「閉じたものが開くとき」
聖書 マルコによる福音書 16:1-8、イザヤ書 25:6-9
2017年 4月 16日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【主イエスの葬られた墓に向かう女性たち】
それは、日曜日の早朝に起こった出来事でした。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメという名の
3人の女性たちが、陽が昇ってまだまもない時間に、
イエス様の身体が納められているお墓へと向かって歩いていました。
こんなにも朝早くに、彼女たちがお墓まで来たその目的は、
2日前に十字架にかけられ、息を引き取った
イエス様の身体に油を塗って、イエス様を葬るためでした。
でも、彼女たちはなぜイエス様の葬りを、
イエス様が亡くなってすぐに出来なかったのでしょうか。
それは、イエス様が息を引き取った日が関係していました。
イエス様が十字架の上で死を迎えたのは、
金曜日の午後3時頃のことでした(マルコ15:34)。
現代の私たちと違って、ユダヤの人々にとって、
日が沈んでから1日が始まりました。
つまり、イエス様が息を引き取ったのは、
ユダヤの人々にとって、一日の終わりの時間帯。
あと数時間後には、翌日、つまり「安息日」を迎えます。
安息日には、あらゆる行動が禁じられていたため、
葬りにも不都合が生じるという理由からか、
イエス様は急いでお墓へ納められ、葬られたのです。
ですから、安息日が明けた日に、
イエス様を慕っていたこの女性たちが、
早朝からお墓へ向かうことは、とても納得できる行動です。
愛するイエス様を葬ることが、ようやく出来る。
誠心誠意、愛をこめて、イエス様を葬りたいと願って、
彼女たちはお墓へ向かって歩んで来たのです。
ただ、彼女たちには、ひとつの心配事がありました。
イエス様が葬られたお墓の入り口は、大きな石で閉じられていたのです。
その石は、自分たちの力では、とても動かせそうにありません。
イエス様を葬るためにやって来たのは良いけれども、
「一体、誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」。
そのような不安を口々に語りながら、
彼女たちはお墓の前までやって来ました。
すると、どうしたことでしょうか。
心配に思っていたあの大きな石が、既にわきへ転がしてあり、
お墓の入り口が開いているではありませんか。
心配事が思わぬ形で解決されていたことを不思議に思いながら、
この3人の女性たちは、お墓の中へと入って行きました。
【復活の知らせを受け取った女性たちの反応】
しかし、そこにはイエス様の亡骸が見当たりませんでした。
お墓の中を見回してみると、驚いたことに、
誰もいないと思って入ったお墓の中に、一人の若者が座っていました。
白い衣をまとったこの若者は、神の使いでした。
彼は3人の女性たちに語りかけました。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:6-7)
私たちは今日、イエス様が復活されたことを喜び、
神に感謝し、心からお祝いする日、イースターを迎えています。
でも、イエス様が復活したというこの知らせを一番最初に聞いた、
この女性たちは、すぐには喜べませんでした。
この若者の言葉を聞いた彼女たちの反応を、
マルコは8節でこのように記しています。
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)
3人の女性たちは、その場から逃げ去り、
震え上がり、正気を失ってしまいました。
そして、イエス様が復活したという知らせを誰にも話しませんでした。
きっと彼女たちは、弟子たちとペトロへ伝えて欲しいと頼まれた伝言さえも、
彼らに伝えずに、黙り込んでしまったのでしょう。
復活の知らせを聞かされたのに、彼女たちの心には喜びなどありません。
寧ろ、彼女たちは恐れに包まれ、自分で自分をコントロール出来ない程、
ひどいショックを受け、口を閉ざしたのです。
閉じられたお墓の入り口が開き、復活の知らせが語られましたが、
そのとき、それを聞いた彼女たちの口は閉じてしまったのです。
でも、きっと、これが普通の反応なのだと思います。
復活など、信じられないのです。
ありえないことだと、鼻で笑ってしまうのです。
そして、もしも、それが本当に起こった出来事だと実感するならば、
恐ろしくて、自分を見失ってしまうほどの衝撃を受けるのです。
だから、彼女たちは口を閉ざしてしまったのです。
【閉じたものが開くとき】
ところで、マルコによる福音書は、8節のこの言葉で終わってしまいます。
現在、9節以降の言葉は、
この福音書にはもともと含まれていなかった言葉だと考えられているため、
9節以降の言葉は、括弧書きで記されています。
ということは、16章8節でマルコによる福音書は、
突然終わりを迎えているということです。
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)
女性たちが恐れて、震え上がり、復活の知らせを語らずにいる。
それは、とても不完全な終わり方のように思えてしまいます。
彼女たちが誰にも語らなければ、復活の喜びは誰にも伝わりません。
彼女たちが誰にも語らなければ、イエス様の生涯は、
十字架上での悲惨な死で終わっていることになってしまうのですから、
それは誰の目から見ても、絶望です。
そこに喜びを見出だすことなど、不可能です。
しかし、この不完全な終わり方を通して、
私たちは「この後どうなったのだろうか?」と推測することが出来ます。
いえ、それこそがマルコの狙いです。
そう、もしも彼女たちが誰にも語らなかったならば、
