「王権は主のものとなる」
聖書 オバデヤ書 15-21、ヨハネの黙示録 22:6-21
2017年 11月 26日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
オバデヤがこの預言を語ったとき、
ユダヤの人々は、嘆きと悲しみの内にありました。
というのも、自分たちの国である南ユダ王国が、
バビロニア帝国によって攻め込まれた経験をしたからです。
それは、ユダヤの人々にとって、
愛する自分たちの故郷を奪われる出来事でした。
都を壊され、神殿も徹底的に破壊されました。
親しい友人や仲間たち、愛する家族から引き離され、
神が与えてくださった約束の地から追放されて、
見知らぬ地へと連れて行かれていく経験もしました。
神が、自分たちのことを見捨ててしまったかのように感じました。
ですから、彼らにとってこの経験は、「神の怒りの杯」から、
苦難や裁きを飲まされるというような出来事だったのです。
「一体なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか?」と、
バビロニア帝国の人々によって、強制的に連れて行かれた、
見知らぬ地において、ユダヤの人々は考え続けました。
そして、「なぜ、あなたはこのようなことをなさったのか?」と、
神に向かって、問いかけ続けました。
最終的に彼らに与えられた答えは、
自分たちが神に背を向けて歩み続けたから、
自分たちは神の裁きを受けたのだ、ということでした。
旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を読んでいくと、
何度、預言者たちが警告したとしても、
神の前に立ち帰らない人々の姿が描かれていることに気づくでしょう。
そして、このようなイスラエルの人々の姿を代表するかのように、
北王国イスラエルにも、そして南王国ユダにも、
「神の前に悪を行った」と評価される王たちが多くいたのです。
そのため、自分たちが「神の怒りの杯」を飲む必要があったのは、
当然のことだったと、ユダヤの人々は考えるに至りました。
そして、この悲しみと嘆きに溢れる経験を通して、
過去の自分たちの姿を反省し、神に立ち帰って生きようとしたのです。
そんなユダヤの人々を、神は憐れみ、
エルサレムへと連れ戻してくださいました。
彼らは喜びのうちに帰って行きました。
でも、戻ってきたエルサレムには、
どのような光景が広がっていたでしょうか。
崩壊した神殿、廃墟となった町、焼け落ちた城門が、
彼らの目に映ったエルサレムの姿でした。
「これが、神が愛された町の姿なのか?」
「これが、私たちに約束の地として与えた場所の中心地なのか?」
「これが、神の家とたたえられた場所なのか?」
そうです、喜びは束の間でした。
彼らの悲しみと嘆きは続きました。
このような悲しみと嘆きを抱えているユダヤの人々に、
神は預言者オバデヤを通して、語られたのです。
しかし、シオンの山には逃れた者がいて
そこは聖なる所となる。(オバデヤ 17)
神は廃墟を見つめて落胆する人々に、
「あなた方の前には、廃墟が広がっているかもしれない。
しかし、ここは私が特別に選んだ場所なのだ」と、
励ましの言葉を語られました。
そして、それは同時に、エルサレムの回復を見据えた、
希望に溢れる約束の言葉でした。
「今は荒れ果てた廃墟かもしれない。
しかし、私がそこを聖なる所とする」という約束です。
ユダヤの人々にとって、目の前に広がるこの廃墟が現実でしたが、
それでも、オバデヤを通して語られた、神の約束の言葉に、
彼らは希望を与えられたのです。
でも、オバデヤを通して語られた約束は、
エルサレムの回復だけではありませんでした。
19-20節において、神は彼らに驚くべき回復の約束を語り始めます。
彼らは、ネゲブとエサウの山、
シェフェラとペリシテ人の地を所有し、
またエフライムの野とサマリアの野、
ベニヤミンとギレアドを所有する。
捕囚となったイスラエル人の軍団は、
カナン人の地をサレプタまで所有する。
捕囚となった、セファラドにいるエルサレムの人々は、
ネゲブの町々を所有する。 (オバデヤ 19-20)
ここで挙げられている地名の多くは、
イスラエルの国がかつて所有していた場所です。
ネゲブは南王国ユダが滅亡した結果、エドムのものとなりました。
サマリアは北王国イスラエルが滅亡した結果、アッシリアのものとなりました。
エフライムは、バビロニア帝国によって、サマリアに組み入れられ、
最終的には歴史から姿を消してしまいました。
中にはペリシテのように、争いの絶えなかった場所だってあります。
しかし、あなた方は、これらの土地を所有するようになる、
かつて失ってしまった土地を取り戻すことが出来ると、
