「私たちの救いはどこから来るのか?」
聖書 ヨナ書 2:1-11、マタイによる福音書 1:21
2017年 3月 19日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【「わたしの助けはどこからくるのか?」】
「わたしの助けはどこから来るのか」(詩編121:1)。
さきほど一緒に声を合わせて読んだ、詩編121篇は、
このように問いかけることから始まりました。
私たちの助け、私たちの救いは、一体どこから来るのでしょうか?
詩編121篇で明確に証言されているように、
私たちの助け、私たちの救いは、「天地を造られた主のもとから」来ます。
そのように確信していたからこそ、詩編121篇を歌った詩人は、
神の助けと守りを求めて、いつも祈り続けました。
きょう、私が皆さんに問いたいのは、
詩編121篇を歌った詩人のように、
ヨナにとっても、「神は救いであり得るのか?」ということです。
ヨナ書1章を通して、ヨナについてわかることは、
彼が模範的な預言者であるというよりは、
預言者としても、信仰者としても、
彼が私たちにとって反面教師的であることです。
ヨナは、「ニネベへ行きなさい」と命じる神の前から逃げ出し、
預言者として与えられている使命を放棄しました。
また、そんなヨナを何とか呼び戻そうと、
神が嵐を起こしても、彼は神との交わりを拒み続けました。
そして、最終的に彼は海に投げ込まれることになってしまったのです。
そんな彼に対して、果たして、神は救いであるのでしょうか?
【滅びの穴に沈むヨナ】
ヨナにとって、自分は神の救いから遠い存在でした。
彼がそのように感じていたことは、「ヨナの祈り」を読むとよくわかります。
ヨナは、海に投げ込まれて、海の底へと沈んでいったその経験を、
自分の言葉でこのように語っています。4-5節。
あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。
潮の流れがわたしを巻き込み
波また波がわたしの上を越えて行く。
わたしは思った
あなたの御前から追放されたのだと。
生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。(ヨナ2:4-5)
海に投げ込まれたヨナは、生命の危険を感じ、
死がすぐそこに迫っていることを実感しています。
いや、生命の危険を感じている以上に、
ヨナは神との関係が絶たれていることを嘆いています。
私たち人間は、神によって造られた存在です。
それは当然、ヨナが心から信じていたことでした。
そのため、自分の生命の死以上に、神との関係が死に至ることの方が、
遥かに重大な問題だと、彼は考えていました。
しかし、ヨナ書を振り返ってみると、
それは、そもそもヨナ自身が望んでいたことでした。
神のみ前から逃げて、神から与えられた使命も、神との交わりも拒み、
神に背を向けて生きようとした彼が望んだとおりに、
彼は神との交わりを失い、海の底へと沈んでいったのです。
彼の言葉を借りるならば、彼はこのとき、
深淵に飲み込まれ(ヨナ2:6)、
陰府の底(ヨナ2:3)、滅びの穴(ヨナ2:7)へと沈んでいきました。
陰府とは、地下にあると古代の人々が信じていた、死者の世界です。
そこは、神とは遠く離れた場所、神との関わりがない世界
と受け止められていました(詩編6:6、88:11以下参照)。
そして、陰府に下った彼に対して、地は永久に扉を閉ざしたのです(ヨナ2:7)。
彼自身の力では、陰府から地の上に戻ることは決して出来ません。
そのため、神との関係は失われたままになってしまいます。
ヨナにとって、望みは完全に消え去って行ったのです。
そして、身体が沈んでいくことを感じながら、彼は思いました。
「もう再び、エルサレムの神殿で、
神を礼拝することは出来ないのか」と(ヨナ2:5)。
エルサレムの神殿は、標高およそ800mの山の上にあります。
それに対して、ヨナは海に投げ込まれ、下へ下へと、
陰府へと、滅びの穴へと下っていきました。
まさに、ヨナは、物理的にも神から遠ざかっていきました。
彼はこれまでの自分の神の前での態度に深く後悔をし、
陰府へと、滅びへと向かっていく自分に絶望し、
自らの死を迎えようとしていたのです。
だから、彼は救いを求めて叫びました。
水中ですから、もちろん叫び声などはあげられません。
しかし、神に向かって、救いを求めて、彼は必死に祈りました。
【しかし、あなたは引き上げてくださった】
そんな彼の祈りが、7節後半で大転換を迎えています。
神に向かって叫ぶ彼の祈りが、神に届いたのです。
その喜びと感謝、そして驚きを彼は歌います。
しかし、わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
息絶えようとするとき
わたしは主の御名を唱えた。
わたしの祈りがあなたに届き
聖なる神殿に達した。 (ヨナ2:7-8)
ヨナの祈りが神に届いた。
それは、ヨナにとって信じられないことでした。
自分は、海に投げ込まれ、
