「あなたはなぜ祈らないのか?」
聖書 ヨナ書 1:1-16、ローマの信徒への手紙 10:12-13
2017年 3月 12日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【なぜ祈らないのか?】
「立って、ニネベへ行きなさい」
と神から命じられた(ヨナ1:2)、預言者ヨナは、
ニネベとは正反対の方向である、はるか西の方を目指して旅立ちました。
彼はこのとき、神に従うことを徹底的に拒否して、
タルシシュ行きの船に乗ったのです。
そんなヨナを引き戻すために、神は大きな嵐を引き起こしました。
4節によれば、ヨナが乗っていた船が今にも転覆してしまいそうになるほど、
この嵐は激しいものだったようです。
それほど激しい嵐が起こったため、ヨナと同じ船に乗っていた人々は、
船が沈まないように、出来る限りのことをし始めました。
激しい波風の音に負けないほどの叫び声を上げ、
彼らは、各々が信じる神に祈り求めました。
「神よ、助けてください」と。
また、船の積荷を海へ投げ捨て、船を少しでも軽くしようとしました。
しかし、嵐は一向に静まる気配がなく、船は今にも沈みそうな様子でした。
このように、人々が嵐の中で慌てふためいていたそのとき、
この嵐の原因である、あのヨナは一体どうしていたのでしょうか。
何とヨナは、「船底に降りて横になり、
ぐっすりと寝込んでいた」(ヨナ1:5)そうです。
激しい雨や風の音や、同じ船に乗っていた人々の叫び声、
また船の中が騒がしい様子も彼の耳には全く届かず、
ヨナは眠り込んでいました。
そんなヨナを見つけた船長は、眠っている彼を起こして言いました(ヨナ1:6)。
「これだけ船が揺れているのに、君はなぜ寝ていられるんだ?
凄い嵐だろ?
ほら、ごらん、このままではこの船は沈んでしまうよ。
こんな状況なのに、君はなぜ寝ていられるんだ?
そして、なぜ君は祈らないの?
君が祈るならば、君の信じる神が気づいて、
君や僕らのことを助けてくれるかもしれないだろ?
だから、さぁ、今すぐ君の信じる神に、向かって祈りなさい。」
【無反応のヨナ】
しかし、このように語り掛けてきた船長の言葉を聞いても、
ヨナは神に助けを祈りませんでした。
また彼は、船長に答えようともしません。
自分を叩き起こし、祈るように促す船長の言葉に、
ヨナは全く耳を傾けていないのです。
このとき、ヨナに語り掛けた船長の言葉に注目してみると、
面白いことに気付かされます。
6節に記されている船長の言葉の一部を、
言葉の並びを意識しながら、ヘブライ語から日本語に直訳してみると、
「立ちなさい、そして呼びなさい、神を」となります。
この言葉は、2節で、神がヨナに命じた言葉ととてもよく似ています。
神がヨナに語った言葉も同じように、直訳してみると、
「立ちなさい、ニネベに行きなさい、そして呼びなさい」となります。
ということは、このとき、船長がヨナに向かって語った言葉は、
神がヨナに命じた言葉を思い起こさせるものであったことがわかります。
もちろん、この船長が意識して、ヨナにこのように語ったわけではありません。
神がこのとき、この船長に働きかけて、
この船長を用いて、ヨナに語り掛けたのです。
「立ちなさい、そして呼びなさい」と。
そうであるならば、この言葉を聞いたとき、
今起こっているこの出来事の意味を、ヨナは瞬時に理解したと思います。
「自分を引き戻すために、ニネベへと自分を送り出すために、
神はこの嵐を引き起こしたのだ」と。
しかし、彼は黙って、事の成り行きを見ていました。
いや、「もう、なるようになれ」と、
すべてを投げ出している様子さえ見受けられます。
【名ばかりの預言者、ヨナ】
さて、人々が船の積荷を捨てて、各々の神に祈っても、
嵐は一向におさまる気配がなかったため、このとき、誰かが言い出しました。
「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」(ヨナ1:7)
何か悪いことが起こったとき、私たち人間は、誰かのせいにしたくなります。
このとき、船に乗っていた人々は、
くじによってその原因を探ろうとしたようです。
もちろん、くじそのものに、神の御旨を計る力などはありません。
しかし、このとき、神は人々の思いに答えて、
このくじを通して、ご自分の思いを人々に明らかにされました。
「この嵐の原因は、この男、ヨナにある」と。
そのため、人々はヨナに近寄って、彼を問いただしました。
「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか。」(ヨナ1:8)
