「闇を打ち破る知らせを歌おう」
聖書 ルカによる福音書 2:1-20、イザヤ書 9:1-6
2017年 12月 24日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
主イエスが産まれたあの日、最初のクリスマスの夜に、
町から少し離れた荒れ野で、
数人の羊飼いたちが野宿をしていました。
彼らは、狼に羊の群れが襲われないように、
羊たちを守るため、数時間ごとに交代をしながら、
夜通し、羊の番をしていました。
彼らの多くは、農民でもあったようです。
ただ、彼らは作物を育てるための土地を持てず、
仕事で得られるお金もわずかでした。
そのため、何とか生きていくためのお金を手にするため、
羊をたくさん持っている人たちの羊を世話していたのです。
つまり、ユダヤの社会において、この当時の羊飼いたちは、
社会の底辺にいた、貧しい人たちの一人だったのです。
羊飼いたちは、自分たちの貧しい境遇で苦しんでいただけでなく、
ユダヤの人々からは偏見の目で見られていました。
「ならず者」と呼ばれ、何をしでかすかわからない人たちと、
羊飼いたちは考えられていたようです。
ですから、彼らにとって、
同じ境遇に立たされている仲間たちと一緒に、
人々の住む町を少し離れて、
荒れ野で羊の世話をしている方が、心地よかったと思います。
でも、もちろん、そのような生活に
満足しているわけではありませんでした。
好き好んで、このような生き方をしているわけではありません。
出来ることなら、人々から偏見の目で見られることなく、
町の人々と一緒に過ごしたいと願っていました。
しかし、彼らは、荒れ野に留まるしかなかったのです。
この夜、彼らを覆っていた暗闇は、
まるで、彼らの置かれている境遇を象徴するかのような暗さでした。
そんな彼らに、あの日、最初のクリスマスの日に、
神から遣わされた一人の天使が、彼らのもとに近づいて来ました。
ルカは、そのときの出来事をこのように記しています。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、
彼らは非常に恐れた。(ルカ2:9)
この天使は、どの程度、羊飼いたちに近づいて来たのでしょうか?
私は、「神が遣わした天使」が現れたのですから、
羊飼いたちと天使との距離は、
それなりの距離を保っているのだろうなと、
これまで想像していました。
しかし、どうやらそれは、私の思い違いだったようです。
ここで「近づき」と訳されている言葉は、
新約聖書が記されたもともとの言葉では、
「近くに立つ」という意味のギリシア語が使われています。
羊飼いたちが手を伸ばせば届くほどの距離に、
天使が立っていたと、ルカは書いているのです。
天使が彼らのそばに立ったとき、
神の栄光が、天使と羊飼いの周囲を照らし出しました。
羊飼いたちを取り巻いていた夜の闇は、
神の栄光によって打ち消されました。
彼らは当然、驚きます。
いえ、驚きを通り越して、彼らは恐れました。
旧約聖書の時代から、
「神の顔」を見ると人は死ぬと考えられていました。
そこに神の栄光が現れているからです。
そのため、神の栄光を前にしたとき、
羊飼いたちは恐れを覚えたのです。
彼らは、神の前に立つには、
自分たちは取るに足りない存在だと感じていたからです。
貧しさを抱え、誇ることの出来るものは何もなく、
人々から「ならず者」呼ばわりされ、疎まれている自分たちは、
神の栄光の前に立つことは出来ないと感じていたのです。
しかし、神の栄光に照らされて恐れる彼らに、
天使は「恐れるな」と語り、
「すべての人のために救い主が誕生した」
という知らせを告げました。
神がこの天使を通して彼らに与えたかったのは、 喜びでした。
だから、恐れる必要はなかったのです。
天使は、喜びの知らせをこのように告げました。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。
困難や貧しさを抱え、人々から偏見の目で見られ、
まさに闇に包まれていた彼らのために、
救い主が来たのだと、天使は伝えました。
そう、まさに、「あなたのために、救い主は来たのだ」と。
神は、羊飼いたちが置かれている現状をよく知っていました。
「すべての人のために救い主が来た」と聞いても、
どこか自分たちには関係がないように感じてしまう。
「すべての人」の中に、自分たちが含まれないように感じる。
しかし、「そのように考えてしまうほどに、
今苦しんでいるあなた方のために、
救い主は生まれたのだ」と天使は告げ、
救い主の誕生を祝って、他の天使たちと共に歌い始めたのです。
いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)
