「キリストの軛を負いなさい」
聖書 マタイによる福音書 11:25-30、エレミヤ書 6:16
2017年 7月 16日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【慰めと励ましを与える主イエスの言葉】
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
イエス様が語ったこの言葉に、これまで、
多くの信仰者たちは慰めと励ましを受けてきました。
そして、きっと、ここにいる皆さんもまた、日々の生活を送る中で、
イエス様のこの言葉から多くの慰めや励ましを
与えられてきたことだと思います。
身体や心の疲れを感じるとき、
人との関係の中で傷を負い、悲しむとき、
また、自分ではどうしようも出来ない困難を前にして、
頭を抱え、疲れ果てているとき。
そのようなときに、イエス様は
いつも私たちに語りかけてくださっているのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
【神は、幼子のような者にご自身を顕す】
でも、イエス様が語られたこの言葉の前後を見てみると、
「なぜイエス様は、ここでこの言葉を語ったのだろうか?」
という疑問が湧いてきます。
イエス様は、きょうの言葉を、
25節に記されている言葉を語ることから始めました。
天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました。(マタイ11:25)
イエス様はここで、
ご自分がこれまで起こした奇跡のことについて語っています。
イエス様はガリラヤ地方をまわって、病気に苦しむ人々の病を癒し、
目の見えない人の目を見えるようにさせ、
悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い払い、
死んだ人をよみがえらせるなどの驚くべき業を行いました。
これら、イエス様の起こした奇跡のすべてを、
イエス様は、自分が神の子であることを
証明するために行ったわけではありません。
今苦しんでいる者、悩んでいる者、置かれている状況に疲れている者に、
神の愛や憐れみを明らかにするために、
イエス様は、このような驚くべき業を行ったのです。
でも、イエス様はすべての人から、
いつも歓迎されていたわけではありません。
イエス様が行なう業を見たある人たちは、イエス様を拒絶し、
またある人たちは、イエス様に従う弟子となったように、
その反応は、真っ二つに分かれていました。
イエス様によれば、イエス様を拒絶した人々とは、
「知恵ある者や賢い者」と呼ばれている人たちでした。
彼らがイエス様を拒絶したため、
イエス様によって明らかにされた神の愛や憐れみは、
彼らに隠されてしまいました。
そして反対に、イエス様の行った奇跡を見たとき、
子どものように、素直にイエス様を受け入れる人たちに、
神はご自分を現し、愛と憐れみを示してくださいました。
イエス様を拒絶する人たちは多くいましたが、
それでも、イエス様を受け入れる人たちはいました。
そして、彼らに対して、神が働きかけてくださっていることを覚えて、
イエス様は神をほめたたえたのです。
【疲れる人々の姿】
ところで、ここで「知恵ある者や賢い者」と言われている人たちは、
律法学者という立場の人たちのことです。
彼らは、神の言葉である律法を研究し、それを解釈し、
人々に教えていた、ユダヤの指導者でした。
神に従って生きるために、
神に与えられた律法をどのように守れば良いのかを、
彼らはいつも真剣に考え、 議論し合っていました。
それは、その時代に生きる、
ユダヤの人々にとって大きな課題だったからです。
そんな彼らがイエス様から強い批判を受けたのは、
「律法を守る」という彼らの要求が、人々にとって重荷となり、
多くの人々を苦しめていた現実があったからでした。
たとえ、律法学者たちの言葉を快く受け入れていたとしても、
律法を前にするとき、律法を守りきれない、
神に従いきれない自分の姿に気づき、落胆するばかりでした。
努力すればするほど、自分の理想から遠のいていく。
神に従って歩みたいと願っているのにも関わらず、
神に背いてしまう自分の罪深い現実と出会う。
ユダヤの人々にとって、律法は重荷となり、
そこに安らぎはありませんでした。
もちろん、律法は神から与えられたものですから、本来は良いものです。
しかし、それを用いて、神に従おうとする私たち人間の側に問題がありました。
私たち人間の罪が、
律法を正しく用いられなくさせてしまっているという問題です。
使徒パウロは、この問題について、「ローマの信徒への手紙」の中で、
このように書いています。
わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。
しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをするからです。(ローマ7:14-15)
パウロが語るように、律法は良いものであるのにも関わらず、
人は誰もが罪のために、自分が望むことではなく、
自分が憎んでいることをしてしまう現実に置かれています。
パウロは言います、「わたしは、自分のしていることが分からない」と。
このような私たち人間を取り巻く罪の現実を、
イエス様はいつもご覧になっていました。
そして、律法と向き合う中で様々な形で苦しむ人々を、
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者」と呼び、
ご自分のもとに招かれたのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
【主イエスが与える軛】
イエス様はこう語られた直後に、「わたしの軛を負い、
わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。
「軛」とは、牛に牛車や荷物などを引かせるためにつける道具です。
軛をつけた家畜の助けによって、人々は重い荷物を運び、
また農耕作業を行なっていました。
しかし、もしもその軛が身体にあわないならば、
重い荷物はますます重く感じ、
身体を傷つけ、痛めつけることになります。
イエス様は、律法が与える「重い軛」によって、
人々が苦しみ、傷つき、疲れ果てている姿をご覧になったのです。
だから、「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招き、
ご自分のもとに集まるすべての人々に「わたしの軛を負いなさい」
と語り、新しい軛をかけてくださったのです。
ユダヤの人々が律法の軛を負っていたように、
私たち人間は、生きる限り、いつも何らかの軛を負わされ、
何かに支配され、服従し、荷物を背負って生きています。
それは、自分の理想という名の軛かもしれませんし、
親や先生の期待という名の軛かもしれません。
自分の置かれている立場や状況が、軛となっていることもあります。
イエス様は私たちが負うこれらの古い軛を、
私たちのもとから取り去り、私たちに新しい軛を与えることを通して、
私たち人間が、本来あるべき姿を
取り戻すことが出来るようにと願っておられます。
これまで私たちが負ってきた軛が、
私たちの身体に合わず、かえってその身を痛めつけ、傷つけ、
大きな負担を与えるものだから、
「キリストの軛」という、私たちにピッタリな軛を、
イエス様は与えてくださったのです。
それは私たちが日々、いつも背負う荷物を軽くし、
私たちに平安を与えるものなのです。
【主イエスと共に軛を負って歩む】
ところで、軛というものは、本来、二頭の牛をひとつに繋ぐための道具です。
つまり、私たちは軛を誰かと一緒に負うということです。
その誰かとは、イエス様に他なりません。
イエス様は、私たちに、単に軛を与えてくださったわけではなく、
「私に学びなさい」と語りかけて、
私たち一人ひとりと一緒に、その軛を負ってくださいました。
そうすることによって、イエス様は私たちのすぐ隣で、
どのように軛を負うべきかを教えてくださっているのです。
イエス様は、私たちと同じ軛に繋がれることによって、
私たちと一緒に歩み、委ねられた荷物を一緒に運び、
私たちと一緒に働こうとしてくださっているのです。
本来、私たち自身の力では、律法を完全に守ることなどできません。
そして、神の喜ばれる歩みだって出来ません。
しかし、「私は律法を完成するために来た」(マタイ5:17)
と言われたお方が、私たちと共に軛を負い、
私たちと一緒に歩んでくださいます。
ですから、驚くべきことに、
私たちは神のみ心を行なうことが出来る者とされているのです。
愛する教会の皆さん、あなた方は、キリストの軛を与えられ、
既にキリストと共に結ばれています。
どうか、そのことをいつも忘れないでください。
この世界には、私たちに軛を負わせる力が多く働いていて、
私たちが身につけている「キリストの軛」を取り上げ、
他のものを代わりの軛にしようとしてきます。
実際、この世界が私たちに紹介してくる軛のほうが、
負いやすく、荷物だって軽く、仕事だって楽になりそうに見えます。
しかし、私たちに与えられている「キリストの軛」こそ負いやすく、
私たちの荷を軽くするものです。
イエス様が私たちと一緒に歩み、荷物を負い、
一緒に働いてくださるのですから。
イエス様と共に生きるにこそ、私たちにとっての平安があります。
それは、他の何物でも買うことはできません。
ですから、イエス様のもとに大きな平安を見出しながら、
キリストの軛を負って、イエス様と一緒に歩み続けて行きましょう。