彼らは矢継ぎ早にヨナに質問を投げかけ、ヨナの素性を知ろうとしました。
ヨナは、自分のことなど話したくはありませんでした。
というのも、神の命令を拒み、預言者であることも、
神を信じるイスラエルの民であることも、捨て去って、
彼はイスラエルの神を信じない異邦人たちの中に、
紛れ込もうとしていたのですから(ヨナ1:3)。
しかし、この状況で、それは許されませんでした。
そのため、ヨナは人々に自分の立場を明かしました。
「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」(ヨナ1:9)
このとき、ヨナは、自分が神を信じる者であり、
神の民と呼ばれる「ヘブライ人」であることを、
誇りをもって人々に語っています。
しかし、そもそもヨナは、自分が神の民「ヘブライ人」であり、
「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者」であることを、
人々に誇りをもって語ることが出来るのでしょうか?
思い返してみましょう。
ヨナは、神の命令を拒んで、逃げ出したはずです。
そんな彼が、「わたしはヘブライ人だ。
海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と、
誇らしげに語っているのです。
そんなヨナの姿は、何だか、とても滑稽です。
「わたしは、海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と言うけれども、
彼は自分が預言者であることを拒み、神から逃げ出した、
いわば、名ばかりの預言者にしか見えません。
その上、彼は、海に投げ込まれるまで、一度も神に祈りません。
口では、「わたしは天の神、主を畏れる者だ」と言うけれども、
実際のところは、名ばかりの信仰者のように見えます。
同じ船に乗っている、異邦人たちが、
自分たちの神に助けを求めて必死に祈っている姿を描くことによって、
ヨナ書の著者は、神に背を向け、神に祈らないヨナの姿を、
皮肉交じりに語っているのです。
【そして、人々は礼拝へと導かれた】
神に背を向け、祈らない姿が描かれていますが、
ヨナ自身、原因は自分にあることを十分よくわかっていたと思います。
そのため、同じ船に乗っている人々から、
解決方法を尋ねられたとき、彼はこのように言いました。
「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」 (ヨナ1:12)
ヨナは、この嵐の原因である自分が、この船からいなくなれば、
この嵐はおさまり、海は穏やかになると語りました。
しかし、同じ船に乗っていた人々にとって、
ヨナのこの提案は、簡単に受け入れられるようなものではありません。
無防備なこの男を、荒れ狂う海へ投げ入れるなど、
人を殺すことに等しいことですから、ありえないことです。
ですから、人々はヨナのこの提案を聞いたとき、
その提案に抵抗しようと試みました。
協力して、必死に船を漕いで、船を陸に戻そうとしました。
しかし、彼らの努力も虚しく、事態は好転することはありませんでした。
最終的に、彼らは、ヨナが信じる神に向かって叫び、祈るしか、
道が残されていませんでした。
「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」(ヨナ1:14)
こうして、ヨナを海へと放り込むと、
さっきまで荒れ狂っていた海は静まりました。
この出来事を通して、人々は、ヨナの信じる神こそが、この世界を造られ、
この世界のすべてを治めている方だと認めざるをえませんでした。
そのため、彼らはヨナが信じる、
「海と陸とを創造された天の神、主」をおそれ、
神を礼拝しました(ヨナ1:16)。
【異邦人たちの手によって、ただ一度だけ上へ上げられたヨナ】
ところで、この物語において、神を信じていたのは誰だったでしょうか。
皮肉なことに、神に救いを求めて、神に向かい続けたのは、
預言者であるヨナではなく、ただの船乗りにすぎない人々でした。
また、神に助けを求めて祈り続けたのは、
イスラエル人であるヨナではなく、船に乗る異邦人たちでした。
確かに、彼らは初めのうちは、各々の信じる神に祈っていました。
しかし、最終的には、主である神に向かって、
「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください」(ヨナ1:14)
と祈り求めるように導かれました。
