「この世はみな、神の世界」
聖書 マタイによる福音書 13:24-30、イザヤ書 30:18-26
2017年 10月 1日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【麦と毒麦のたとえ】
イエス様は、また新たにたとえを語り始めました。
ある人が良い種を蒔いた畑に、
ある日、人々が眠っている間に毒麦が蒔かれました。
毒麦とは、麦によく似た雑草のことです。
イエス様の話を聞いていた人々の中には、
麦を育てていた人もたくさんいたと思います。
彼らは、この毒麦という名の雑草にいつも悩まされていました。
まだ麦の芽が出たばかりだと、毒麦との区別がつきにくいため、
毒麦を取り除こうと草むしりを始めたとしても、
雑草ではなく、麦を抜いてしまう恐れがあります。
その上、毒麦を正確に見分けて抜くことが出来たとしても、
毒麦の根が麦の根に絡み合って、麦までも抜いてしまう恐れもありました。
もちろん、そのままにしておけば、
穂が出てくる時期には見分けがつくようになります。
でも、それでは毒麦が麦の成長を妨げてしまうのです。
このように当時の人々にとって、麦畑に生えた毒麦は、
彼らの日々の悩みの種でした。
イエス様のたとえ話に登場する、しもべたちも、
当時の人々と同じように、毒麦には悩まされていました。
ある日、主人の麦畑に毒麦が生えていることを発見したとき、
彼らは、主人のもとへ相談に行きます。
「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。
どこから毒麦が入ったのでしょう」(マタイ13:27)。
「そうですか、敵意を抱いた人々の仕業ですか。
私たちは彼らの思い通りにはさせたくありません。
今すぐ、毒麦の除去作業を始めましょう。」
26節によれば、既に麦の穂が実り、
毒麦との見分けがつく段階になっていたことがわかります。
ですから、このしもべたちの提案も、特に問題はないように思えます。
しかし、畑の持ち主である彼らの主人は言いました。
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。
(マタイ13:30)
収穫のときまで、毒麦が残っていても全く問題ない。
だから、どうか良い麦を毒麦のために、無駄にしないようにしてくれ。
そのような思いを込めて、この主人はしもべたちに指示を出したのです。
【良い麦だけど、毒麦だらけ】
私はこれまで、このたとえ話は、
「神に従う人と神に逆らって生きる人が、
それぞれ麦と毒麦にたとえられているが、
麦と毒麦の判別を付けることは私たちの力では出来ない。
しかし、神が私たちすべての人間を裁く日が来る、その時に、
麦と毒麦の違いがすべての人の前に明らかになる」
というようなことが語られていると思っていました。
このようにイエスさまのたとえを読むと、私たちは不安になります。
「自分は麦などではなく、毒麦のような存在なのではないか?」と。
でも、そのように不安を覚える必要はないと思います。
というのも、毒麦を蒔くのは、神の敵とあるからです(マタイ13:25)。
私たちは、神の敵に属する存在ではありません。
神によって、神に愛される子どもとして造られたのが、
私たち人間という存在です。
その意味で、神によって蒔かれた「良い麦」であるにもかかわらず、
身の回りに雑草を植え付けられ、成長を妨げられ、傷ついているのが、
このたとえ話の中に見るべき、私たちの姿です。
そう考えると、なぜこのようなたとえを語られたのかが
わかってくる気がします。
イエス様の生きた時代、
人々の日常は良い物で溢れていたわけではありませんでした。
雑草のようなものが身の回りに多くありました。
それは、盗みや詐欺、嘘の証言や経済的な搾取といったものです。
また、ユダヤの政治にだって不満がありました。
もちろん、このような目立つ雑草ばかりあったのではありません。
なかなか変えられない自分の弱さや欠点。
自分の利益ばかり求めて、打算的に生きようとする心。
愛したいと思っているのに、優しい言葉をかけられず、
簡単に人を傷つけてしまう現実といったように、
良い麦の成長を妨げる毒麦、根深くて取れない雑草は数多くありました。
きっとそれは、今の時代に生きる私たちにも言えることだと思います。
私たちは、確かに神によって造られた、良い麦です。
でも、このたとえを聞いていた人々と変わらず、
私たちの身のまわりは毒麦だらけなのです。
いえ、見えないところでは、根っこが固く絡み合って、
毒麦が離れずにいるのです。
【耐え忍ぶ神】
ですから、このたとえ話に登場するしもべたちの言葉に、
私は強く共感を覚えます。
彼らは主人に尋ねました。
行って、この邪魔な雑草をすべて抜き集めておきましょうか。
(マタイ13:28)
出来るものなら、邪魔な雑草はすべて取り去りたいものです。
自分自身の欠点と思えるものもなくなって欲しいですし、
自分の身の回りの悪い環境や、面倒な事柄は、
すぐに改善して欲しいと願うのが自然なことです。
毒麦など、ひとつもいりません。
きっと、すべての人がそう思うでしょう。
でも、このたとえに登場する、家の主人は言いました。
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。
(マタイ13:30)
私たちは、周りに生えている毒麦によって、不快な思いを抱えています。
麦の成長を妨げられています。
それにも関わらず、神は、収穫の時まで待ちなさいと言われるのです。
「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」(マタイ13:29)と。
自分で周りの雑草を引き抜いては、傷つくばかりなのです。
その上、何が毒麦で、何が麦なのかを見分けることさえ難しいのに、
雑草を引き抜こうとするならば、周りの麦さえも傷つけてしまいます。
そのようなことを神は望んでいません。
いえ、そればかりか、驚くべきことに、
雑草だらけの場所に育っている私たちを見ても、
神は成長を見守り、忍耐し続けておられるのです。
私たちが自分の抱える雑草や毒麦に耐え忍んでいる以上に、
神が私たちに対して忍耐しておられます。
最も良い実を私たちが結ぶために、神は雑草を抜かないのです。
【この世はみな、神の世界】
ところで、このたとえにおいて重要なのは、もともとの言葉では、
麦も毒麦も生えているこの畑が「彼の畑」と記されていることです。
このたとえに登場する主人は、
明らかに、父なる神を意識して語られています。
つまり、神の畑において、麦だけでなく、不必要な雑草も育っているのです。
神は、麦の成長を見守り、雑草があることに忍耐しておられるのです。
神の畑とは、何を示しているのでしょうか?