復活の知らせは、この世界に伝わっていないのです。
つまり、最終的に、彼女たちの口は開かれたのです。
だから、この物語が福音書に記され、
私たちの手元に届いているとも言えるでしょう。
そして、イエス様が復活したという知らせが、
恐れではなく、喜びの出来事として受け止められたから、
彼女たちによって、そしてそれを聞いた人々によって、
「福音」「喜びの知らせ」として、全世界に広がったのです。
そのようにして広がった、この福音が、およそ2000年もの間、
喜びとして受け止められ続けてきたからこそ、
主イエスが復活されたことを信じる信仰者の群れとして、
教会は、今ここに、この場所に立っているのです。
この福音書と、それを読み、喜びを語り伝える教会の存在こそ、
この3人の女性たちが最後まで恐れに囚われて、口を閉ざしていたのではなく、
復活が喜びの出来事だとやがて確信するに至り、
口を開き始めたという証拠に他なりません。
それでは、彼女たちは自分自身の力で考え抜き、
復活を喜びの出来事として信じるに至ったのでしょうか。
いいえ、そのようなことはありません。
イエス様の復活の知らせを信じ、喜ぶ信仰が、
彼女たちの心に芽生えるために、語られた言葉があったではありませんか。
それは、墓の中で座っていた若者、神の使いの言葉でした。
神が、この若者を通して、この3人の女性たちに語りかけたため、
彼女たちの心に、復活を信じる信仰が芽生えたのです。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:6-7)
この若者の言葉は、イエス様がいる場所を指し示しました。
「主イエスがいる場所とは、あなた方が恐れを抱くこの場所、この墓ではない。
脅威的な力をもって死が私たちを支配し、勝ち誇る、
この墓の中に、もう主イエスはいない。
既に、墓の入口は開かれ、主イエスは出て行かれた。
主イエスはここには、もういない、ガリラヤにいる。
だから、ガリラヤへ行って、そこで主イエスに会いなさい」と。
この知らせを聞いたとき、この3人の女性たちは
その瞬間、口を閉ざしてしまいました。
しかし、イエス様の復活に対して目が開かれたとき、
ガリラヤへと向かう新しい旅が始まったのです。
その旅は、イエス様が先立って導かれる旅なのです。
【主イエスが導かれる旅】
それでは、イエス様が先立って導かれるこの旅は、
私たちにとって、どのような旅なのでしょうか。
主イエスが導くこの旅に溢れる希望を、
私たちは預言者イザヤが語った言葉を通して、知ることができます。
イザヤはこのような預言を語りました。
主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。(イザヤ25:7-8)
「死を永久に滅ぼしてくださる」。
神が墓を開き、イエス様の身体を起こして、
イエス様を死者の中から復活させてくださったことによって、
イザヤの語った言葉が、確かに実現したことが明らかにされました。
神の業によって、イエス様が死を乗り越え、復活したのだから、
神は、将来必ず「死を永久に滅ぼしてくださる」。
私たちはイエス様を通して、そのように確信することが出来るのです。
ですから、イエス様が導くこの新しい旅は、
死で終わり、墓に辿り着く旅ではありません。
そうではなく、死の先に生命を見出し、
死を乗り越えて、天の御国に辿り着く旅です。
主なる神が「死を永久に滅ぼしてくださる」からです。
まさに、主イエスの墓という閉じたものが開いたこのとき、
復活の生命へと向かっていく、新しい旅が始まったのです。
だから、神は、イエス様の復活の出来事を通して、
私たち一人ひとりを、新しい旅へと歩み出すように招いておられるのです。
「恐れにとらわれて死の闇の中に閉じこもっていないで、
生命の扉が神の業によって新しく開かれたことを信じて、
主イエスと共にこの旅に出て行きなさい」と。
ですから、きょう、私はあなた方一人ひとりに心から勧めます。
閉じたお墓は、神の業によって開かれました。
だから、復活の生命が与えられるこの約束に望みを抱きなさい。
この希望をしっかりと握りしめて、
天の御国を目指す旅を喜びをもって歩み続けましょう。
もちろん、この旅に加わっても、恐れがまったくなくなるわけでも、
死から逃れられるわけでもありません。
確かに、恐れは未だにあるし、
恐れに取り囲まれるとき、私たちは簡単に押しつぶされてしまいます。
そして、死の前で私たち人間は敗北し続けています。
悲しみの涙を流し続け、希望を完全に失いかけてしまうことがあります。
しかし、そのように恐れや死の力に押し流されそうになるときこそ、
思い起こし、こう告白しましょう。
「主イエスは、よみがえられた」と。
死を前にするとき、私たち自身の側に、希望などありません。
時間をかけて積み重ねてきた能力や学歴、財産や社会的な地位など、
まったくと言っていいほど役に立ちません。
塵に等しくさえ見えます。
このように、私たちの側に希望はありませんが、
主イエスを復活させてくださった、神の側には究極的な希望があります。
神は、私たちに復活の希望を与えるために、
イエス様を復活させてくださったのですから、
神の業によって、私たちは究極的な希望を得ることができるのです。
それは、完全に神によって与えられている恵みです。
この希望を受け取るとき、私たちの人生は、
神によって与えられている、復活の希望に包み込まれます。
ですから、主キリストにあって、私たちのもとに
最終的にもたらされるのは、死への勝利です。
恐れではなく、喜びです。
これこそ、私たちが歩み続けるようにと招かれている、
天の御国を目指す新しい旅です。
閉じたものが開かれた今、この希望はすべての人に明らかにされたのです。