それでは、同じ船に乗っていた、預言者ヨナはどうだったでしょうか。
ヨナ書1章では、「下る」という言葉や、
物理的に下へ下へと向かうイメージがとても印象的に使われています。
たとえば、神の命令に背いて、タルシシュへ向かうとき、
ヨナは港町ヤッファへ下っています。
また、タルシシュ行きの船に乗り込んだことが記されている3節は、
もともとの言葉を見てみると、「ヨナは船の中へ下った」と表現されています。
更に、船に乗ったヨナは、船底へ「降り」(ヨナ1:5)、
ぐっすりと眠りました。
そして、最終的には、彼は海の中へ投げ込まれるのです。
まさに、ヨナは、1章に記されている物語を通して、
自らの意志で、下へ下へと下っていくのです。
それはまるで、「天の神」から背を向けて、
神から遠く離れていくヨナの姿が描かれているかのようです。
そんなヨナが、上へ向かうタイミングが、1章の中で、ただ一度だけあります。
それは、ヨナが船に一緒に乗っていた人々の手によって、
海へと投げ込まれたそのときです。
残念ながら、日本語訳の聖書は、15節の前半を
「彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと」と訳しているのですが、
もともとの言葉を確認してみると、ヨナは「手足を捕えられ」たのではなく、
「持ち上げられ、運ばれた」ことがわかります。
そう、この世界を造られた主なる神を知らない異邦人たちの手によって、
ヨナはこのとき、船において、ただ一度だけ上へと上げられたのです。
これから海へと投げ込まれ、下へ下へと下っていくばかりのヨナが、
このとき、異邦人たちの手によって上に上げられることによって、
彼がこれから、神の御手のうちに取り扱われることが、
暗に示されているのだと思います。
最終的に、ヨナを引き上げたのは、神ご自身です。
しかし、ただただ下へ下へと下っていくヨナを、
上へ向かわせ、神と出会う備えをしたのは、
同じ船に乗っていた、この異邦人たちであったことを、
ヨナ書は証言しているのです。
【「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」】
そのため、ここにおいて、
神の民である「イスラエル人」と「異邦人」の間にある垣根が
消え去ろうとしていることに気付かされます。
この垣根は、新約聖書の時代、
イエス・キリストが私たちのもとに来られた時に、完全な形で取り去られました。
この出来事を使徒パウロは、「福音」「喜びの知らせ」と呼び、
ローマの教会の人々に向かってこのように語りました。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマ10:12-13)
私たちの救いは、一体どこから来るのでしょうか。
パウロによれば、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、
すべての人に同じ主がいます」。
そのため、救いは、私たちが何者であるかなど関係なく、
イエス・キリストから来るのです。
私たちの救いは、主イエスにこそあるのです。
まさに、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
そうであるならば、私たちに救いを与えてくださる方に、
私たちはいつも救いを祈り求めようではありませんか。
時に、今の課題や問題を解決するために、
祈るよりも、別のことをしたくなります。
神に期待できず、他のものに絶対的な信頼を置きたくなることもあります。
しかし、そのようなとき、
私たちは船底で寝ているヨナとさほど変わらないのだと思います。
その意味で、ヨナの物語は、ある意味では私たち一人ひとりの物語です。
ですから、ヨナの物語を読む私たち一人ひとりに対しても、
神は語り掛けておられるのです。
「あなたはなぜ祈らないのか」と。
このような問い掛けを受けるときこそ、
パウロが語った言葉をいつも思い出しましょう。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。
ここに立ち続け、神を信頼し続ける者こそ、クリスチャンなのです。
神に選ばれたから、ではありません。
神が、イエス様によって、私たちを救ってくださるという約束に、
信頼を置いて生きているから、私たちはキリスト者と呼ばれるのです。
今日も、神は私たちに問いかけておられます。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。
あなたはそのことを信じて、生きるか?」と。