「天の国についての学者であれ」

「天の国についての学者であれ」

聖書 マタイによる福音書 13:51-52、エゼキエル書 47:1-12

2017年 11月 5日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

【あなた方もまた「天の国の学者」】

これまで天の国についてのたとえ話を話し続けたイエスさまは、

この一連のたとえ話を終えようとして、弟子たちに尋ねました。

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」(マタイ13:51)と。

イエスさまの質問に「分かりました」と答える弟子たちに、

イエスさまは最後にもうひとつ、たとえ話を語られました。

 

天の国のことを学んだ学者は皆、

自分の倉から新しいものと古いものを取り出す

一家の主人に似ている。(マタイ13:52)

 

イエスさまがこれまで語ってきた、

天の国についてのたとえ話を理解出来たという弟子たちに、

イエスさまは「天の国のことを学んだ学者」の話をしています。

イエスさまは弟子たちにこう言っているのです。

「私が語る天の国のたとえを理解したあなたたちは、

天の国についての学者なんだ」と。

でも、ちょっと待ってください。

イエスさまの弟子たちが学者であるはずはありません。

イエスさまの弟子たちは、ふつうの人ばかりでした。

イエスさまの弟子としてよく知られていた、

ペトロやその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネは、

漁師として働いていた、あまり教養のない人たちでした。

また、イエスさまの弟子たちの中には、

徴税人として働いていた人もいました。

お金のことには詳しいかったかもしれませんが、

彼らは当然、学者と呼ばれるほどの人ではありません。

しかし、それにも関わらず、

イエスさまは、天の国のたとえを聞いて、

それを理解した弟子たちのことを「学者」と呼びました。

不思議なことに、天の国についてのたとえは、

教養があるから理解できるわけではありませんでした。

神がその意味を明らかにするときにのみ、

すべての人は、天の国のたとえを理解することができます。

そのため、天の国についての学者となるためには、

私たち自身の力は必要ありません。

ただ、神が明らかにした時にのみ、

私たちは、天の国についてのたとえの意味を理解することが出来るのです。

その意味で、イエスさまと直接会い、

イエスさまから話を聞いていた人たちだけが、

天の国についての学者なのではありません。

イエスさまは、天の国についてのたとえ話を聞き、

その意味を知った人々を皆、天の国についての学者と呼んでいます。

つまり、きょう、この聖書から語れる言葉を通して、

イエスさまのたとえ話を聞くあなた方もまた、

天の国の学者として生きるように招かれているのです。

 

【新しいものと古いものを通して、天の国を知る】

イエスさまは天の国の学者について、

「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す

一家の主人に似ている」と言われました。

新約聖書はもともとギリシア語で記されていますが、

ここで「倉」と訳されているもともとの言葉は、

「宝」という意味を持つ単語が用いられています。

つまり、この聖書において、天の国について知る宝が記されていて、

私たちはここから語られる言葉を通して、

天の国について知ることが出来るというのです。

それでは、倉から取り出される、

新しいものと古いものとは何のことでしょうか?

新しいものとは、イエスさまによって語られた言葉のことです。

天の国のたとえを語るイエスさまの言葉を通して、

天の国は私たちの前に明らかにされました。

そのため、イエスさまを通して語られた天の国は、

新しいものだったのです。

でも、天の国を証言するのは、イエスさまだけではありません。

イエスさまが私たちに天の国を明らかにされたことを通して、

古いものも、天の国について証言していることが明らかになったのです。

つまり、旧約聖書の言葉も、天の国を証言しているのです。

そのひとつの例として、先ほど、旧約聖書から、

預言者エゼキエルの言葉を読みました。

それは、神が、預言者エゼキエルに見せた、

新しい神殿についての幻でした。

エゼキエルによれば、彼がこの幻を見たのは、

エルサレムの神殿が破壊されてから、

14年後のことだったようです(エゼキエル40:1)。

神と出会い、神を礼拝する神殿が破壊され、

悲しみ、失望するエゼキエルに、神は新しい神殿の幻を見せたのです。

この幻において、新しい神殿から流れる川の水が、

徐々に徐々に、水量を増して

東に向かって流れていく様子が描かれています(エゼキエル47:3-4)。

そして、神殿から流れた川は、

驚くべきことを成し遂げることが語られました。

 

これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、

海、すなわち汚れた海に入って行く。

すると、その水はきれいになる。

 川が流れて行く所ではどこでも、

群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。

この水が流れる所では、水がきれいになるからである。

この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。

(エゼキエル47:8-9)

 

神殿から流れる川が、

東の地域へと流れていくのをエゼキエルは見ました。

「東」という方角は、

聖書の舞台において、悪いものがやって来る場所です。

しかし、新しい神殿から東の方へ川が流れていくとき、

「この水が流れる所では、汚れた海の水が、きれいになる。

そして、すべてのものが生き返る」というのです。

それらすべては、神が行われることだと、

エゼキエルの見た幻を通して、神は私たちに語っています。

確かにこの幻は、将来、神が新しい神殿を建ててくださるという希望を

神殿の破壊を経験したイスラエルの民に与えるものでした。

それだけの意味であるならば、

この言葉は、私たちには意味がないものとなってしまいます。

しかし、イエスさまが、天の国を私たちに明らかにされたことを通して、

私たちは、旧約聖書に記されている言葉が、

天の国について、ほのかに指し示していたことを知ることが出来ます。

そうです、天の国は、このようなものです。

神の神殿から、水が流れて行き、

その水は川となり、徐々に、徐々に、水量も、勢いも増していくように、

天の国も、イエスさまを通して明らかになり、

徐々に、徐々に、私たちのもとに近づいて来ます。

そして、神殿から流れてくる水が、汚れた海へと流れていくとき、

水をきれいにし、その海で泳ぐ魚たちを生き返らせるように、

「神の支配」の現れである、天の国は、すべてのものを生かします。

神は、イエスさまを通して、私たちに罪の赦しと、

復活の希望、永遠の命への望みを与えてくださいます。

そうです、主イエスにあって、「すべてのものが生き返る」のです。

このように私たちは、新しいものと古いものを通して、

天の国について知ることが出来るのです。

 

【天の国の学者であれ】

そのため、イエスさまは、私たちに、

「天の国についての学者であれ」といつも招き続けておられます。

それは、私たちが天の国についての理解を深めれば深めるほど、

将来への希望が、神から与えられていることを知ることが出来るからです。

この希望は、私たちにとって大きな慰めです。

主イエスにあって、すべての者が、復活すると約束されているからです。

そうであるならば、先に天に召された愛する方々と、

愛する家族や、きょうだい、そして仲間たちと、

将来、私たちは再び出会うことが出来ます。

その「将来」とは、イエスさまが再び来られる日であると、

イエスさまは語られました。

ですから、私たちはその日が必ず来ると信じています。

私たちより先に天に召された、

神が招いてくださる天の国において、再び出会うことが出来ると。

神の約束は、決して変わることがないからです。

愛する皆さん、イエスさまは、あなた方に、

「天の国についての学者であれ」と招いておられます。

ですから、神が与えてくださっている約束をしっかりと心に刻むために、

天の国についての学者であり続けようではありませんか。

それは、決して難しいことではありません。

イエスさまによって与えられる希望を信じて、

神の恵みを喜んで受け取り、信仰をもって歩むことです。

どうか、慰めに満ちておられる主が、

あなたがたを希望の光で、いつも照らしてくださいますように。