「主イエスこそ私たちの望み」
聖書 マタイによる福音書 12:15-21、イザヤ書 42:1-4
2017年 7月 30日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【一度立ち止まって、イエスを見つめよ】
イエス様が、ユダヤの人々の集う会堂から立ち去られたことから、
今日の物語は始まっています。
イエス様の語る言葉を聞き、その行いを見たファリサイ派の人たちが、
自分に対する殺意や悪意を抱いたことに気づいたから、
イエス様はその場から立ち去ったのかもしれません。
イエス様が出ていくのを見た多くの人々は、
そのようなことなど気付かず、イエス様の後をついて行ったそうです。
いつものように、イエス様は彼らの病を癒しましたが、
このとき不思議なことに、「自分のことを言いふらさないように」と、
人々を戒めるイエス様の姿が描かれています。
噂が独り歩きして、自分についての誤った理解が
人々の間で広まらないようにしたかったのでしょう。
実際、この頃には既に「あの男は悪霊の頭だ」とか、
「この人こそ、私たちユダヤの民を導いて、ユダヤの国を、
ローマ帝国の支配から解放してくださるに違いない」
などといった声が聞こえていたのですから。
イエス様が「自分のことを言いふらさないように」と人々を戒めた、
この出来事の意味を説明するため、マタイはイザヤ書の言葉を引用しました。
マタイはこれまで、旧約聖書に記されている言葉を引用して、
イエス様によってその言葉が実現したと、何度も書いています。
でも、今回の引用は、これまでと違って長めの引用です。
もしイエス様の今回の行動だけを取り上げて、
この出来事は、預言者イザヤを通して語られた言葉の成就である
と伝えようとするならば、もっと短い引用で済んだはずです。
「彼は争わず、叫ばず、
その声を聞く者は大通りにはいない」(マタイ12:19)
とだけ引用すれば、会堂を黙って去って行き、
自分のことを言いふらさないように人々を戒めた、
イエス様の姿がイザヤ書の言葉と重なることがよくわかると思います。
でも、なぜマタイはそのようにはせずに、もっと長い引用をしたのでしょうか。
彼はきっと、イザヤ書からの長い引用を通して、
この福音書を読むすべての人々に促しているのだと思います。
「一度立ち止まって、イエスという方がどのような方であるのか、
しっかりと見つめなさい」と。
これまでマタイは、イエス様についての様々な物語を記してきました。
「マタイによる福音書」を最初から読み進めていくとき、
私たちは、罪の現実から私たちを救うために生まれたイエス様と出会います。
また、イエス様が宣教を開始して、
病を癒し、悪霊を追い払い、 貧しい人々や虐げられている人々に
手を差し伸ばしてきた光景を見つめます。
山上の説教と呼ばれる箇所では、
旧約聖書の言葉に根ざした、素晴らしい教えを、
私たちも当時の人々と同じように耳を傾けました。
このように、様々な角度からイエス様を見つめてきた私たちに、
マタイは「一度立ち止まって欲しい」と勧めているのです。
「あなたは、このイエスという人をどのような人物だと受け止めているのか?
改めて見つめ直してみて欲しい」と、
マタイは私たちに語りかけているのです。
【神の子である主イエス、神の僕である主イエス】
マタイは、イザヤの語った言葉を通して、私たちに語りかけます。
見よ、わたしの選んだ僕。(マタイ12:18)
イザヤの言葉によれば、イエス様は、
神がその計画を果たすために選んだ「しもべ」だそうです。
しかし、マタイがここで使用しているギリシア語に注目してみると、
「しもべ」と訳されている「パイス」という単語には、
「子ども」という意味が含まれていることがわかります。
恐らく、どちらの意味も念頭に置いた上で、
この言葉が用いられたのだと思います。
そうです、イエス様は「神の子」であり、神に選ばれた「僕」なのです。
イエス様は何よりも、神の子として、私たちのもとに来てくださいました。
「わたしの心に適った愛する者」(マタイ12:18)と宣言されているように、
「神の子」であるイエス様は、神と親しい関係にあります。
それと同時に、「神の子」とは、
ユダヤの人々が待ち望んでいた救い主「メシア」を示す言葉でもありました。
ですから、マタイはそのような大きな希望の宣言として、
預言者イザヤの言葉を引用しているのです。
「見よ、この方こそ、神と共にあって、
私たちに救いをもたらす方なのだ」と。
【神の僕である主イエス】
そして、イエス様は神の子であると同時に、
「神の僕」であるというのが、マタイが主張していることです。
神の僕とは、主人である神の意思を忠実に行なう存在であるということです。
神がイエス様を通して行なわれたことについて、
マタイはイザヤの言葉を用いて、このように述べました。
正義を勝利に導くまで、
彼は傷ついた葦を折らず、
くすぶる灯心を消さない。(マタイ12:20)
聖書の時代、葦という植物は、
笛やペン、ものさしとして用いられていました。
しかし、傷ついた葦であったならば、それは使い物になりません。
また、ランプの火を灯すための芯である「灯心」が、
