「嘆きと悲しみは逃げ去る」
聖書 マタイによる福音書 9:27-34、イザヤ書 35:5-10、詩編40
2017年 5月 14日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【憐れみを必要としていた二人の人】
悲鳴にも似た叫び声を上げながら、2人の人が、
イエス様のもとに近づいて来ました。
彼らが抱えていた問題とは、目が見えないことでした。
生まれつきだったのか、それとも、何らかの事故や病気が原因だったのか、
彼らが目が見えない、詳しい理由はわかりません。
どのような理由で、目が見えなくなったにせよ、
私たちが思う以上に、彼らは困難を抱えていたと思います。
イエス様の生きた、今から2,000年ほど前の時代は、
現代のように、点字ブロックが道に敷かれてはいませんでしたし、
目が見えない人の生活のために必要な配慮は、
それほど多くはなされていませんでした。
ユダヤの律法に「目の見えぬ者の前に
障害物を置いてはならない」(レビ19:14)とあるように、
目が見えない人たちを保護し、助けることは、神の命令でした。
しかし、どれだけ、この言葉は守られていたのでしょうか。
実際、目が見えないことが原因で、
仕事にも就けず、誰の助けも得られずにいたため、
物乞いをして、何とか生活を続けていた人たちが、
この時代には何人もいました。
生活上の困難に加えて、彼らは多くの苦しみを、その心に負っていました。
「なぜ自分は目が見えないでいるのだろうか。
これは、神から与えられた罰なのではないだろうか。
一体、自分の何が悪かったのだろうか」と。
これらの疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。
いや、このようなことを誰かに尋ねることは、とても勇気のいることです。
もしも誰かに尋ねた結果、「お前が神に愛されていない、
罪人であるからだ」などと言われたならば、もう立ち直れません。
ですから、目が見えない人々の多くは口を閉ざし、
今の自分が置かれている現状を、ただ受け止める他なかったのです。
そこには、将来への希望や、喜びなど、全くありません。
だから、彼らには憐れみが必要でした。
愛をもって自分に向かって伸ばされる、温かく、優しい手が必要でした。
失望し、悲しみで溢れている、彼らが置かれている今のこの状況に、
目を注ぎ、心からの憐れみの言葉を掛けられることが、彼らには必要でした。
でも、何処にそのような人がいるのでしょうか。
中には助けてくれる人もいましたが、多くの場合、
それは一時的な助けに過ぎませんでした。
そして、彼らの耳にいつも聞こえていたのは、
彼らの目の前を人々が通り過ぎていく足音でした。
まるで、自分の存在そのものを否定されているような経験を、
彼らは日常的に、繰り返し、繰り返し、経験していたのです。
【主イエスとの出会い】
そのような日常がこれからも続くように思えた、あるとき、
彼らはある噂を人々が語り合っているのを耳にしました。
「イエスという名の人が、素晴らしい教えを語り、
病人を癒し、悪霊を追い払っている。
その上、彼はさきほど、病気で死んでしまった
あの家の少女を、生き返らせてしまった。
彼こそが、私たちが待ち望んでいた救い主かもしれない」と。
この噂を聞いた彼らは、イエス様がいると噂されている場所を目指しました。
「イエスという男のもとに行けば、
自分たちのこの目を見えるようにしてくれるかもしれない。
死んだ少女を生き返らせるほどの力を持っているのだから」。
近くにいる人たちに何度も、何度も尋ねて、
彼らはイエス様を見つけ出し、叫びながら彼について行きました。
拒絶される可能性もあると考えたでしょうが、
彼らは勇気を振り絞って、イエス様に向かって叫び続けたのです。
「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(マタイ9:27)。
彼らの叫び声を聞いたイエス様は、この二人の人たちに尋ねました。
「わたしにできると信じるのか」(マタイ9:28)
ふたりは、すぐさま「はい、主よ」と答えましたが、
イエス様は彼らの信仰を試すために、このように尋ねたのではありません。
彼らが、イエス様に対して抱いている信仰が、
真実なものであるという確信に至らせるために、
イエス様は彼らに問い掛けたのです。
そして、イエス様は彼らの目に触れて、
「あなたがたの信じているとおりになるように」(マタイ9:29)
と言って、彼らの目を見えるようにしてくださいました。
それは、彼らにとって、根本的な問題の解決でした。
目が見えないことによって経験した、様々な苦しみ、
心で抱え続けた、嘆きや悲しみさえも過ぎ去り、
彼らは癒やされ、その心には喜びが訪れたのです。
その喜びは、イエス様から「このことは、
だれにも知らせてはいけない」(マタイ9:30)と厳しく命じられても、
押さえきれず、周囲の人々に伝えずにはいられないほどのものだったのです。
【嘆きと悲しみは逃げ去る】
この出来事は、預言者イザヤが
「そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:5-6)