天使が告げた言葉を聞いた彼らは、救い主を探し始めます。
ベツレヘムの町中を探し回って、
ようやく、救い主として産まれてきた幼子と出会ったとき、
羊飼いたちは、天使が告げた言葉の意味を知りました。
幼子イエスは、王宮で産まれたわけではありませんでした。
産まれてきた赤ちゃんには、
ふさわしくない場所に寝かされていました。
そして、宿屋に泊まる場所がなく、居場所がなかった、
この夫婦のもとに、救い主が産まれたことを彼らは知りました。
そう、羊飼いたちも居場所がありませんでした。
そんな自分たちのために、
救い主がやって来たことを彼らは知りました。
帰り道、彼らの心に、天使の大群が歌った讃美歌が、
また再び聞こえてきました。
いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)
この救い主を通して、地には平和が訪れる。
羊飼いたちの日常にとって、
平和とは、とても非現実的な言葉でした。
しかし、神は彼らに約束しました。
「この幼子を通して、平和が訪れるのだ」と。
彼らはそれを信じ、喜びました。
そして、彼らはその喜びを歌い始めた。
このときから、羊飼いたちが抱えていた闇を、
喜びの賛美が打ち破り始めたのです。
クリスマスは、この物語に登場した、
数人の羊飼いのための出来事ではありません。
というのも、私たちもまた、
平和を感じられずにいることがあるからです。
この一年を振り返るだけでも、
この世界に争いがたくさん起こりました。
人々の不満が溢れる形で、国が揺れ動きました。
テロやミサイル、銃乱射など、
私たちの心に恐怖を与える出来事はたくさん起こりました。
人の悲しみや苦しみが、
なかなか目に見える形で現れなくなり、
インターネットを通して見えない形で現れ、
悪意のある人に利用される現実を知り、
私たちは人が抱える闇の深さに悲しみました。
子育てや介護で孤独を味わす人たちも、
死を前にして、嘆く人も、たくさんいます。
私たちもまた、平和を感じられずにいるのです。
そのような私たちに、神が遣わした天使は、
私たちのすぐそばに立って、私たちに告げるのです。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。
救い主イエスさまは、単に、
心の平安を私たちに与えるために来たのではありません。
「地に平和」を与えるために来ました。
お互いに傷つけ合ってしまい、
人を憎み、赦すことができない私たちに、
平和を与えるために来てくださったのです。
私たちのもとに平和をもたらすために、
神が取られた方法は、驚くべき方法でした。
それは、何の罪もないのに、
神の子である救い主イエスさまが十字架にかかることでした。
イエスさまは、人を愛することができない私たちを、
その命をかけて、愛してくださいました。
十字架にかかり、私たちのすべての過ち、
すべての罪を赦すことを通して、
イエスさまは、 相手を徹底的に赦すことを、
私たちに教えてくださいました。
弱い者、苦しむ者に手を差し伸べることを通して、
イエスさまは、人を憐れむことを私たちに教えてくださいました。
神は、私たちが、イエスさまと出会うことを通して、
私たちを変えてくださいます。
争いを生み出すものから、
平和を祈り、平和をつくる者へと、
神が私たちを造り変えてくださるのです。
イエスさまは、私たちを愛し、
私たちを赦してくださったことを通して、
私たちに人を愛し、赦すことを教えてくださいました。
だからこそ、イエスさまに愛されたから、
私たちは人を愛することができるのです。
イエスさまに赦されたから、
私たちは争いを生み出し、平和を壊す者ではなく、
平和をつくる者として生きることができるのです。
それは、神の子であるイエスさまが、
十字架にかかって死ぬことを通して完成する平和でした。
クリスマスは、私たちに救いを与えるため、
そして平和を与えるために、
神が踏み出した、始まりの一歩でした。
ですから、このクリスマスの物語は、
私たちが抱える闇を打ち破り、平和の訪れを告げる物語なのです。
暗闇の中、沈黙を保つ日々は、もう終わりを告げました。
この喜びを一緒に歌うのが、クリスマスです。
神は、私たちが抱える闇の中に光を与え、
私たちが沈黙する場所に喜びの歌声を与えることが出来ます。
闇の中で、自分たちの置かれている境遇を、
完全に諦めていた羊飼いに、喜びの歌声を与えたように、
神は私たちに喜びの歌声を与えることの出来る方です。
そのことを信じて、私たちも天使たちと共に、
そして、羊飼いたちと共に、私たちが抱える闇を打ち破る、
喜びに溢れるこの救いの知らせを歌い続けましょう。