ただ煙を立せるばかりで、火が弱々しかったならば、
これもまた使い物になりません。
イエス様の時代に、「傷ついた葦」や「くすぶる灯心」のような存在として、
人々から見られていたのは、おそらく、
罪人と呼ばれる人たちや病を抱えた人々をはじめ、
社会的に立場が弱い人たちです。
彼らは多くの人びとから、拒絶され、見離されていました。
しかし、イエス様は、決して、そのような人たちを見棄てないのです。
「正義を勝利に導く」その日まで、
「彼は傷ついた葦を折らず、
くすぶる灯心を消さない」と語られているのですから。
では、正義を勝利に導く日とはどのような日なのでしょうか。
正義とは、私たち人間が、
身勝手に振りかざしている正しさのことではありません。
神が私たちに望んでおられること、
神が「良い」「美しい」と宣言してくださる状態を保つこと、
もしも神が望まれている状態が失われているならば、
神が望み、喜ばれる状態が回復すること。
それらのことが実現する日が、神の正義が勝利に導かれる日です。
しかし、イエス様の時代は、
そのような時代ではなかったことは明らかです。
重い皮膚病を抱える人たちは、交わりから追い出され、
罪人と呼ばれる人たちは、忌み嫌われ、人々から拒絶されていたのですから。
その上、私たちが自分の存在を心から喜ぶ日として神が定めた「安息日」は、
いかにそれを守るかに人々の思いが傾き、
かえって人を疲れさせ、失望させる日となっていました。
その時代のあり方、社会のあり方、人々の心や生活のあり方のすべてが
まさに、「傷ついた葦」であり、「くすぶる灯心」だったのです。
しかし、イエス様は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消しません。
イエス様はそのような私たち人間の現実を見て、
私たちのことを不必要なものと考えませんでした。
寧ろ、本来あるべき姿に回復するために、
私たちに救いの手を伸ばし続けてくださいました。
その究極の現れが、十字架の死によって現されました。
私たち人間をどこまでも愛し、決して諦めないという神の思いに、
神の僕としてイエス様が忠実に歩んだその結果が、
十字架へ向かう道のりだったのです。
私たち人間誰もが、自分自身をはじめ、
共に生きる愛する人々、そしてこの世界を、
「傷ついた葦」にしてしまう原因である罪をもって生きています。
イエス様は命をかけて、私たちの罪に立ち向かってくださいました。
神に背き、人を愛さず、人を傷つけ、利用してしまう私たちの罪を赦すために、
イエス様は苦難の道を歩まれたのです。
自分の抱える罪のために、神によって造られた、
本来の良い状態を歪めてしまっている私たちが、
本来の状態を取り戻すために、
イエス様は私たちに愛を示してくださいました。
これこそが、神の僕としてのイエス様の姿なのです。
【主イエスこそ私たちの望み】
このように、イエス様は、神の子でありながら、自分の命をかけて、
私たち人間の救いのために、苦難の道へと歩んでくださいました。
イエス様が受けた傷によって、
私たちの罪という名の傷は、完全に癒やされます。
だから、主イエスにこそ、私たちの望みがあるのです。
「異邦人は彼の名に望みをかける」(マタイ12:21)とある通り、
イエス様によって、すべての人に救いの道が開かれました。
十字架の上で死んだイエス様が、3日目に復活したことを通して、
私たちにも、復活の希望が与えられました。
その意味で、イエス様によって私たちに与えられている救いは、
決して、私たちの心の中の問題だけに留まるものではありません。
神に救いを与えられ者として、この福音を喜ぶ者として、
この地上で、神に望みを置いて生きる道が開かれているのです。
ですから、テモテに宛てて書かれた手紙の中で、パウロは言います。
わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。(Ⅰテモテ4:10)
私たちは、「傷ついた葦」や「くすぶる灯心」である現実と
いつもいつも出会っています。
それは、自分自身の欠けている部分や弱い部分なのかもしれません。
また、人間社会の抱える問題や、人の悪、私たちの罪ともいえるでしょう。
そのようなものとの出会いの中で、誰もが傷つけ、傷つき、
拒絶し、拒絶され、しまいには倒れてしまうこともありますが、
それでも、私たちは、罪の前で完全に屈服し、失望する必要はありません。
罪を赦され、主イエスに救われた者として、私たちは生かされているからです。
だから、「傷ついた葦」や「くすぶる灯心」が
本来の姿を取り戻す日を待ち望み、
私たちが生かされている場所が、
少しでも、神の喜びとなることを願って、
私たちは祈り、労苦し、奮闘するように招かれているのです。
このように、私たちがいつも希望を失わずに歩むことが出来るのは、
私たちが最後まで望みを託すことの出来る方が、
私たちと共にいてくださるからです。
それは、富でも、功績でも、私たちの置かれている立場でもなありません
私たちには、決して揺るがない希望が、
主イエスによって与えられているのです。
だから私たちはこう告白するのです。
「主イエスこそ、私たちの望みです」と。