「それでも種を蒔こう」
聖書 マタイによる福音書 13:18-23、ホセア書 10:12
2017年 9月 17日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【弟子たちはどのように受け止めただろうか?】
種を蒔く人のたとえ話をイエス様が解説するのを聞いたとき、
弟子たちはこの話を一体どのように受け止めたのでしょうか。
ある人はこう思ったことでしょう。
「自分は神の言葉を聞いても、なかなか理解することが出来ないし、
まるでこの話の道端のように、
頑なな心でしか神の言葉を聞けていません」と。
またある人は、石だらけの土地に自分を重ねて聞きます。
「確かに、聖書が開かれて、神の言葉が自分のもとに届くとき、
私はいつも嬉しくなります。
でも、実際は、神の言葉を蔑ろにした日々を送ってばかり。
神の言葉が、自分の行動にも、
生活にも、また人格にも、全く根付きません。
形だけの信仰をもって生きているこの私こそ、石だらけの土地です」と。
中には、茨の繁る土地に自分を重ねる人もいました。
「信仰をもって生きるのはとても大変なんです。
現実には、私の心を悩ませることが多すぎます。
人間関係もそうですし、お金の使い方にだって悩みます。
悩みすぎて、息苦しい思いをしながら毎日過ごしています」と。
でも、ある人は言います。
「そうです、このたとえで描かれている良い土地とは、
まさに私のことです!
神が語ってくださる言葉を喜んで聞いて、
忠実にそれを行っているから、私の毎日は充実しています。
神の言葉は、私の心で、いや人生で、何十倍にも豊かになりました」と。
このように、種蒔きのたとえ話を聞いた人たちが、
「自分はどの土地かな?」と考えながら聞くことが出来るように、
イエス様は4種類の土地に注目して、たとえを解説したように思えます。
しかし、イエス様は、「自分は4種類の土地の中のどれなのか」と、
弟子たちに考えさせたいのではないと思います。
というのも、人間という存在はもっと複雑な存在だからです。
私たち人間が、4種類の存在に分けられるわけがありません。
寧ろ、ここで語られていることのすべてが、
一人の人の中で常に起こり得ることと捉える方が良いと思います。
つまり、足で踏み潰されて固くなった、道端のように、
私たちの心は頑なになり、神の言葉を拒否することもあれば、
岩だらけの土地のように、根が生えない、
表面的な信仰を抱くこともあります。
たとえ信仰を抱いていても、茨の生い茂る土地のように、
現実の悩みや苦しみに押しつぶされそうになるときもあれば、
反対に、聖書を通して神が語り掛けてくださるとき、
その喜びや感謝が100倍、60倍、30倍にも
増え広がることだってあります。
その意味で、このたとえの解説を聴いている人たちが、
「今、神の言葉を聞いている私の心は、
一体どのような状態にあるのだろうか?」と、
自分に問い掛け、自分と神との関係を顧みることを願って、
イエス様は、このような解説を語られたのです。
【何よりもまず、種まく人を見つめよ】
ですから、このたとえを聞く私たちはきっと、
どれかひとつの土地であり続けているのではなく、
様々な土地を同時に抱えている存在なのだと思います。
神の言葉を聞くとき、
いつも自分自身の心や生活、日常の中で、それが花開くならば、
確かにそれはとても喜ばしいことです。
でも、実を結ばなかった3つの土地が示すように、
それが常に出来るわけではないのが、
私たち人間が抱えている現実です。
神に従って生きるよりも、神に背を向けて、
自分で自分の道を切り開き、自分の生きたいように生きる。
それこそが幸せだと感じてしまうのです。
そのような私たちの課題を、
イエス様はたとえを通して教えてくださったのです。
私たちの心はまるで、種蒔きのたとえに出てきた道端のようです。
土が踏み固められて、種を受け入れようとしない道のように、
神の言葉を受け入れず、ただそれが忘れ去られていくことに対して、
私たちは何とも思わないことがあります。
またときに、私たちの心は、岩地のようです。
口では神に向かって感謝を言い表し、喜びを語るのに、
実は、神が自分に語ることなどどうでも良いと思ってしまいます。
言葉と行動、信仰と行いが一貫しないことが、
私たちの日常には溢れています。
その上、日々の生活の思い煩いや富の誘惑の前で、
右往左往してしまうことは、多くの人が経験することだと思います。
私たちの心や毎日の生活、また私たちの全存在において、
神の言葉が花開くのを邪魔するものが、何と多いことでしょうか。
残念ながら、良い土地は少なく、
悪い土地ばかりのように感じてしまうのが、
私たちの抱える現実でしょう。
でも、このたとえを解説するとき、
