「子ロバでありたい」
聖書 マルコによる福音書 11:1-11、ゼカリヤ書 9:9
2017年 4月 9日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【エルサレムに入場する人々】
ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。(マルコ11:9)
詩編118篇に記されている讃美を高らかに歌いながら、
あるひとつの、奇妙な集団がエルサレムにやって来ました。
その中心にいたのは、子ろばに乗ったイエス様でした。
イエス様を取り囲んで歩む多くの人たちは、自分の服を道に敷き、
他の人々は野原から葉のついた枝を切って道に敷いて、
イエス様が進んで行く道を整えました。
これはまるで、王さまがやって来たことを喜び祝うパレードでした。
「この方こそ、私たちが待ち望んでいた王、救い主メシアだ。
ホサナ!どうか私たちを救ってください!祝福あれ!」
このように人々は熱狂的になり、叫び、歌いながら、
イエス様と共にエルサレムの町へと入って行ったのです。
ところで、イエス様の弟子たちをはじめ、当時のユダヤの人々が
待ち望んでいた王さまとは、どのような王さまだったのでしょうか。
ユダヤの人々にとって、それは、この時からおよそ1,000年前に、
この地に王国を築いたダビデのような王さまでした。
彼らにとって、ダビデ王こそ、偉大な王さまであり、理想の王さまでした。
他の国に支配されず、自分たちのもとに平和をもたらす王さまを、
神が自分たちに与えてくださるその日が来ることを、
ユダヤの人々は祈り求め、待ち望んでいました。
このとき、イエス様を取り囲んでいた人々は、
「自分たちが待ち望んでいた王が来たのだ」と叫びながら、
エルサレムに向かって歩んで来たのです。
「彼こそ、私たちの希望であり、神の約束が実現するために、
今こそ、ローマ帝国の支配から絶対的な力をもって、
この国を解放してくださるに違いない。
真の王さまである、メシアが私たちのもとに来たのだ」と、
喜びながら、人々はエルサレムの神殿へと向かって行ったのです。
「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ」(マルコ11:10)と歌いながら。
【主イエスはなぜ子ろばに乗ったのか?】
でも、このときの光景を想像してみると、
正直、笑ってしまいたくなります。
権威ある、偉大な王さまの入場のように、
人々から熱狂的にたたえられている中で、
まるで子どもが乗るようなサイズの子ろばにイエス様は乗って、
エルサレムの町にやって来たというのです。
ユダヤの人々の期待や希望を知れば知るほど、
「イエス様が子ろばに乗っていることは、
場違いなのではないか?」と思えてなりません。
正直、イエス様のこの行動には疑問を抱くばかりです。
なぜイエス様は子ろばを選んで、乗ったのでしょうか。
馬に乗って、人々が待ち望んでいたメシアが来たことを、
高らかに宣言すれば良かったのではないでしょうか。
しかし、イエス様が馬を選ばなかったのには、当然理由があります。
子ろばに乗ってエルサレムへ入場することに、
イエス様の強い主張があったからだと思います。
それは、「私は、あなたがたが思っているような王とは違う」という主張です。
ろばは昔から人々に飼われ、馬よりもはるか前から人を乗せていました。
そのため、ろばに乗って移動することはとても自然なことでした。
しかし、イエス様は小さな子ろばに乗ることを選びました。
想像してみましょう。
子ろばの移動スピードは、馬に比べると明らかに遅くなります。
また、馬に比べてろばの方が小さいため、
下手したら、周りの大人たちよりも、目線が低くなってしまいます。
それならば、ろばよりも馬を選んで乗った方が、
理想的な王の姿に近づけるような気がしますし、
周囲の人々もそのように思っていたことでしょう。
しかし、イエス様が馬を選ばなかったのは、
馬は、戦いに用いられることが多く、
軍事的な指導者のイメージと結びつきやすい動物だったためでした。
それに対して、ろばは平和のイメージを持っています。
実際、平和の王を象徴する動物として、ろばは旧約聖書で登場します。
預言者ゼカリヤは、将来訪れる、救い主メシアが、
平和の王として、ろばに乗ってやって来ると預言しました。
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9:9)
イエス様は、このような王の姿に自分を重ね合わせるために、
子ろばに乗って、エルサレムへ入場することを選んだのです。
【悲しい響きをもつ「ホサナ」】
そのため、イエス様が示す王の姿は、人々が望んでいない姿でした。
ユダヤの人々は、ローマ帝国からユダヤの国を解放するための運動が
イエス様を中心に始まるだろうと期待しました。
しかし、そのような運動は一向に始まらず、
イエス様は病人を癒したり、悪霊を追い出したり、
罪人と呼ばれる人と一緒に食事ばかりしていました。
神の国の話をし始めたかと思えば、
その口から語られたのは、わけのわからないたとえ話でした。
そのため、福音書の物語が進むにつれて、
人々のこの熱狂的な叫びが、徐々に、徐々に、空しさを帯びていきます。
イエス様が逮捕されたとき、これまでイエス様に従って、
イエス様の後をついて来た弟子たちは、一目散に逃げ出してしまいました。
また、イエス様が一番信頼を置いていたであろう、
