「死んだのではない、眠っているのだ」
聖書 マタイによる福音書 9:18-26、列王記 上 17:17-24
2017年 5月 7日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【主イエスのもとへ行くことを選んだ理由】
イエス様のもとにはいつも、悪霊につかれた人、
重い病を患っている人たちが、 癒やしを求めて近づいて来ました。
時には、律法の専門家やファリサイ派の人たちが、
質問や批判をするためにやって来ることもありました。
その時その時において、イエス様は驚くべき癒やしを行い、
また誰もが感心する言葉を人々に語りました。
きょうの物語で、イエス様のもとに近づいてきたのは、
ユダヤの国の指導者である人でした。
彼はイエス様の前に来て、ひれ伏して言いました。
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」(マタイ9:18)
彼の願いは、死んでしまった娘を生き返らせてもらうことです。
さすがに今回ばかりは、無理な話だと誰もが思ったことでしょう。
人間の手では治療が不可能な病さえも癒やしてしまうこのイエス様にさえ、
さすがに死んだ者を復活させることまでは不可能だろう、と。
しかし、亡くなった少女の父親であるこの人は、
愛する娘の死を前にして、諦めてはいませんでした。
娘を失って悲しむ心を何とか奮い立たせて、
イエス様のもとに駆け寄ってきたのですから。
通常、人がその息を引き取ると、葬りの準備が始まり、
その身体は綺麗に整えられます。
この時代、死者の体は水で洗われた後、
油や香油が身体に塗られ、そして布で巻かれました。
そして、死から24時間以内にお墓へと運ばれていたようです。
そのため、残された家族にとって、この時間は、
悲しみを覚えると同時に、とても忙しい時間です。
愛する人を大切に葬るために、
限られた時間の中で出来る限りのことを人はするものです。
葬りの儀式を行うために、様々な手配を行う必要もあったでしょう。
でも、彼はそのすべてを信頼できる人に任せて、
娘を失って悲しむ心を何とか奮い立たせて、
イエス様のもとに駆け寄ってきたのです。
彼のこの行動は、通常では考えられない行動だと思います。
しかし、通常では考えられないようなこの行動を、彼の心に芽生えさせ、
実際に行動に移すようにと彼を促したのは、イエス様に対する信頼でした。
イエス様が神と共にいて、イエス様を通して、
神が必ず自分の娘に働きかけ、生き返らせてくださると信じたから、
彼は娘の葬りの準備から離れて、イエス様のもとに駆けつけて、願い出たのです。
「おいでになって手を置いてやってください。
そうすれば、私の娘は生き返るでしょう」と。
彼のこの言葉を聞いて、イエス様はすぐさま彼について行き、
彼の家を目指し始めました。
【立ち止まる主イエス】
しかし、イエス様たち一行は、
すぐにこの指導者の家へ行くことが出来ませんでした。
ご自分のもとに近づいて来た、病を患っていた一人の女性によって、
イエス様はしばらく足を止めることになります。
彼女は、この指導者とは対照的に、イエス様の後ろから近づいて来ました。
また、イエス様がこれから出会う少女が、その手を取られたのとも対照的に、
彼女は、イエス様の服の房に、その手で触れただけでした。
というのも、彼女はその患っていた病が原因で、
人を汚す存在と見なされていたからです。
そのため、彼女は本来、人に近づくことを許されていません。
しかし、彼女はイエス様の服に触れることが出来るなら、
自分は癒されると信じて、イエス様に近づいて行ったのです。
そんな彼女の行動に気づいたイエス様は、
後ろを振り返って、 彼女を見つめて語りかけました。
娘よ、元気になりなさい。 あなたの信仰があなたを救った。(マタイ9:22)
イエス様から語りかけられることを通して、
彼女を長年苦しめていたその病は癒されました。
イエス様は、たとえ大きな目的があったとしても、
すぐそばで苦しんでいる人を見たら、放っておくことをしません。
その病のために嘆き続け、人々から拒絶され、悲しみ続けていた彼女に、
イエス様は必要な手を差し伸べ、その病を癒されたのです。
【死の支配する場所に、福音が訪れた】
このように、その道中、予想外の出来事が起こりましたが、
イエス様は、娘を亡くした指導者の家にたどり着きました。
少女の葬りの準備は終わり、人々はいよいよ彼女の亡骸を葬ろうとしています。
彼の家には、笛吹きが到着し、愛する人を亡くした悲しみを告げる、
笛の音が鳴り響いていました。
また、「泣き女」と呼ばれる職業の人たちが、泣きわめき、
亡くなった少女の周りには、彼女の家族や友人たちが集まって、
「ああ、姉妹よ」「ああ、私の愛する姉妹よ」と叫び続けていました。
家全体は、悲しみと嘆きで包み込まれ、死によってすべてが支配されています。
