「神の言葉との衝突」

「神の言葉との衝突」

聖書 ヨナ書 1:1-4、ローマの信徒への手紙 8:38-39

2017年 3月 5日 礼拝、小岩教会 

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【「ニネベに行ってこれに呼びかけよ」】

旧約聖書の時代、イスラエルの国には「預言者」と呼ばれる人たちがいました。 

彼らの使命は、神から与えられた言葉を人々に伝えることです。

しかし、彼らが語るように示された言葉のほとんどは、

希望に溢れる言葉というよりは、 

神に向き合わない人々に警告を与える厳しい言葉でした。

そのため、本当はここまで厳しいことは伝えたくないけれども、

自分たちイスラエルの民が、神に心から立ち帰るという目的を果たすために、

心を痛めつつも、預言者たちは人々に語り続けたのです。

きょうの物語に登場する、ヨナという人もまた、預言者のひとりでした。 

ダビデ王からおよそ200年後の紀元前8世紀の前半、

ヤロブアム2世という王さまがイスラエルの北王国を治めていた時代に、

ヨナは預言者として活動をしていたようです(列王下14:25)。 

そんなヨナに、神が語り掛け、

彼に使命を与えることから「ヨナ書」は始まります。 

 

「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」(ヨナ1:2)

 

「ニネベ」という町は、イスラエルの国の北東にある大きな都でした。

そして、ニネベは、イスラエルの敵国である、

アッシリア帝国の首都として、よく知られていました。

そんな場所に、なぜ、神はヨナを遣わそうとしたのでしょうか?

それは、「ヨナ書」を読んだ、多くのユダヤ人たちの疑問だったと思います。

 神はヨナをニネベへ遣わす理由について、

「彼らの悪はわたしの前に届いている」と語りました。

神は、ヨナを預言者として遣わして、

悪名高いニネベの町の人々に警告を与えようと計画されたのです。

ヨナにとって、神がこのような使命を自分に与えるのは、

信じられないことだったと思います。

ヨナは、イスラエルのために立てられた預言者です。

それにも関わらず、「なぜ敵国のニネベにまで行かなければいけないのか?」

「なぜ悪名高いあのニネベの人たちが回心することを願って、

預言を彼らのために語らなければならないのだろうか?」と、

彼のその心は疑問や不満だらけでした。

神の言葉を聞いたこのとき、ヨナの思いと神の思いとがぶつかり合いました。

その結果、ヨナの心に大きな葛藤が生まれたことが想像できるかと思います。

 

【神の前から逃げたヨナ】 

彼がどれほど思い悩んだのかはわかりませんが、

結果として、ヨナは神から与えられた使命を拒否して、

タルシシュへ向かう決意をしました。

タルシシュは、イスラエルの地から地中海を越えて、

遥か西の方にある場所だったそうです。 

今のスペインを指している可能性もあるそうですが、

残念ながら確定はできません。 

しかし、いずれにせよ、ヨナは神から「行け」と命じられたニネベとは

全く正反対の方向へと向かって行ったのです。

その上、もしもタルシシュが現在のスペインの位置する場所であったならば、 

ヨナはかなり遠くまで逃げようとしていたことがわかります。 

イスラエルの地からスペインへ行くためには、 

港へ行って船に乗り、地中海を横切り、 

西へおよそ4,000kmもの船旅をしなければなりません。

古代の帆船は、時速5kmほどの速度で移動できたそうです。

計算してみると、スペインまでの船旅はおよそ1ヶ月かかることがわかります。

もちろん、これだけの距離を移動するためには、

その船に乗るための料金も、当然かなりの金額だったと思います。 

それほど多くの時間とお金をかけてまで、

ヨナは神から、そして神が彼に与えた使命や

一人の預言者としての責任から逃げようとしたのです。

ここに、ヨナ自身の抱えていた問題が見え隠れしているように思えます。

彼は、神を信じていました。

神が預言者である自分に語り掛け、使命を与えたからには、

神が語ったその通りになってしまいます。

彼は、神が真実な方であり、力ある業を行なう方であることを信じていました。

でも、神の業を信じていたけれども、

ニネベの人たちが改心することが受け入れられませんでした。

「神に裁かれて、ニネベの町は滅びて欲しい。 

彼らに悔い改めの余地を与える必要などない」

というのが、イスラエル人であるヨナの本音です。 

だからこそ、ヨナは神の前から逃げ出したのです。

神から与えられた使命や責任など、関係のないところへ、

神の力から逃れられる場所を求めて、逃げたるために、

ヨナはタルシシュを目指したのです。

 

