「父と子と聖霊があなたがたと共に」
聖書 マタイによる福音書 10:16-25、サムエル記 上 19:12-16
2017年 6月 11日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【弟子たちに訪れる3つの苦難】
「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい」(マタイ10:7)。
そう、弟子たちに伝えて、イエス様が彼らを遣わした場所は、
イスラエルの町でした。
同じ地域に生き、同じ言語を話し、同じ文化を共有し、
神の民として同じ歴史の上に立っている人々のもとへと、
イエス様は弟子たちを遣わされたのです。
ですから、イスラエルの町の人たちのもとへ行くことは、
弟子たちにとって、一見、簡単なことのように思えます。
彼らに、「天の国は近づいた」と伝えることは、
言葉も、文化も違う、他の国の人に伝えることに比べれば、
はるかに簡単なことに思えます。
でも、さきほど読んでいただいたイエス様の言葉を見てみると、
「実際はそうではない」と、
イエス様が弟子たちに警告していることに気付かされます。
「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
だから、人々を警戒しなさい」(マタイ10:16-17参照)と。
一体、どういうことなのでしょうか。
イエス様は、具体的に、3つの苦難が弟子たちに、
将来訪れる可能性があると、彼らに伝えました。
①あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる(マタイ10:17)
②わたしのために総督や王の前に引き出され、引き渡される(マタイ10:18-19参照)
③兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう(マタイ10:21)
イエス様が語った、この3つの苦難で共通して、
「引き渡される」「追いやる」と訳されている言葉が用いられています。
「あなたがたは地方法院に引き渡され」る。
総督や王の前に「引き渡されたとき」。
そして、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり」と。
ここで、「引き渡される」また「追いやる」と訳されている言葉は、
イエス様が逮捕され、十字架にかけられる、
イエス様の受難の物語の中で、多く用いられる言葉です。
つまり、「あなた方は、苦難を私と共に味わうような経験をする」と、
イスラエルの町へと宣教のために出て行く弟子たちに、
イエス様は伝えているのです。
実際に、イエス様が語ったような苦難や迫害は、
その後の教会に何度も起こり続けたことでした。
でも、そもそも、このような苦しい経験をすることは、誰も望んでいません。
それなのに、一体なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
イエス様は、その疑問に対して、このように答えます。
わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。(マタイ10:22)
イエス様は、弟子たちが迫害にあい、人から憎まれ、
苦しむことになるのは、イエス様自身が原因だと語ります。
そのため、これを聞いた多くの人はきっと、
イエス様に、疑問をぶつけたくなったと思います。
「イエス様、ちょっと待ってください。
あなたは、人々を憐れんだお方でしょ?
平和がもたらされることを願った方でしょ?
それなのに、なぜイエス様の名のために、
つまり、イエス様を信じ、イエス様に従っていることが原因で、
すべての人に憎まれなければならないのでしょうか?
私たちを送り出すことは、狼の中に羊を送り込むようなものなのですか?
いや、それはさすがに勘弁してください……」という具合に。
【主イエスの弟子はなぜ苦難にあうのか?】
それにしても、なぜイエス様の弟子とされ、
イエス様に使命を与えられて、遣わされるにも関わらず、
弟子たちには苦難が訪れるというのでしょうか。
それは、イエス様の弟子が、「天の国が近づいた」と宣言したから。
そして、イエス様を通して、天の国がこの世界の現実として、
すべての人のもとに訪れたことを、彼らが明らかにするからです。
天の国の価値観は、時として、
私たちが生きるこの世界や社会の価値観とは正反対のものです。
私たちの生きる世界が、私たちに向かって、
「自分の国を守るために、武装するべきではないか」と語りかけてくるとき、
私たちは、イエス様が語られたことを思い起こします。
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と。
また、「反りが合わない人とは、関係を切れば良い。
自分と話が合う人とだけ付き合えば良い。
利用価値のない人、足手まといの人は、切り捨ててしまえ」
というような言葉を聞くとき、イエス様のことを思い出します。
イエス様は、距離を置かれてしまうような人たちや、
罪人と呼ばれ、人々から忌み嫌われていた人たちを、
食事の席に招き、一緒に食事をしました(マタイ9:10)。
ですから、イエス様の弟子たちや、私たち教会は、
確信をもって、すべての人が神に招かれていると語ります。
そして、経済的な「豊かさ」を求め続ける社会に向かって、
経済的な豊かさがすべてではないと、イエス様は宣言しておられます。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
このように、天の国の価値観と、この世界の価値観が出会うとき、
それらは、大きな音を立ててぶつかり合うことになるのです。
私たちが、イエス様に本気で従って生きようとするとき、
ある人からは感謝され、信頼を得るかもしれません。
しかし、反対に、人々から反感を受け、憎まれることだってある。
まさしく、イエス様が「わたしの名のために、
あなたがたはすべての人に憎まれる」(マタイ10:22)と語った通り、
私たちが、天の国が近づいたことを宣言すればするほど、
私たちは、この世界の価値観とぶつかり合うことになるのです。
【主イエスに与えられた喜びとは?】
そうであるならば、誰もイエス様に従いたいとは、決して思わないでしょう。
それでも、なぜイエス様を信じる人が、
いつの時代も変わらずに、起こされ続けているのでしょうか。
私たちは、なぜイエス様を信じ、イエス様に従うのでしょうか。
それは、イエス様を通して与えられたものが、
私たちにとって、大きな喜びだからです。
イエス様に従って生きるときに受ける苦しみや困難以上の、
喜びや希望、慰めや平安、そして励ましを受け取るからです。
イエス様の他に、私たちに、
究極的な喜びを与えることの出来る方がいるのでしょうか?
