「キリストのしるし」

「キリストのしるし」

聖書 マタイによる福音書 12:38-45、ヨナ書 2:1-11

2017年 8月 20日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【しるしを求める人々】

しばしば勘違いされることがあるのですが、 

イエス・キリストの「キリスト」とは、 

イエス様の苗字のことではありません。 

つまり、キリスト家のイエスという名前の男がいた、

というわけではないのです。 

イエス様が生きた時代の人々は、

多くの場合、生まれ育った地域や、

家族の名前と結びつけられて名前を呼ばれていました。 

ですから、イエス様は「ナザレのイエス」や「ヨセフの子であるイエス」

といったように、人々から呼ばれていました。

それでは、家族の名前や民族の名前ではないならば、

「キリスト」とはどういう意味で用いられたのでしょうか。

キリストは、救い主メシアを意味する「称号」です。

ですから、イエス・キリストとは、 

「イエスは救い主キリストである」という、信仰を告白する言葉です。 

でも、イエス様は、初めから救い主として、キリストとして、 

ユダヤの人々の間で受け入れられたわけではありません。 

ただ、イエス様の言葉を聞き、 

病の癒しや悪霊を追い払うといった、 

イエス様のなさる様々な行いを見たとき、 

人々は口々に噂するようになりました。

「もしかしたら、この人がキリストかもしれない」と。

この噂はユダヤの人々の間で、 

徐々に期待となって現れてきました。 

でも、だからと言って、 

「このイエスという男がキリストである」という確証など、 

誰も持つことは出来ませんでした。 

だからこそ、本人に聞いて、はっきりさせたかったのでしょう。 

「先生、しるしを見せてください」(マタイ12:38)と、

律法学者とファリサイ派の人々のうちの何人かが、

イエス様にお願いしたと、マタイは報告しています。

「もしも、あなたがキリストであるならば、 

そのしるしを見せることは可能でしょう? 

だから、あなたがキリストであるしるしを私たちに見せてください」。 

確かに、このようなお願いをしたくなるのはよくわかります。 

信じるために、確かなしるし、確かな証拠がほしいのです。 

そのようなしるしがなければ、信じられない。 

まるで、私たちの心の思いを代弁しているかのようです。 

 

【「ヨナのしるし」とは?】

このように、しるしを求める律法学者やファリサイ派の人たちに、

イエス様は「よこしまで神に背いた時代の者たちは

しるしを欲しがる」(マタイ12:39)と、厳しい言葉を語りました。

新改訳聖書はこの箇所を

「悪い、 姦淫の時代はしるしを求めています」と訳しています。

姦淫とは、夫婦関係があるに、それを無視して、

不倫を行なうことを意味しています。

旧約聖書の時代から、イスラエルの民と神の関係は夫婦関係にたとえられ、

人々が神に背き、他の神々を礼拝することは、姦淫と呼ばれていました。

でも、しるしを求めた人々は、「悪い、姦淫の時代」と言われるほど、

酷い信仰者だったのでしょうか? 

少なくとも、このお願いをイエス様にした

ファリサイ派の人々や律法学者たちは違いました。

彼らは、心から神を愛し、神に仕え、

どうすれば神を信じる者として、神の命令を守り行なうことが出来るかを、

いつも真剣に考えていた人たちでした。

それにも関わらず、なぜ彼らは、

「悪い、姦淫の時代」とまで言われなければならないのでしょうか。

その理由について、イエス様は「預言者ヨナのしるしのほかには、

しるしは与えられない」(マタイ12:39)と言われました。

つまり、イエス様によれば、ヨナのしるしが与えられているにも関わらず、

彼らは必要以上にしるしを求めているというのです。

それでは、「ヨナのしるし」とは、一体何のことなのでしょうか。

ヨナとは、旧約聖書の「ヨナ書」という書簡に登場する預言者のことです。 

彼は、神にニネベの町へ行くように命じられたにもかかわらず、 

神の命令に背き、船に乗って逃げようとしました。 

しかし、彼の乗った船は嵐に遭い、最終的にヨナは海の中へ投げ込まれ、 

神が用意された大きな魚に飲み込まれることになりました。 

イエス様が言う「ヨナのしるし」とは、 

この時、ヨナが魚のお腹の中に三日三晩いたことです。 

これが一体なぜ「しるし」なのでしょうか。 

その場で聞いていた人々にとって、

ヨナの出来事は、イエス様がキリストであることのしるしとも思えませんし、 

何よりも、イエス様とは全く関係のないことに思えてならなかったでしょう。

しかし、イエス様は「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、 

人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:40) と語り、

「ヨナの出来事は、私の身にこれから起こる出来事を 

あらかじめ示すしるしなのだ」と言うのです。

海に投げ込まれ、魚の腹の中に入れられたヨナにとって、 

その状態は、まさに死に等しい状態でした。 

それと同じように、イエス様も大地の中にいることになる。 

大地の中とは、死者の世界のことを指しています。 

つまり、イエス様は死ぬことになる。 

しかし、その死には、「三日三晩」という時間の制限が付けられています。 

ヨナが魚から吐き出されたように、 

イエス様も死を打ち破り、復活されました。

ですので、ヨナの出来事は、

イエス様の死と復活の出来事を指し示しているのです。 

イエス様の死は、私たちに罪の赦しを与え、

イエス様の復活は、私たちに復活の生命を与えるためになされたものです。 

まさに、イエス様の死と復活こそ、 

イエス様が救い主キリストであることの確かなしるしなのです。 

だから、イエス様のことをあらかじめ指し示していた、 

「ヨナのしるし」の他にしるしはないと、イエス様は言われたのです。 

しかし、この当時、イエス様の言葉を聞いた人々には、

イエス様の言葉の意味を理解することはできなかったと思います。

イエス様が十字架の上で死に、復活する前のことだったのですから。

それならば、イエス様がキリストであるしるしを人々が求めるのも、

ある意味では仕方のないことのように思えてきます。

それにもかかわらず、イエス様が彼らに対して厳しい言葉を語ったのは、

一体なぜだったのでしょうか。

 