私たち一人ひとりの心のことでしょうか?
それとも、教会のことでしょうか?
いいえ、きっと、私たちの生きているこの世界のことと見るべきだと思います。
さきほど賛美したように、
私たちの生きるこの世界はみな、神の世界なのです。
たとえ、多くの毒麦があったとしても、この世はみな神の世界です。
どのような悪意と私たちが出会ったとしても、この世界は神の世界です。
でも、私たちの成長のために、神は耐え忍び、
毒麦を引き抜かずにおられることはわかっていても、
神が毒麦を放置される現実に、私たちは失望してしまうことがあります。
「あなたは、この世界のすべてを治めておられるのではないのですか?
主よ、なぜですか?」と問いかけたくなります。
しかし、天において神のみこころが行われるように、
この地において神のみこころが行われるために、
神は、主イエスを私たちのもとに送ってくださいました。
ご自分の独り子を死に引き渡し、
罪の赦しと復活の希望を与えてくださいました。
まさに、主イエスが私たちのもとに来られたことこそ、
私たちの叫び声に対する、神からの答えなのです。
毒麦がある現実を神に対して抗議する私たちに向かって、
神は語り掛けてくださっています。
「私は、あなたを決して見捨てない。
主イエスにあって、私があなたと共にいるのだ」と。
そうです、神がご自分の独り子さえも惜しまずに与えたこの世界は、
神が愛してやまない世界です。
私たちは、そのような場所で、今、生かされているのです。
確かに、今、毒麦は溢れるほどあるかもしれません。
しかし、このたとえを通して、神の約束を語られています。
刈り入れの時、
「まず毒麦を集め、焼くために束にし、
麦の方は集めて倉に入れなさい」と、
刈り取る者に言いつけよう。』(マタイ13:30)
来るべき収穫の日に、この地上に溢れる毒麦を
神が完全に燃やしてくださる。
そして、主にあって、雑草や毒麦を取り除かれた私たちは、
喜び溢れた収穫を行なうことが出来るのです。
たとえ、今は毒麦が多く見えたとしても、
神が造られた良いもので、この世界は溢れています。
驚くべきことに、それらの良いものを管理する責任が、
神から私たちに与えられています。
それは、私たちの日々の働きを通してなされるものです。
また、それは、小さなことかもしれないけど、
人の目には見えないかもしれないけど、
誰かに仕え、この世界を維持・管理することを通してなされるものです。
そして、神が造られたこの世界の素晴らしさや人間の歴史、
社会の成り立ち、文化の多様性、人間のあり方などを学ぶことを通して、
私たちは神の造られた良き世界の現実や、
人間の罪深く、また雑草で生い茂ったこの世界の現実を知ることが出来ます。
学ぶ中で知った喜ぶべきことは、心からそれを喜んで神を賛美しましょう。
また、悲しむべきことは、神のみ心が現されるようにと祈りつつ、
神によって示された働きがあるならば、神を信頼して進み出て行きましょう。
そして、何をするにせよ、最終的には、
主にあって、良い収穫が与えられることを祈り求めましょう。
神は、収穫のときを必ずもたらしてくださると約束してくださっています。
ですから、私たちは、その約束を待ち望みつつ、
今、与えられている良いものを大切に育て、
神の造られたこの世界で、神の栄光を讃えながら歩んで行きましょう。
これこそ、神の世界で生かされていることを知っている、信仰者である、
私たち一人ひとりに与えられている務めだと思うのです。
さあ、キリストの平和を携えて出て行きましょう。
神の造られた世界で、神の栄光を現しなさい。