神との関係を失い、陰府に入れられました。
地は永久に扉を閉ざしたため、
自分の力で這い上がることもできません。
そのため、彼の祈りが神に届くわけがないのです。
しかし、ヨナの祈った祈りが、
「エルサレムの神殿にまで届いた」というのです。
信じられないことに、神はヨナの祈りを聞かれたのです。
そして、神はヨナを滅びの穴から引き上げてくださいました。
神の救いに値しない自分が、神によって救い出されました。
ですから、その驚きと感謝をヨナは、この祈りの始めで語ったのです。
苦難の中で、わたしが叫ぶと
主は答えてくださった。
陰府の底から、助けを求めると
わたしの声を聞いてくださった。(ヨナ2:3)
滅びの穴の中にいる、こんな自分の祈りさえも聞いてくださる。
それが、わたしの主である、とヨナは確信したのです。
ですから、ヨナはこの祈りをこのような信仰の告白で結びました。
「救いは、主にこそある」(ヨナ2:10)と。
それは、神から遠く離れている存在であったとしても、
神は手を差し伸べ、救ってくださるという、
驚きと感謝に溢れた告白でした。
【「陰府にくだり」】
確かに、滅びの穴に入ったヨナは、
私たちの目から見れば、救いようがないように見えます。
しかし、神はヨナを引き上げて、救ってくださいました。
このとき、ヨナに対してそうであったように、
すべての人に対しても、「救いは主に」あります。
それは、イエス・キリストを通して、すべての人に明らかになりました。
イエス様が救い主として、私たちのもとに産まれることを、
天使がイエス様の母親であるマリアに告げたとき、
天使はマリアにこのように言いました。
その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)
イエス様の名前の意味は、主は救いです。
この名前が示す通り、イエス様は私たちの救いです。
それは、十字架の死を通して、私たちに罪の赦しを与え、
ご自分が死に打ち勝ち、復活することを通して、
復活の生命にあずかる希望を私たちに与えてくださったからです。
イエス様こそ、私たちの救いであり、私たちの希望なのです。
私たちは、この信仰の確信を、「使徒信条」を通して、
毎週の礼拝の中で告白しています。
「主は……ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえ」ったと。
そして、この出来事を通して、神は私たちに
「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を」
聖霊によって、与えてくださったことを信じます、と。
そして、この「使徒信条」において、私たちは
驚くべき内容を毎週のように告白しています。
それは、「陰府にくだり…」という一文です。
イエス様は陰府に下ったと、
教会はこの信仰箇条を用いて告白し続けてきました。
「なぜ『陰府に下り』と続くのか」という疑問に対して、
1563年に、ドイツのハイデルベルクで書かれて出版され、
それ以来、多くのキリスト者たちから愛されてきた、
「ハイデルベルク信仰問答」は、このように解説しています。
「それは、わたしが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。すなわち、私の主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた、言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、私を解放して下さったのだ、と。」(『ハイデルベルク信仰問答』より)
「救いは、主にこそある」。
それは、神が造られたこの世界のどこにおいても、です。
確かに、陰府のような、神の存在を感じられない場所を訪れることや、
地獄の苦しみと形容したくなるような経験だって、
私たちの人生のうちに訪れることは何度もあります。
しかし、陰府にくだってくださったイエス様は、
私たちと共にいてくださるのです。
私たちに出来る唯一のことは、
神が私たちを救ってくださるという、その神の恵みに溢れた愛の業を、
心から信頼して生きることです。
「救いは、主にこそある」。
これこそ、私たちの確信です。
【私たちの救いは、天と地を造られた主から来る】
ヨナにとって、滅びを免れ、陰府から救い出されたことは
絶対に「あり得ない」出来事でした。
ですから、彼は驚きました。
そして、心から感謝し、喜びました。
苦難の中で、わたしが叫ぶと
主は答えてくださった。
陰府の底から、助けを求めると
わたしの声を聞いてくださった。(ヨナ2:3)
だから、彼はこの喜びを伝えるために、
祈りをひとつの詩の形にまとめたのです。
そして、この祈りがヨナ書におさめられたのです。
私たちも、驚きと感謝、そして喜びの歌を歌うように招かれています。
なぜって?
私たちもまた、神の恵みによって救われたからです。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。(詩編121:1)