と語った預言の言葉が、イエス様を通して実現したことを、
世に宣言するような出来事でした。
目の見えない二人の人の目が開かれたことを通して、
神が愛をもって支配される、希望に満ちた時代が
私たちのもとに訪れたことが、明らかにされたのです。
そして、イザヤは、イザヤ書35章に記されている預言を、
希望に満ちた言葉で結んでいます。
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。(イザヤ35:10)
まさに、イエス様によって、二人の人が癒やされたそのとき、
彼らの嘆きと悲しみは逃げ去って行きました。
毎日の生活における困難はなくなりました。
憐れみを求めているのに、無視され、
人々の足音だけが虚しく響き渡ることもなくなりました。
目が見えないという理由で、周りの人たちから、
「あの人は罪人だ」と後ろ指を指されることも、もうありません。
イエス様の手が伸ばされ、神が自分を癒してくださったことによって、
嘆きと悲しみは逃げ去って行き、
喜びと楽しみが彼らを迎えたのです。
まさに、イザヤが預言したとおりの出来事が、彼らのうちに起こったのです。
【主イエスにあってすべての人に与えられている希望】
この目が見えない二人の人たちの上に起こった出来事は、
彼らだけに意味のある出来事だったのでしょうか。
そうではありません。
私たち一人ひとりにとっても、意味のある出来事です。
形は違えど、私たちも、この二人の人と同じように、
日々の暮らしの中で、嘆きや悲しみを抱えています。
自分の力では解決することが難しい出来事に翻弄され、
誰かの助けや、何らかの打開策を私たちは必要としています。
でも、嘆きや悲しみに囚われるとき、
どうして良いのかわからないのです。
いや、そもそも、嘆きや悲しみを、
私たちが自分自身の努力や能力によって追い出すことは、決して出来ません。
だから、「主よ、憐れんでください」と、私たちは神に祈り求めます。
でも、嘆きや悲しみの時間があまりにも長い時、
それらのもつ力に押し流されて、
神に向かって声を上げることさえ諦めてしまうのが、
私たちが抱えている現実です。
そんな私たちの現実に向かって、預言者イザヤは宣言しているのです。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。(イザヤ35:10)
嘆きと悲しみは、逃げ去っていく。
これが、神が私たちに与えられた約束の言葉です。
この約束の言葉は、イエス・キリストを通して、
私たち一人ひとりにとっての希望となりました。
イエス様は、十字架にかけられることを通して、
私たちに罪の赦しを与えてくださいました。
「もう、罪悪感に押しつぶされる必要などない。
私があなたを愛し、あなたの罪を背負ったのだから、
あなたの罪は既に赦されているのだ」と、
イエス様は語り掛けてくださっているのです。
そして、イエス様は十字架の上で死んで、葬られた後、
3日目によみがえり、復活の希望を私たちに示してくださいました。
死を前にして、私たちは落胆するしかありません。
しかし、死の先に復活の命があることを示すことを通して、
イエス様は私たちに、将来への希望を与えてくださったのです。
命に溢れる、喜びの日が私たちには訪れるのだ、と
これが、イエス様を通して、私たちに与えられている希望です。
【「あなたがたの信じているとおりになるように」】
「でも、今は、嘆きも悲しみも側近くにあり、涙を流すしかありません」。
そのようにしか言えないときは、私たちの人生の中で、実際に何度もあります。
悲しむべきことを悲しみ、
嘆くべきことを嘆くことは、とても大切なことです。
しかし、私たちには希望の言葉が与えられていることを、
その嘆きや悲しみによって、忘れ去ってしまうことがあってはいけません。
その約束とは、将来、必ず、嘆きと悲しみが過ぎ去っていくという約束です。
聖書の最後の書簡である、ヨハネの黙示録にこのような言葉があります。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)
これが、将来必ず起こる希望の現実であると、黙示録の著者は語っています。
私たちの目の涙は拭い取られ、
もはや死もなく、悲しみも、嘆きも、労苦もない。
そこにあるのは、神と共にいる、喜びと平安です。
主イエスにあって、嘆きも悲しみも過ぎ去ります。
ですから、イエス様は確信をもって、私たちにいつも語りかけておられます。
「わたしにできると信じるのか」(マタイ9:28)と。
そして、イエス様は、私たちを励まし続けてくださっているのです。
「あなたがたの信じているとおりになるように」(マタイ9:29)。
そして、その希望の日が来るまでの間、私たちは互いに励まし合いながら、
共に歩んで行きましょう。
嘆きが悲しみに押し流されそうなときにこそ、
私たちは「主イエスにこそ希望がある」ことをいつも、共に思い起こして、
今のこの時代にあって、嘆きや悲しみと向き合って行きましょう。
嘆きと悲しみが神の業によって逃げ去っていくその日まで。