「沈黙を賛美へと変える神」
聖書 マラキ書 3:20、ルカによる福音書 1:57-80
2017年 12月 17日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
子どもの誕生。
それはいつの時代も喜ばしいことでした。
特に、長い間子どもが与えられずにいたエリサベトにとって、
高齢になってから子どもが与えられたことは、
どれほど嬉しかったことでしょうか。
また、エリサベトの子どもの誕生は、
彼女や夫のザカリアの親戚、
そして近所の人たちにとっても大きな喜びでした。
このように、周囲が喜びに包まれている中、
エリサベトの夫のザカリアは、一人、沈黙を守っていました。
いいえ、正確に言えば、彼は神から言葉を奪われていました。
その上、彼の周囲にいた人々が、
身振り手振りをしながら彼に接するその様子から、
どうやら、彼は耳も聞こえなくなっていたようです。
この沈黙は、何も、この時に始まったわけではありませんでした。
半年以上も前に、天使ガブリエルが、彼の前に現れて、
エリサベトが子どもを産むと告げたときから、
その言葉を信じきれなかったあのときから、
ザカリアは神によって、言葉を奪われていたのです。
この沈黙は、彼にとって、どのようなものだったのでしょうか。
想像してみましょう。
ザカリアはこの喜ばしい瞬間に、
自分の子どもの声を聴くことが出来ませんでした。
エリサベトや集まってきた親類や近所の人々と一緒に声を上げて、
喜ぶことも出来ませんでした。
喜びが大きければ大きいほど、
彼が味わっていたこの沈黙は、
彼に悲しみや寂しさを突きつけたことでしょう。
喜ぶ一方で、どこか空しい思いを味わっていたことでしょう。
まさに、彼にとって、沈黙は孤独だったと思います。
不必要なものが神から与えられたと感じたと思います。
しかし、子どもが産まれて、子どもに名前を与えるまでの間、
この沈黙はザカリアにとって、神が自分に語られた言葉を
思い起こすための助けとなりました。
彼はおよそ10ヶ月もの間、
沈黙の中で、神の言葉を思い巡らしました。
与えられたこの沈黙の中で、
自分たち夫婦のもとに、子どもが与えられると、
神が約束されたことの意味を彼は考え続けました。
「天使ガブリエルを通して、神が自分に語られたあの言葉は、
一体どのような意味だったのだろうか?」と。
あの日、ガブリエルは、ザカリアに言いました。
生まれてくる子どもは、
「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」。
そして、「準備のできた民」を、来るべき救い主のために用意する、と。
また、エリサベトが親戚のマリアと出会ったときの様子を、
彼はエリサベトを通して知りました。
マリアと出会ったとき、エリサベトのお腹の中の子が踊り、
マリアのお腹の中にいた救い主イエスさまとの出会いを喜びました。
ザカリアは、これらの出来事を知り、沈黙の中で思い巡らす中で、
生まれてくる子どもの与えられている使命を強く意識しました。
「この子は、救い主として産まれてくるマリアの子どもが、
これから進んで行く道を整える働きをすることになるのだ」と。
沈黙の中で神の言葉とゆっくりと時間をかけて向き合ったからこそ、
そのような思いが与えられたのだと思います。
そのため、「その子をヨハネと名付けなさい」(ルカ1:13)
という神の言葉を、ザカリアは真剣に受け止めました。
だから、産まれてきた子どもが、親戚の人たちに
「ザカリア」と名付けられそうになったそのとき、
ザカリアもエリサベトも、神の言葉に従って、人々に答えたのです。
「この子の名はヨハネ」(ルカ1:63)と。
たとえ、自分たちの親類にこのような名前の人がいなかったとしても、
それがとても不自然なことに思えたとしても、
神が自分たちに告げたこの名前こそ、
この子どもに相応しい名前だと彼らは受け止めていました。
ですから、この子どもに「ヨハネ」という名前を付けたことは、
彼らが神の約束に信頼し、神に従って歩むことを
人々の前で表明する証しでした。
そして、このような信仰の告白が、
ザカリアを通して告げられたそのとき、
ザカリアの沈黙は終わりを告げました。
彼の口は開かれ、彼は神を賛美したのです。
そう、ザカリアの沈黙は、喜びの賛美へと変えられたのです。
10ヶ月もの間、言葉を奪われていた彼は、
沈黙の中で教えられた神の計画と、
今、再び言葉を与えられたことに
喜びを抑えきれずにいられなかったのです。
彼の賛美は、彼の心からこみ上げてきて、
神へと向かっていったのです。
そうです、このとき、ザカリアはヨハネの誕生を喜んではいますが、