一体、誰が、罪の赦しを私たちに与えてくれるのでしょうか?
私たちが生きる社会では、
もしも、私たちの側に過ちがあれば、罪を追求されるばかりです。
決して、赦されることもありませんし、
憎しみも簡単には消え去りません。
また、誰が、私たちを悪から救い出してくれるのでしょうか?
悪が振りかざされるとき、見て見ぬふりでいることや、
何も出来ない無力さを感じることが何と多いことでしょうか。
たとえ手を差し出されても、完全な救いは簡単には得られません。
一体誰が、命を投げ出してまで、私たちを愛してくれるのでしょうか?
誰が、永遠の命を与えてくれるのでしょうか?
誰が、復活の希望を与えてくれるのでしょうか?
誰が、天の国へ招くことができるのでしょうか?
そうです、私たちの救い主である、
イエス・キリスト以外に、私たちの救いはありません。
だから、イエス様があらかじめ、苦難があることを語られたとしても、
私たちはイエス様が指し示す道を歩むことができます。
イエス様が示される道が、最終的に喜びの道だと知っているから、
私たちはイエス様が送り出してくださった場所へと、
一歩踏み出して、出て行くことが出来るのです。
【父、子、聖霊があなたがたと共に】
でも、イエス様は、苦しむ私たちを放っておく方ではありません。
弟子たちに、地方法院や総督たち、また王たちの前に
引き渡されたとき、心配してはいけないと、
イエス様は語りかけ、約束してくださいます。
そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。(マタイ10:19-20)
イエス様は、私たちに約束してくださいました。
「いつでも、聖霊があなたがたと共にいて、
あなた方に必要な導きを与える」と。
聖霊が共にいるということは、
この世界を創られ、この世界を今も支配しておられる、父なる神が、
あなたといつも共にいる、ということです。
そして、あなたに罪の赦しを与え、復活の命にあずかる希望を与えてくださった、
イエス様が、あなたといつも共にいる、ということです。
愛する皆さん、私が礼拝の終わりに、
いつも、皆さんに向かって宣言する「祝福」の言葉を覚えていますか?
「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりが、
あなたがたと共に豊かにありますように」。
父と、子と、聖霊の神が、あなた方にいつも恵みと愛を注ぎ、
聖霊において、親しい交わりを持ち続けてくださっています。
これは、私たちを取り囲んでいる、神の恵みの現実なのです。
だから、いつでも、必要以上に思い悩まず、
神を信頼して、神と共に歩みなさいと、
イエス様は私たちを励ましてくださっているのです。
【私たちの生涯は、神の愛で包み込まれている】
そして、イエス様は、もうひとつ、
希望に溢れる約束を与えてくださいました。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10:22)と。
この言葉は、この地上で受ける様々な苦難に私たちが耐え抜いた末に、
私たちは救いを得る、という意味ではありません。
「救われる」と訳されている言葉には、
「解放される」という意味もあります。
ですから、私たちはイエス様の言葉をこう受け取ることが出来ます。
「今のときの苦しみは、イエス様が再び来られるときに、必ず過ぎ去り、
私たちが出会う苦しみや困難から、私たちは解放される」と。
イエス様が私たちのもとに再び訪れるとき、
慰めと希望が、必ず私たちのもとに訪れるのです。
ですから、私たちは最後まで、信仰に立って歩んで行きましょう。
何よりも、私たちが今、喜ぶことが出来るのは、
私たちの努力や能力によらず、父なる神と、イエス様と、聖霊が、
私たちといつも共にいて、私たちの歩みを
いつも変わらず、導き続けてくださっているからです。
そうです、あなた方の生涯は、主なる神の愛で包み込まれているのです。