【徹底的な逃亡】 

3節で「主から逃れようと」と2度繰り返し語られている通り、

このときのヨナの逃亡は、徹底したものでした。

イスラエルの北王国から最も近い港は、ティルスやシドンです。

しかし、ヨナはヤッファという港町へ向かいました。

どうやら、このヤッファという場所は、イスラエルの国の領域ではなく、

ペリシテの領域だったそうです。

そのため、ヤッファは、同じイスラエルの人々はほとんどいない港町でした。 

ヨナの狙いは、3節に記されているように、

「人々に紛れ込んで主から逃れようと」することです。

ヨナは、ヤッファへ行くことによって、

神を神としない、異邦の民の中に紛れ込もうとしたのです。

彼らに紛れ込み、彼らのように振る舞って、ヨナは神の前から逃げ出しました。 

そうやって、これから逃げようとする自分を、

誰にも止められない状況を彼は作り出したのです。

イスラエルの民であること、預言者であることなど、

名前も、身分も、民族も、彼にとってはもはや関係がなくなってしまいました。

神の前から逃げ出すために、

彼は自分の大切なアイデンティティを捨て去ったのです。

 

【ヨナは私たちの姿】

このように、ヨナが神の前から徹底的に逃げるその姿を見つめるとき、

私たち自身の姿や経験と重なる部分があることに気付かされます。 

ヨナのように全力で逃げることはないかもしれませんが、

それでも、私たちは自分なりの仕方で、神の言葉を拒否しようとします。

「敵を愛しなさい、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)

とイエス様から語られても、無視してしまう。

目の前の人を「赦しなさい」(マタイ18:22参照)、

「復讐してはならない」(マタイ5:39参照)と言われても、

この耳を閉ざし、聞いていないふりをしてしまう。

「互いに愛しいなさい」(ヨハネ15:17)と命じられているのに、

自分と価値観の違う相手を理解しようとも思えない。

イエス様が身を低くして、私たちに仕えてくださったように(フィリピ2:6-8)、 

あなたがたも「互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)と命じられても、 

人の上に立って、命令をすることの方を好んでしまう。

「天に富を積め」(マタイ6:20)と勧められてるが、

地上の宝の方が遥かに大切だと感じてしまう。

そのため、神の言葉が語り掛けられ、

それが自分にはどうしても受け入れられないと感じたら、

私たちもヨナと同じように、神の前から逃げ出してしまいたくなるのです。

ですから、神のみ顔を避けて、神の前から逃げ出すのは、

何もヨナだけではありません。

ヨナは、私たち一人ひとりの姿でもあると思うのです。

 

【交わりを求める神】

しかし、神はそんな私たちを諦めず、追いかけてくださる方です。 

神がどれほどヨナを愛し、ヨナに対して忍耐強くあり続けたことかは、

ヨナ書を通して読むとき、よくわかります。

神はこのとき、ヨナに対して、

かなり荒々しい方法で、彼を呼び戻そうとしました。

 

主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。(ヨナ1:4)

 