【主イエスの言葉と知恵】 

その理由について、イエス様はヨナとソロモンの名前を挙げて説明しました。

「ここに、ヨナにまさるものがある」(マタイ12:41) 

「ここに、ソロモンにまさるものがある」(マタイ12:42) と。

イエス様は、「ヨナやソロモンに勝る存在の人物がここにいるではないか。

そう、それは私である」と、ここで言っているわけではありません。

新約聖書が書かれたもともとの言葉であるギリシア語を、 

意味を補いながら訳してみると、

「ここに、ヨナの説教にまさるもの、 

すなわちイエスの説教がある」。 

「ここに、ソロモンの知恵にまさるもの、 

すなわちイエスの知恵がある」と言っていることがわかります。

預言者ヨナがニネベの人々に向けて語った説教は、

ニネベの町に大きな悔い改めをもたらし、

多くの人々が神のもとに立ち返りました。

しかし、このヨナの説教以上のものをもたらすものは、

イエス様自身の言葉であって、それはここにあるのです。

また、イスラエルの王ソロモンの知恵にまさる知恵が、

イエス様のもとにはあります。 

ソロモンの知恵とは、神から与えられたものです。

イスラエルの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、 

人々の言葉を聞き分ける(列王上3:8)ために、それは与えられました。 

そして、ソロモンの時代、イスラエルの国はこの知恵によって導かれました。 

しかし、このソロモンの知恵以上のものをもたらすものは、

イエス様の知恵であって、それはここにあるのです。

イエス様のもとには、神の知恵があります。 

この世界を造られた神の知恵にまさるものは他にはありません。

この方によって、私たちの人生は導かれているのです。

そうであるならば、たとえ、その場にいた人々にとって、「ヨナのしるし」が、

明確にイエス様がキリストであると示すものではなかったとしても、

今、目の前にいるイエス様の言葉や知恵を通して、

神の救いのしるしに触れることが出来るのです。

主イエスが、神の救いのしるしを証しする存在として、

目の前で説教を語り、知恵の言葉を伝える。

これに勝るしるしなど、私たちには与えられていません。 

ですから、律法学者やファリサイ派の人々も、

また私たちも、これ以上のしるしを求める必要などないのです。

今や、イエス様は十字架での死と復活によって、

確かな救いのしるしを私たちに示してくださったのですから。

 

【主イエスを心に受け入れる】

このように、私たちには、確かに救いのしるしが、

イエス様を通して与えられています。

でも、それが私たちの日々の生活で、

何の意味を持つのだろうかと感じてしまうことがあります。

これから何処へ向かって行けば良いのかと悩むとき、

将来の確かな保証として「しるし」が欲しくなることがあります。

神がもっと明確に私たちに道を示してくれたら、

遥かに楽なように思えてしまうのです。 

しかし、神は、私たちが何処へ行って、

どのような人生を歩めば正解かとは教えてくれません。

それよりも、私たちに救いのしるしとして与えられたイエス様と、 

私たちがいつも共に歩むように、私たちを招き続けておられます。

イエス様と共に歩むとき、私たちはイエス様の言葉を聞くことが出来ます。

また、イエス様を通して神の知恵によって導きを与えてくださいます。

ですから、重要なのは、何処へ行くかよりも、

今いるこの場所で、神の救いを証しする主イエスの言葉を聞いて、

その言葉に従って歩むことが出来ているか、ということなのです。

イエス様は厳しい警告の言葉を通して、

私たちの人生において、

それがどれほど重要なことであるかを示されました。

イエス様はこのとき、「ある人から追い出された汚れた霊が、

他の悪い霊を連れて戻ってきてしまったため、

汚れた霊を追い出される前よりも、状態が悪くなってしまった」

という話しを人々に語りました(マタイ12:43-45参照)。

なぜ更に悪い状態になってしまうのでしょうか。 

それは、汚れた霊を追い出され、「空き家」になったところを、 

そのままに放っておいたからに他なりません。 

「空き家になっており、掃除をして、整えられ」た場所に、 

私たちは、救い主であるイエス様を迎え入れる必要があります。 

そうしないと、他の悪い霊までやって来て、 

もっと悪い状態になってしまうと、イエス様は強く警告しているのです。 

厳しい言葉ですが、本当に必要なことを

イエス様は教えてくださいました。 

ですから、私たちの心を「空き家」のままにするのでも、

他のものに売り渡すのでもなく、

いつもイエス様を心に受け入れて歩んで行きましょう。

イエス様はあなた方一人ひとりにいつも語りかけておられるのですから。

 

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。

だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、

わたしは中に入ってその者と共に食事をし、

彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)