにとってどれほど喜ばしいことであったでしょうか。
そのようなことに、町の人々は目を向けませんでした。
まさにこのとき、人々の抱いていた価値観と、
イエス様によって起こされた神の業とがぶつかり合い、音を立てたのです。
その結果が、イエス様と弟子たちの拒絶でした。
「どうか、ここから出て行ってください」。
町の人々の言葉が、イエス様の耳に悲しく響きました。
【「主よ、どうか来てください」】
町の人々がそうであったように、
私たちが当然のものと思っている自分の価値観と、
神が私たちに語り掛けてくださる言葉とが、激しくぶつかり合うことは、
私たちがイエス様と出会うたびに、何度も何度も起きています。
私たちがこれまで培ってきたものと、神の言葉は、
私たちの生涯を通して、何度も衝突を繰り返すのです。
その衝突は、私たちにとって、不利益としか思えず、
厄介で、面倒なことにしか感じられないことがあります。
そのため、私たちはイエス様にこう言ってしまうのです。
「主よ、ここから先は、踏み込まないでください。
この場所は、私の領域なんです。
だから、この場所だけは、そっとしておいて欲しいのです。 」
「日曜日のこの時間だけならば良いと思います。
でも、平日は勘弁してください。
自分の好きに、やりたいように生きたいのです」。
「主よ、どこかへ行ってください」と。
しかし、このように言ってしまう私たちのことを、
イエス様は決して諦めずに、見捨てずに、関わり続けてくださいます。
私たちと関わり続けることによって、イエス様は私たちに、
イエス様の弟子として生きる者の価値観を教えてくださるのです。
キリストの弟子にとって、最も重要な価値基準は、
神の約束を握りしめているということでしょう。
神が私たちに与えてくださった約束こそ、
私たちが信頼して、見つめ続けるべきものです。
神が私たちに与えてくださった約束とは、
私たちに天の御国を与えるというものです。
私たちは、天の御国に生きる者らしく、物事を考えて、
神の約束を握りしめて生きるようにと招かれているのです。
使徒パウロは、このことをローマの教会に書いて送った手紙の中で、
このように表現しました。
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12:2)
神が喜ばれることが、私たちの喜びとなり、
神が望まれることが、私たちの望みとなる。
そして、神が善いと言われることが、
私たちにとって善いことだと判断出来るようになる。
驚くべきことに、私たちの努力によってではなく、
神が私たちに働きかけてくださることによって、
それは起こるとパウロは言うのです。
神によって、「自分を変えていただき」なさい、と。
もちろん、全く同じような価値観を持つ人間へと、
神が私たちを変えるのではありません。
一人ひとりに与えられた個性が大切にされ、尊重されながら、
イエス様の弟子に相応しい者としての価値観を、
神が私たちに一人ひとりに与えてくださるのです。
そのようにして、主イエスに似た者へと、
私たちは少しずつ、少しずつ、変えられていくのです。
ですから、神の業に期待して、希望をもって、私たちは祈り続けましょう。
「主よ、どうか来てください」と。