愛する人のために上げる悲しみの声は、死の勝利を高らかに宣言していました。
それを見たイエス様は、この葬りの式のために集まった笛吹きや泣き女、
その他の人たちに語りかけて言われました。
あちらへ行きなさい。(マタイ9:24)
この言葉のもともとの意味は「退け」「引っ込め」です。
死の勝利を告げる嘆きの声、悲しみの泣き声、
そして死の支配の前に人を降伏させる、
笛の音は「退け」と、イエス様は言われたのです。
その理由について、イエス様は続けて語ります。
少女は死んだのではない。眠っているのだ。(マタイ9:24)
「もはや、悲しみや嘆きはこの場に相応しくない。
少女は復活するのだから、それらのものは過ぎ去っていく」
とイエス様は彼らに告げたのです。
これを聞いた人々は、イエス様をあざ笑い、その場から去って行きました。
彼らのこの反応は、とても自然な反応だと思います。
愛する人の死を目の当たりにし、悲しみ、嘆き、死が支配している中で、
「少女は死んだのではない、眠っているのだ」
とイエス様が言われたのですから。
そんなこと、当然、信じられません。
非現実的なことです。
ですから、彼らはイエス様をあざ笑いました。
復活など、信じられないのです。
しかし、イエス様が手を取ったとき、少女は起き上がりました。
神の業によって、彼女は復活したのです。
もちろん、この少女が生き返ったことを通して、
私たちが、復活の希望を確証できるわけではありません。
実際のところ、このときに生き返った名も無き少女は、
その後、寿命や病気などの原因で死を迎えたのですから。
その意味で、この少女に起こった奇跡は、神がイエス様を通して、
私たちに約束された復活の生命とは、異なるものです。
この少女の復活は、この地上で与えられた身体が息を吹き返し、
死が先延ばしにされたに過ぎません。
しかし、それにも関わらず、イエス様は
「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言い切りました。
それは、イエス様ご自身が、死者の中からよみがえることによって、
すべての人に復活の命への希望が与えられたからです。
ですからこの出来事は、神が、イエス様を通して、
すべての人々に復活の生命を与えるという希望を、指し示しているのです。
そして、この出来事を通して、この時、神はこの世界に宣言されました。
「死が支配し、あなたがたが嘆きや悲しみに心を沈めるしかない場所に、
将来、主イエスを通して復活の命を与え、喜びが訪れる日が来る」と。
だから、イエス様は、指導者の家に集まり、
少女の死を嘆き、悲しみ、死の勝利の前に降伏している人々に対して、
「退け」「引っ込め」と語られたのです。
彼らにそのように語り掛けることによって、
「嘆きよ、悲しみよ、死の支配よ、
お前たちは、この場所から退け」とイエス様は命じておられるのです。
【死んだのではない、眠っているのだ】
しかし、相変わらず、私たちの日常は、
この指導者の家と同じように、悲しみを告げる笛の音が響いています。
また、嘆き、涙を流し、叫び過ぎて涸れたで溢れているかもしれません。
長年病を抱え続けたあの女性のように、たとえ生きていたとしても、
毎日の生活において、人々から拒絶されることもあれば、
喜びを見い出せずにいることもあります
また、精神的に死を実感することも、
将来に望みを持てず、命を喜べないことだってあります。
死に等しい状態が訪れることは、誰にでも起こりうることなのです。
たとえ、この身体が死を迎えていなかったとしても。
このように、死は、様々な形で、私たちのもとに訪れ、
いつも変わらずに、脅威をもって襲いかかり、
私たちに嘆きや悲しみを与え続けています。
しかし、神の業によって、復活を望み見ることが出来るならば、
私たちは、死を、神のみもとで安らぐ
「眠り」として受け取ることが可能になるのです。
将来、神が定めた時に、 神の御手によって私たちはこの身体を起こされ、
復活の命を与えられるのです。
そのとき、嘆きや悲しみ、そして涙は完全に過ぎ去ります。
これこそ、主キリストにあって、私たちに与えられている希望です。
そして、私たちに復活の希望を与えてくださった神は、
死者の中からよみがえられたイエス様を通して、
私たちに癒やしを、そして命を与えてくださいます。
神は、私たちが嘆き、悲しむところに、
喜びや踊りを与えようとしておられるのです。
死を打ち破り、死に勝利された方が、私たちの神なのです。
ですから、この方を信頼して、私たちはいつも歩み続けて行きましょう。
嘆きや悲しみのあるところに、私たちが死を実感するところに向かって、
イエス様はいつも宣言されておられます。
「死んだのではない、眠っているのだ」と。
私たちが諦める場所に、命を吹き込んでくださる神に、
私たちは信頼して歩み続けていきましょう。