そもそも、「なぜこのタイミングで

神はヨナを呼び戻そうとするのだろうか?」と思ってしまいます。

ヨナを呼び戻し、ヨナをニネベへ遣わそうと考えているのならば、

もっと早い段階でヨナを説得すればよかったのにと感じてしまいます。

もしも、ヨナが逃げ出した直後に、

「ダメだ、あなたはニネベへ行くんだ」と神が言うならば、 

ヨナは、嫌々ながら従うしかなかったでしょう。 

しかし、神はそれで良しとはしませんでした。

神は、自分の言葉に従って欲しいと、ヨナに対して願っている以上に、 

ヨナと交わりを持ちたいと願っています。

その意味で、ヨナの一番の問題は、

神の言葉を聞いたとき、それに従おうとしなかったということではなく、

神に反発をしなかったことです。

神の言葉を聞いたら、絶対服従というような、

まるでロボットのような信仰を、神は求めているわけではありません。

神は、ヨナをはじめ、私たち一人ひとりとの間に、

真実な関係を、豊かな交わりを求めています。

だから、神の言葉を聞いて、それに疑問や不満を感じたヨナに、

本当は黙って欲しくはなかったのです。

「主よ、なぜですか?」と問い掛け、交わりの中で、

ヨナが「ニネベへ行く」という使命を受け取って欲しいと願っていたと思います。

実際、私たちにとって、神の言葉を聞くとき、

そこにはいつも「なぜ?」という疑問や不満が伴います。

旧約聖書の時代、神の言葉を聞いたとき、

預言者たちは疑問を抱くたびに、いつも反発しました。

預言者エレミヤは、預言者としての召命を受けたとき、

神に向かって「わたしは語る言葉を知りません。

わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1:6)と言いました。

また、後に、エレミヤは心が折れて、「主の名を口にすまい。

もうその名によって語るまい」(エレミヤ20:9)とさえ言いました。

しかし、彼は神の前で疑問や不満、葛藤をぶつけることはあっても、

逃げ出すことはせず、その都度、また立ち上がり、

預言者としての活動を続けました。

その上、彼らは疑問を感じていた神の言葉を、

自分自身の預言者としての歩みを支える言葉として受け取って、

その生涯を歩み続けたのです。

そのため、神の前に「なぜ?」と問いかけることは、決して罪ではありません。

寧ろ、神の言葉を聞いたときに、私たちが心で抱く疑問や不満に、

神はしっかり耳を傾けて聞いてくださり、

私たちと真剣に交わりをもってくださる方です。

「なぜですか?」と問い掛け、神に理解を求めることを通して、

私たちは、より豊かな信仰へと、

より真実な神との交わりへと導かれていくのだと思います。

そのような交わりを、神はヨナとの間に築きたかったのだと思います。

だから、神はヨナの感情を押し殺させ、彼を押さえつけて、

「すぐにニネベへ行け」と説き伏せることはしませんでした。

神はヨナを本当の意味で引き戻すために、

より豊かな交わりへと招くために、

彼が徹底的に、神の言葉を拒絶することを許されたのです。

神は、ヨナのために、ヨナが逃げる姿を耐え忍んで見ておられたのです。

その上で、嵐を起こすという、荒々しい方法を通して、

神はヨナに働きかけました。

嵐を起こすことを通して、神はヨナに伝えたのです。 

「わたしはイスラエルの国のみを支配する神ではない。

この世界のすべてを造り、支配している神である。

だから、あなたをニネベへと遣わしたいのだ」と。

語りかけ、使命を与えたヨナと真剣に向き合おうとしたため、

ヨナをご自分のもとへ連れ戻すために、神はヨナを追いかけられたのです。

ヨナを追い詰め、苦しめたいから、

神は彼を追いかけたのではありません。

嵐を起こすほどまでに、神はヨナを愛し、

ヨナとの交わりを求められたのです。

 

【神の愛から決して引き離されることはない】

このヨナの経験を通して、たとえ、私たちが逃げ出したとしても、 

神の愛から私たちを引き離すことは、

私たち自身の力をもってしても不可能だということがよくわかります。

ヨナに対してそうであったように、

神は私たちを愛し、私たちと真剣に向き合いたいと願っておられます。

たとえ私たちが神の言葉を聞いた結果、

疑問や不満、様々な恐れや葛藤を抱いて逃げ出したとしても、

私たちを愛し、私たち一人ひとりとの交わりを求めているから、

神は私たちを追いかけてくださるのです。

使徒パウロは、神が決して諦めず、私たちを愛しておられて、

私たちのことを決してご自分から引き離さない方であることを、

ローマの教会に送った手紙でこのように書いています。

 

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38-39)

 

きょうも、そしてこれからも、

神は私たち一人ひとりに語り掛けてくださいます。

神が語り掛ける言葉を聞き、神と真剣に向き合おうとすればするほど、

神の前から逃げ出したくなることはあります。

しかし、神の前から逃げ出すのではなく、

私たちを決して引き離さず、どこまでも愛し続けてくださる神を信頼して、

神にこの心にある不満や疑問、葛藤や不安を聞いていただきましょう。

神との衝突を恐れる必要はないのですから。

どうか、日々、神の語り掛けてくださる言葉に耳を傾け、

神と語り合いながら、歩んで行くことが出来ますように。

お祈りしましょう。

 

【祈り】

私たちに日々、御言葉を語り掛けてくださる、恵み深い主である神。 

あなたの言葉を聞くとき、疑問や不満、葛藤や恐怖が、

いつも私たちの心に嵐のように引き起こされます。

どうか、あなたとの交わりを通して、その嵐を沈めてください。

そして、ますます喜びをもって、

あなたに従って歩んでいくことができますように。

そして主よ、どうか今語った言葉を確かなものとして、

聞いた者の内に真理を証しし、聖霊によってその者の心に記してください。

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。