「子と呼ばれる恵み」

「子と呼ばれる恵み」 

聖書 マタイによる福音書 9:1-8、出エジプト記 34:4-9 

2017年 2月 26日 礼拝、小岩教会 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【何と呼ばれるか?】 

どのように名前を呼ばれているのかによって、 

呼ばれる人と呼びかける人との関係性がわかることがあります。 

たとえば、自分が普段、周りの人たちから、

どのように呼ばれているのかを思い返してみると、

そのことをよく実感できるかと思います。

学校の先生や友人たち、また近所の人たちからは、

何と呼ばれているでしょうか。

両親や家族、親戚の人たちは、どのように自分のことを呼び、

子どもや孫たちからは何と呼ばれているでしょうか。

呼び方、また呼ばれ方で、そこにある関係性が何となく見えてくる気がします。

先ほど読んでいただいた、

マタイによる福音書の物語に目を移してみるとどうでしょうか。

この物語において、イエス様は、

自分の元に連れられてきた「中風」と呼ばれる病気を患っている人を、

「子よ」(マタイ9:2)と呼んでいます。

もちろん、イエス様とこの中風の人との間に、

血のつながりがあったわけではありませんし、

この人が幼い子どもであったわけでもありません。

しかし、それでも、イエス様はこの人に「子よ」と言われたのです。

 

【「子」と呼ばれる理由】 

「子ども」であるとは、どういう意味なのでしょうか。

子どもという言葉を聞くと、「無邪気さ」や「可愛らしさ」

「元気の良さ」を連想する一方で、「幼い」「未熟な者」

「わがまま」「誰かの助けがないと生きていけない弱い存在」

といった意味も思い浮かべます。

もちろん、このような意味を込めて、イエス様は、

この中風な人に「子よ」と呼びかけたわけではありません。

ここでイエス様は、「あなたは神の子どもなんですよ」と伝えるために、

彼に向かって「子よ」と呼びかけられたのです。

親にとって、子どもは、愛してやまない存在です。

「それと同じように、いやそれ以上に、

あなたのことを、神は愛してやまない」と、

イエス様は中風の人に伝えているのです。

また、親にとって、子どもは、見捨てることが出来ない存在です。

「それと同じように、いやそれ以上に、

神はあなたを決して見捨てることがない」と、

イエス様は「子よ」と呼びかけることを通して、

この中風の人に伝えているのです。

彼が今、驚くべき恵みに溢れた現実に

生かされていることを、イエス様は彼に告げたのです。

 

【罪の赦しを与える権威】 

ところで、この時代の人々は、病は神が与えた罰であると考えていました。

そのため、誰の目にも、この中風の人は、

神に罰を与えられた罪人として見えました。

ですから、この様子を見ていた周囲の人々は、

神の子と呼ばれる資格など、この中風の人にはないと考えていたと思います。

いや、「子よ」と呼びかけられている中風の人さえも、

自分には神の子と呼ばれる資格などないと思っていたでしょう。

それどころか、中風という病でさえ苦しいのに、

彼は罪意識に苦しみ、悩んでいたことでしょう。

「神が、自分の罪を赦してくださらないから、

自分は病を抱えたままなのだ」と。

イエス様は、このような苦しみを抱えるこの人に、

「子よ」と語りかけた後、「あなたの罪は赦される」と言って、

罪の赦しを宣言されました。

そう宣言することによって、

「思い出しなさい、あなたは神の子どもなのだ」と伝えられたのです。

しかし、周囲にいた人々にとって、

特に聖書の専門家である、律法学者たちにとって、

イエス様が彼に語った罪の赦しの宣言は、

神への冒瀆であるかのように聞こえたようです(マタイ9:3)。

イエス様の発言がそのようなものとして受け止められてしまうのは、

当然のことだったと思います。

この時に、イエス様の周囲を取り巻いていた人々にとって、

彼は素晴らしい教えを語ったり、人々の病を癒したりはするけれども、

一人の人間に過ぎませんでした。

ですから、「このイエスという人が、

罪を赦す権威を持つはずがない」と人々は考えました。

しかし、イエス様こそ、神の子として、

神から罪を赦す権威を与えられたお方なのです。

だから、イエス様は「子よ、……あなたの罪は赦された」と、

この中風の人に宣言することが出来たのです。

 

【罪の赦しは、神からの一方的な恵み】

では、そもそもなぜ、この中風の人は罪を赦されたのでしょうか。

私たち人間にとって、罪が赦されるためには、何らかの理由が必要です。

そのため、私たちは理由を考えます。

「この人が、神から罪を赦されたのは、

彼が善い行いをしたからなのだろうか。

それとも、長い時間をかけて、悔い改めたり、

断食をたくさんしたからなのだろうか」という具合に。

しかし、マタイはこの物語を通して断言します。

「違う、そのような理由はない」と。

そう、この中風を患っていたこの人自身のうちに、

罪を赦される理由はまったく見当たりません。

寧ろ、その逆でした。

この時代の常識は、病は神の罰であったため、それに従って彼を見るならば、

彼は神の前で赦されていない存在です。

そのため、イエス様が「子よ、……あなたの罪は赦される」

と彼に語った時、周りにいた律法学者たちは皆、思ったのです。

「そんなわけない。

この人が罪人であることは、彼自身が病にかかっていて、

未だにその病が治らないことから明らかではないか!」と。

イエス様は、周囲の人々が心で思う

そのような疑問や訴えをよく知っておられたため、人々に問いかけました。 

 