それ以上に、これまでの出来事を通して明らかになった、
神の計画を喜びたたえているのです。
ルカは、ザカリアが歌った賛美をこのように記しています。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。(ルカ1:76-79)
産まれたばかりの我が子、ヨハネは、
救い主を指し示し、救い主のために道を整える役割をもつが、
それは神の憐れみによって起こるとザカリアは歌います。
その神の憐れみの現れとして、
救い主が与えられることをザカリアは、
この賛美を通して人々に告げました。
その救い主とは、やがてイエスと名付けられることになる、
マリアのお腹の中にいる子どものことです。
ですから、ザカリアはこの時、
イエスさまによってもたらされる救いを歌っているのです。
主イエスは、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」、
自分たちの「歩みを平和の道に導く」と。
これは、決して、ザカリアの思いつきではありません。
ザカリアはこの歌を旧約聖書に基づいて歌っているからです。
つまり、旧約聖書が指し示している救い主こそ、
イエス・キリストなのだと確信をもって表明し、
その方が私たちのもとに来るという喜びを彼は歌っているのです。
このように、ザカリアの賛美全体が、
旧約聖書に基づいて歌われていることから、
ザカリアが歌ったこの賛美は、
彼に沈黙が与えられたからこそ、生まれたのだと思います。
彼は、これまで何度も聞いていた聖書の言葉を通して、
今回の出来事や、神から聞かされた言葉の意味を、
沈黙の中で、時間をかけて思い巡らしたのでしょう。
神の言葉を通して、神と沈黙の中で対話し続けたから、
この時、旧約聖書に基づいた言葉を用いて、
その喜びを表現し、神を賛美することが出来たのだと思います。
沈黙は、私たちの目には不必要なものです。
しかし、その不必要なものにこそ、大きな意味があったことを、
私たちはザカリアの賛美を通して知ることが出来るのです。
そのような経験をしたのは、何も、ザカリアだけではありませんでした。
使徒パウロも、不必要なものが与えられる経験をしました。
彼は、コリントの教会に書いた第二の手紙の中で、
自分にとって不必要なものを「とげ」と表現しています。
それが具体的に何であったのかはわかりませんが、
パウロはそのとげを取り除いて欲しいと、必死に神に祈り求めましたが、
残念なことに、パウロからそのとげは取り除かれませんでした。
しかし、神は、とげに苦しむパウロに言いました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリ12:9)。
パウロはこの経験を通して、とげが与えられたことに、
神の計画、神の願いがあったことを知りました。
取り除いてほしいと必死に願っているこのとげは、
痛みや苦しみを彼にもたらしました。
しかし、パウロが弱さを抱えるところにこそ、
神の恵みが十分に働くことを彼は教えられました。
神の恵みがそれほどまでに大きなものであることを、
不必要だと思える「とげ」が与えられなければ、
パウロは気づくことができなかったのです。
私は、この時にザカリアに与えられた沈黙は、
パウロのとげのようなものだったと思います。
不必要に思える沈黙が与えられたから、
ザカリアの口に、最終的に喜びの賛美が与えられたのですから。
ところで、私たちが日々、
不必要なものと感じているものは何でしょうか。
私たちにとって、「沈黙」や「とげ」とは、
一体どのようなものなのでしょうか。
不必要なもの、意味のないもの、捨て去りたいもの、
忌み嫌うもの、恥じているもの、コンプレックス、
そういうもので私たちの心や日常は
溢れているように感じるかもしれません。
しかし、ザカリアやパウロの経験が私たちに教えてくれます。
「そのような不必要なものを神が与えたことには、意味があるのだ」と。
それらのものを用いて、
神は私たちに十分な恵みを与えてくださっています。
私たちの欠点、惨めな部分、捨て去りたいもの、
意味を感じられず、苦痛でしかないもの、
そのようなものを、神が喜びの泉へと変えようとしてくださっています。
そんなこと、あり得ないと思うかもしれません。
しかし、神にはそれが出来ます。
もしも、私たちが「とげ」と感じているものが、
喜びへと変えられていくならば、
神への喜びの賛美は湧き出てくるに違いありません。
ザカリアに与えた沈黙を賛美へと変えた方に、それは出来ます。
どうか、弱さのうちに恵みを与え、
私たちの沈黙や失望のただ中に、賛美を与えてくださる神に、
希望と信頼を置いて、歩み続けて行くことが出来ますように。