イエス様は「このたとえは、
神の言葉を受け取る人の話である」などとは言いませんでした。
そうではなく、イエス様はまず初めに、
種を蒔く人に目を向けるように促しました。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」(マタイ13:18)と。
種蒔きのたとえにおいて、種が蒔かれたとき、
多くの土地は種を無駄にしてしまいます。
それなのに、イエス様は土地よりも、
まずは、種を蒔く人を見つめなさい、と語られるのです。
このたとえに出てくる種を蒔く人は、
決して諦めずに、種を蒔き続けています。
効率を重視することもなく、
すべての土地で種が成長し、実を結ぶことを期待して、
種をばら撒いているかのように読めます。
「種を受け取るあなた方の状態が、どのような状態であろうとも、
種を諦めずに蒔き続ける方がいることに、まず目を向けなさい」。
イエス様はそのような意味を込めて、
「種を蒔く人のたとえを聞きなさい」(マタイ13:18)と語ることから、
このたとえの解説を始められたのです。
【それでも、種を蒔こう】
でも、興味深いことに、イエス様はたとえを解説したとき、
「種を蒔く人とは、人の子のことである」とか、
「父なる神が種を蒔かれる」などとは、言いませんでした。
もちろん、私たちの心に信仰を芽生えさせる言葉を語る方は、
父なる神に他なりません。
蒔かれる種が「御国の言葉」と解説されているように、
天の国の現実を語ることは、イエス様がなされたことです。
しかし、それにも関わらず、イエス様は決して、
「種を蒔く人」が誰であるかを語りませんでした。
その上、「種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と言って、
種を蒔く人に目を向けるようにと促し、
たとえの解説を始めたにも関わらず、
イエス様はなぜか、土地の方に目を向けた解説をされました。
一体、なぜなのでしょうか。
その理由は、種を蒔くことは、
父なる神やイエス様だけがすることではないからだと思います。
イエス様を信じ、イエス様に従って生きる、すべての人たちに、
種を蒔く責任は委ねられていることを決して忘れて欲しくないから、
イエス様は、土地の方に目を向けた解説をされたのだと思います。
イエス様は弟子たちに言われます。
「御国の言葉を私から聞いたあなた方は、
御国の言葉を種として持っている。
その種を、この世界に蒔きなさい。
あなた方が出会うすべての人たちに、
この種を蒔き続けなさい」と。
確かに、種が蒔かれたすべての土地で、
多くの収穫が約束されているわけではありません。
イエス様が語られたたとえを聞く限り、
多くの場合は、失敗に終わるように見えるのでしょう。
しかし、種を蒔くという責任を私たちが果たした後、
蒔かれた種が成長するかどうかは、神の側に責任があることです。
聖書に記されている歴史を読む限り、
神は、種が花開くことを決して諦める方ではありません。
神が諦めないのですから、私たちも希望を抱いて、
100倍、60倍、30倍の実を結ぶことを信じて、
諦めずに、種を蒔き続けることが出来るのです。
【私たちにとって、種蒔きとは?】
それでは、私たちにとって、
種蒔きとは具体的にどのようなことなのでしょうか?
時に、それは、神がどのようにして私たちを救ってくださったかを、
大胆に言葉で伝えることかもしれません。
時に、それは、誰も気づくことのない、小さな善いことを、
神の栄光を表すために行なうことかもしれません。
時に、それは、自分が傷つくとわかっていながら、
目の前の人を愛そうと努めることかもしれません。
時に、それは、愛する人の毎日の安全を祈ることかもしれません。
時に、それは、毎日何気なく行っている仕事が、
天の国を作り上げていくものと信じて、誠実に行なうことかもしれません。
もしかしたら、時に、私たちが神から促されてなそうとする、
この種蒔きは、人間的な目で見れば、
愚かな行動に映るものかもしれません。
しかし、私たちは、神が私たちに与えてくださった種が、
どのようなものか知っています。
神が許されるならば、
それは100倍、60倍、30倍もの実を結ぶ力をもっている、と。
ですから私たちは、決して失望することなく、
種蒔きという神に委ねられた仕事を続けることが出来るのです。
神は、預言者ホセアを通して、
今も私たちの種蒔きを励ましておられます。
恵みの業をもたらす種を蒔け
愛の実りを刈り入れよ。
新しい土地を耕せ。
主を求める時が来た。
ついに主が訪れて
恵みの雨を注いでくださるように。(ホセア10:12)
私たちは、いつもこの希望を見据えて、
この世界に種を蒔き続けていきましょう。