弟子のペトロは、「イエスという男のことなど知らない」と言って、
イエス様との関係を3度も否定しました。
そして、エルサレムにいた人々の多くは、イエス様に向かって叫びました。
「十字架につけろ、十字架につけろ」と。
「ホサナ」と歌いながら、イエス様と共にエルサレムへやって来た人々の中には、
周囲の人々と一緒に「十字架につけろ」と叫んでしまった者も、
もしかしたら、いたかもしれません。
そうやって、自分たちの王だと祭り上げた一人の人を、
拒絶し、最終的には死刑に定めて、殺してしまったのです。
このとき、人々が叫んだ「ホサナ」という言葉は、
「どうか救ってください」という意味のヘブライ語です。
しかし、福音書の物語が進むにつれて、
「救ってください」という祈りは、あまりにも簡単に、
「この男を殺せ」という叫びに変わっていきました。
「このイエスという男は、私たちが望んだ王ではない」と。
それはまさに、使徒ヤコブが語った通りのことでした。
「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(ヤコブ3:9-10)
「同じ口から賛美と呪いが出て来る」。
これこそが、私たち人間が抱える現実なのです。
そのように考えると、「ホサナ」という歌声が、
どこか悲しい響きをもって、福音書の中で歌われていることに気づきます。
イエス様が捕まると、簡単にイエス様のもとから逃げ出してしまう人たち。
周囲の人々に紛れ込んで、「知らない」と言って、
弟子であることを否定する人たち。
周りと同調して、「十字架につけろ」と叫ぶ人たち。
そのような人たちが熱狂的に、「ホサナ、ホサナ」と叫んでいたのです。
イエス様を自分好みの王に祭り上げながら。
【子ろばでありたい】
さて、このような悲しい叫び声が響く中で、 静かに、ただ黙って、
目的を遂行しようと、神の計画を実行するために、
エルサレムに向かったのがイエス様でした。
これからこの町で徹底的な拒絶にあうことは、
イエス様にとって、初めからわかっていたことでした。
しかし、罪の赦しという恵みに溢れた現実をもたらし、
すべての人々が神のもとに立ち帰るという神の計画が実現されるために、
イエス様はその歩みを止めることはありませんでした。
そして、人々からの拒絶や嘲り、暴力や死の中を歩んで行く、
イエス様のこの歩みに奉仕し続けたのが、
この頼りなく、また誰にも期待されていない、小さな子ろばでした。
この子ろばは、イエス様が乗らなければ、
この物語において、何の価値もないように見えます。
いや、イエス様が乗っていても、私たちの目にこの子ろばは、
全くの場違いであり、役不足のように見えてしまいます。
ユダヤの人々にとって、自分たちが待ち望んでいた、
ダビデのような王がエルサレムへと入場するのです。
その際に乗るのに相応しいのは、子ろばではなく、馬です。
そして、ゼカリヤ書の預言に従って、
イエス様が行動していたことが、たとえわかっていたとしても、
やはり子ろばであることは可笑しなことでした。
ゼカリヤ書を読む者は、誰もが、
ここに記されている「ろば」を、大人のろばと考えたことでしょう。
小さく、まだ力も弱々しく、人を乗せた経験さえない子ろばなど、
本来ならば、こちらから願い下げです。
しかし、そのような子ろばを、
イエス様はこの時のために選び、用いられたのです。
そうであるならば、私は、熱狂的に「ホサナ」と叫び続けた人々よりも、
また人々から期待されたであろう、馬よりも、
この子ろばのようでありたいと思わされます。
大切なのは、人々の期待に沿うかどうかではなく、
イエス様と共に歩むことです。
そして、イエス様に選ばれたとき、
喜んで進み出て、神の計画のために用いて頂けるかどうかです。
正直、自分は、イエス様の前では役不足だと思うかもしれません。
実際まわりを見渡すと、もっともっと優秀な人はいくらでもいます。
しかし、神は、あなた方一人ひとりを、
この時の子ろばのように用いてくださいます。
イエス様の目的が果たされるために、あなた方を用いられるのです。
もしかしたら、誰も注目しないかもしれません。
まったく意味がないように見えるかもしれません。
実際、このときの子ろばは、私たちの目にはそのように映ります。
しかし、この子ろばは確かに目的を果たし、
イエス様が十字架にかかり、
すべての人に罪の赦しを与えるための歩みを助けました。
その一歩一歩は遅かったかもしれませんし、
ユダヤの人々の期待にそぐわなかったかもしれません。
しかし、その一歩一歩は神の前で、貴い一歩でした。
イエス様は、私たち一人ひとりにも呼びかけておられます。
「この子ろばのようであって欲しい」と。
人の眼に留まることだけが良いことではありませんし、
「立派だ」「偉い」「素晴らしい」と、
人から称賛を受けることだけが、善いことではありません。
私たちにとって、それよりも遥かに重要なことがあるではありませんか。
それは、私たちが神の前でどのように生きるかであり、
私たちが神の計画に仕えているか、ということです。
それこそ、私たちが最も問われるべきことであり、
神の前で生き、神の計画の中で用いられることこそ、
私たちの喜びとすべきことです。
子ろばのようであることは、
神の前で生きる私たちにとって大きな喜びです。
ですから、私は子ろばでありたいのです。
それでは、皆さんは、どのようなあり方を望まれるでしょうか。
人々の期待に応え続ける、優秀な馬でしょうか。
それとも、神の計画に用いられる、小さな子ろばでしょうか。