『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。(マタイ9:5) 

 

人間の力では、どちらも不可能なことです。

しかし、イエス様は続けて言われました。

 

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。……起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい(マタイ9:6)

 

そう言って、イエス様は中風の人の病を癒されたのです。

これは、単なる病の癒やしではありません。

イエス様は、中風の人の病を癒すことを通して、この人がもはや、 

罪人ではなく、罪を赦された神の子どもであることを、明らかにしたのです。

この物語を読む度に、私はいつも思います。

「この出来事は、なぜ起こったのだろうか。 

なぜ彼は癒やされたのだろうか。

そして、なぜ彼は罪を赦されたのだろうか」と。

しかし、どれだけ問いかけても、どれだけ思い巡らしてみても、

彼自身に罪を赦される理由は見つかりません。 

それもそのはずです。

罪の赦しは、完全に神の恵みとして、彼のもとにやって来たのですから。

そして、驚くべきことに、罪の赦しは、

中風で苦しんでいたこの人にのみ与えられたのではありません。

今や、イエス様によって、

すべての人に罪の赦しが神の恵みとして与えられています。

そのため、私たちはもう、罪の支配下にある罪の奴隷ではありません。

神から、「子よ」と呼びかけられる、神の子どもです。

ですから、神にとって、あなた方一人ひとりは、

決して見捨てることの出来ない、愛してやまない存在なのです。

なぜ、神は私たちを「子ども」と呼んでくださるのでしょうか。

いくら探しても、私たちの側に理由はなど見つかりません。

理由は、ただ神の側にのみあります。

神が、あなた方を愛し、あなた方を子とされたから、

あなた方は神の子どもなのです。

これは、完全に神の恵みから来ているのです。

 

【神の子とされた私たちは、神の恵みに応答して生きる】 

そのため、私たちに「子よ」と語り掛けてくださる方は、

私たちを招いておられます。

「あなたは、神に罪を赦された者として、神の子として生きなさい」と。

では、神の子として生きるとは、具体的に、どのようなことなのでしょうか。

この物語を通して、神は私たちに示してくださいました。

マタイは、この出来事をこのように結んでいます。 

 

群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。(マタイ9:8)

 

「人間」と訳されているもともとのギリシア語を確認してみると、

単数形ではなく、複数形が用いられていることがわかります。

イエス様が行った業を見て、この物語を結論づけているのですから、 

イエス様のみを指して、単数形で書くのが自然なところでしょう。 

しかし、マタイは「人間たち」と複数形で述べているのです。

それは、イエス様に与えた権威を、 

神は、神の子とされた私たちに委ねているということです。

つまり、私たちは、罪の赦しを人々に告げる権威を神から委ねられています。 

これは、驚くべきことです。 

私たちは、神の恵みによって罪を赦されていることを知っています。 

だから、罪を赦してくださり、子としてくださる、神の業に信頼をして、

喜びをもって、人々に告げ知らせるように招かれているのです。 

「あなたは神に愛されていて、神の子とされている。

だから、あなたはもう、一人で罪に苦しむ必要はない」と。

それはまさに、中風の人に対して、

彼をよく知る人たちが行ったことだと思います。

彼は、その病のため、寝たきりの生活を送っていました。

ですから、自分一人でイエス様のもとへは行けなかったのです。

彼をよく知る人たちは、そんな寝たきりであったこの人が

病と罪で苦しむ姿を見て、居ても立ってもいられなくなったのでしょう。

名前も、どんな人たちかも、また何人いたかさえも知られていない

この人たちは、彼が病を癒されることを願って、解決を求めて、

彼をイエス様のもとに連れてきたのです。

このようにして、彼の周囲の人々が神によって用いられることによって、

彼はイエス様と出会い、神の恵みがこの中風の人に注がれたのです。

それを思うと、私たちはそもそも、自分一人の力で神と出会い、

自分一人の力で神を信じているのではないと気付かされます。

いつも誰かに助けられ、支えられ、祈られ、そして励ましを受けながら、

神を信じて歩んで行くのが私たちの信仰のあり方なのです。

喜びの日も、自分の罪で苦しむ日も、

人生の様々な出来事に悲しみ、嘆く日も、

私たちは決して、孤独ではありません。

神から「子よ」と呼ばれる友が、ここにいます。

それが、神の子とされた者たちの交わりである、教会の姿です。

神の子とされた私たちは、どのようなときも、

神の恵みにふさわしく生きるように招かれています。

神に赦されたように、お互いに赦し合って生きるように、

共に神の赦しを思い起こして、励まし合うように招かれています。

神の子として、神から愛されているのですから、

私たちも、共に生きる人たちと愛し合って生きるように招かれています。

そうやって、神から受けた恵みを自分だけに留めないで、

周囲の人たちに分け与えて生きることが、

神の子どもとされた私たちの生き方なのです。

あなたがたには神からの恵みが溢れるばかりに注がれています。

ですから、神から与えられたこの恵みを、

喜びをもって、人々に分け与えて行く歩みをしていこうではありませんか。