「キリストとともにあって新しく生きる」(中谷信希 神学生、ナザレン神学校3年)

「キリストとともにあって新しく生きる」

聖書 マルコによる福音書 2:18-22、ホセア書 2:16−22

2017年 9月 24日 礼拝、小岩教会

説教者 中谷信希 神学生(ナザレン神学校3年)

 

イエスさまとその弟子たちは、

洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちと同じように

神を信じていました。

しかし、イエスさまと弟子たちの振る舞いには

彼らとはちがうところがありました。

そのひとつが断食をしないということでした。

当時ユダヤの社会では断食をするということはとても大切で、

宗教的に欠かすことのできないことでした。

神を信じる者が行う、当然するべき行為だったのです。

断食ですので、貧しくて食べたくても食べられない

というのとは違って、食べないことによって神を畏れていたのです。

ファリサイ派は週に二回、月曜日と木曜日に断食していました。

ヨハネの弟子たちのリーダーヨハネは

神のさばきに備えることを勧めていました。

ですから、ヨハネの弟子たちは

悔い改めの行為として断食していました。

それに比べてイエスさまは神の国を宣べ伝えておられたのに、

断食はしていませんでした。

本当に神を信じているのだろうかと思われたことでしょう。

そこで、それを見ていた人々がイエスさまに尋ねました。

 

「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは

断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは

断食しないのですか。」

 

それに対して、イエスさまは答えます。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。

花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」

イエスさまは婚礼の話をして、人々に応えられました。

婚礼は娯楽が数少ない当時では、今以上に特別なものでした。

非日常的な時間で、一週間も続いていました。

その花婿がいる婚礼の席では、お祝いですから

断食をする人などいるはずありません。

イエスさまは断食しない理由をそのようにお答えになったのでした。

花婿とはイエスさま自身のことです。

イエスさまがともにいるというのは婚礼のように特別なことであり、

喜ばしい時間であるというのです。

いままでとは違うことが現実になっているのです。

そこでは、ふだんのままではいられません。

断食しているままでは婚礼の席にはふさわしくないのです。

キリストという花婿がともにいる婚礼の場にいる者は

断食しないというわけです。

イエスさまは「神の国は近づいた」と言って、

神の国の到来を示しました。

イエスさまが神の国が近づいたことのしるしでもあります。

神の国はわたしたちの外から来ます。

この世のものではない神の国が近づいているということにおいては

いままでの態度は改める必要があります。

断食といういままで当たり前に行ってきたことは

イエスさまがともにいるという新しい現実においては場違いです。

イエスさまは弟子たちと共におられたように、

わたしたち教会とともにいてくださいます。

教会こそイエスさまがともにおられることのしるしです。

わたしたちはこの世から招き出され、

新しい生き方に招かれています。

イエスさまはそのような福音を信じること、

キリストを受け入れることについてさらに

二つのたとえを話されました。

 

ひとつは布ぎれの話です。

織りたての布を切り取って、古い服を繕う者などいない。

そうすれば、古い服は修繕されるどころか余計に傷んでしまう。

福音を受け入れて神を信じて従う人はパッチワークのように、

切り貼りされたような部分的なものではありえない

といわれています。

イエスさまが話されたこのたとえ話では、

新しい布で古い服を繕う者はいないと言われています。

もし、そのような人がいるとしたら、

その人は古い服をこれからも着続けるということを

前提にしていることになります。

織りたての新しい布からわざわざ切り取って

古い服に縫い付けるぐらいなら、

その新しい布を使って新しい服を作る方が断然よいです。

織りたての布を福音、古い服をいままでの自分やこの世界とするなら、

キリストの存在や教えから一部を切り取って、

すでにあるものを修繕しようとして

貼りつけてもうまくいかないのです。

古い服にこだわるのではなく、

織りたての布をうまく活用することを考えたいものです。

パウロは手紙の中で書いています。

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)

わたしたちは存在すべてがキリストにあって新しくされました。

古いものは過ぎ去ったのです。

そうして、信じる人はいつでもキリストがともにおられ、

神のものとされています。

ですからわたしたちはいつでも神のものとして生きるのです。

神を賛美し、感謝して生きることです。

わたしたちはこの世に住み着いた者でしたが、

そこから、神の民に呼び出されました。

この世にいても、

この世とは違う価値観、世界観をもって生きる者です。

切って貼ったり、今までのものに付け足したりして、

自分は変わらないというわけにはいきません。

全存在をキリストにかける。

そのような生き方をするようにと言われています。

 

またイエスさまは革袋のたとえを出して語られました。

新しいぶどう酒は当然新しい革袋に入れるものだ。

「古い革袋に入れる人はいない」と。

イエス・キリストの教えや存在を新しいぶどう酒だとすると、

それを古い革袋のような態度で

受け入れることはできないというのです。

革袋はぶどう酒を入れるためにあるものです。

革袋のためにぶどう酒があるのではありません。

それまでのままでよいとは言われず、

キリストにある生き方をするように言われます。

わたしたちもイエスさまを受け入れていくのであれば、

わたしたちの方がそれに合わせて新しい態度で臨むのです。

生き方を変えて神に向き直って生きることです。

それは異なる価値観を信じることでもあります。

今まで価値があると思っていたことを超える価値が

キリストにあることを知るようになります。

キリストご自身という新しいぶどう酒を

この世的な姿勢の古い革袋に入れようとすると、

キリストの福音はこの世的な姿勢でいることをだめにします。

キリストにある生き方はこの世界にあっては、

価値や意味がなく、役に立たない、

ときには不利益をもたらすものです。

キリストを信じたからといって、

お金持ちにはなりませんし、病気がすぐ治るということもないですし、

人間関係が改善することも、成功を収めることも保証されません。

信じればこの世界でうまく生きることができる

というわけではないのです。

むしろ、痛みや苦しみ、困難、試練などにあうことになります。

古い革袋で受け入れようとするとそれらばかりが気になります。

この世的な幸せ、喜びではなく、

新しい革袋で神が与える恵みを喜びとして、

神からの約束を希望とする生き方をするなら、

新しいぶどう酒と新しい革袋のように合うものとなるでしょう。

 

イエスさまはわたしたちと共にいてくださることを示し、

神の国と永遠の命の希望をもち、

神と隣人を愛する新しい生き方へと呼んでおられます。

キリストを信じて生きることは中途半端なことではないのです。

キリストとともに生きていくわたしたちは、

古いあり方から新しい姿勢に変えられていきましょう。

福音とは単なる思想や理念ではなく、

キリストの弟子になれとの呼びかけであり、

新しい世界観を受け入れるようにとの招きなのです。

もし、変わろうとしないなら婚礼で断食するようなものです。

新しい布きれを古い服に繕いつけること、

新しいぶどう酒を古い革袋に入れるのと同じことです。

そうはいっても、

わたしたちはこの世を離れて生きることはできないので、

この世の影響を受けることもあるはずです。

しかし、仲間とともにキリストに導かれていくなら、

新しくなり続け、新しくされ続けます。

キリストと共にあることは喜ばしいことです。

わたしたちはキリストが共にいてくださることを喜んで、

新しい生き方への招きに応えていこうではありませんか。

キリストの恵みがみなさんとともにありますように。