神はオバデヤを通して、ユダヤの人々に約束されたのです。
これはまるで、ダビデ王の時代のイスラエルを取り戻すかのような、
人々の理想が実現するかのような約束でした。
目の前に広がる廃墟を見る限り、それはあり得ないことでした。
あり得ないことであるにも関わらず、
それは実現すると神は約束されているのです。
この言葉は、廃墟となったエルサレムを見つめて失望する人々に、
大きな慰めと励まし、そして希望を与える言葉となったのです。
将来に希望を抱くようになった人々に向かって、
オバデヤはこのように語り、この預言書を結びます。
王国は、主である神のものとなる。(オバデヤ 20)
このように、イスラエルの領土を回復するという約束の後、
「王国はイスラエルのものとなるわけではない」と、オバデヤは言います。
王国が、最終的にイスラエルのものであるならば、
何度も何度も過去の過ちを繰り返すことでしょう。
また再び、神に背き、自分たちの過ちによって引き起こされる、
悲しみを繰り返し、嘆きの声を上げることになるでしょう。
国を治める王たちが、
いつも正しくイスラエルを導くとも限らないのですから。
だからこそ、オバデヤは、
主なる神こそが、すべてのものを治める、王であると宣言するのです。
ところで、きょうは、「王であるキリストの主日」と言われる日です。
来週から始まるアドベントから、教会の暦では、新しい一年が始まりますが、
教会の暦の最後の日曜日であるこの日に、
教会は、主キリストこそ、
私たちのまことの王であることを祝ってきました。
キリストが私たちの王であることを思う度、
私は、イエス・キリストの生涯を題材として書かれた
「メサイア」という作品の中に含まれている、
「ハレルヤ」という曲の歌詞を思い出します。
新約聖書の黙示録からの引用として、
「王の王、主の主」と歌われています。
日本語聖書ではわかりにくいのですが、
キリストこそ、「あらゆる王たちの中の王、
あらゆる主の中の主」という意味です。
確かに、この世界には、この地上には、たくさんの王たちがいます。
「王」という肩書がついている人たちのことを言っているのではありません。
自らの権力をふるい、人を従える力を持つ人がたくさんいます。
また、たくさんの「主」がいます。
彼らは、私たちの上に立ち、私たちのことを管理しようとします。
良い形で力を用いる人もいれば、
悲しみや不利益、差別や抑圧を生み出す形で、力を振るう人もいます。
ユダヤの人々がバビロニア帝国にされたように、望んでいない形で支配され、
大切な場所を廃墟とされることだってあります。
時には、苦しみが私たちの心を支配し、私たちの主となることもあります。
不安な気持ちを抱えて、恐れに囚われてしまうことだってあります。
そう考えると、私たちはいつも、
様々なものに「王権」を認めて、生きているといえるでしょう。
しかし、あらゆる王たちに勝る王がおられます。
私たちの救い主である、イエス・キリストです。
イエスさまは、恐怖や暴力によってではなく、
神の愛と憐れみによってこの世界を治められるお方です。
そのため、イエスさまは私たちの廃墟に、
私たちの傷ついた場所に訪れてくださいます。
私たちがその場所を見て、悲しみ、嘆き、傷ついているところに、
渇いている者を招き、命の水を「価なしに飲むがよい」と言って、
イエスさまは癒しを与えたいと願っておられます。
そして、イエスさまこそ、この世界に溢れる、
苦しみや悲しみ、嘆きや恐れを、終わらせるお方です。
ですから、私たちはまことの王である
イエスさまをいつも待ち望み続けているのです。
「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)と。
喜ばしいことに、イエスさまは、
「わたしはすぐに来る」と約束してくださっています。
イエスさまが最終的に来られる時は、世の終わりの時です。
しかし、それよりも前に、
イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。
そして、今も変わらずに、目には見えませんが、
イエスさまは私たちのもとに訪れてくださっています。
教会の交わりのただ中に、私たちの王であるイエスさまはおられます。
聖書を通して御言葉を聞くとき、
イエスさまは私たちの心に触れてくださいます。
そして、神が私たち一人ひとりに与えてくださった聖霊を通して、
イエスさまは私たち一人ひとりといつも一緒にいてくださっているのです。
ですから、私たちは、愛と憐れみに満ちておられる、
平和の主であり、私たちの王であるキリストをいつも待ち望みましょう。
「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)と。