「誰のためのもの?」
マタイによる福音書 13:31-33、エレミヤ書 9:22-23
2017年 10月 8日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【主イエスが語った「天の国」とは?】
このたとえ話しを通して、
イエスさまは一体、何を語りたかったのでしょうか。
イエスさまがここで語っている「天の国」が、
私たちが将来迎え入れられると約束された、
天の御国と同じ意味だと考えて、
このたとえを読むと、意味がよくわからないと思います。
からし種のように小さいにもかかわらず、
天の御国は、天において大きく広がっていく。
パン種のように初めのうちは隠されているが、
時が来ると、驚くほどの力を発揮し、天の御国は、
天において広がり始める。
さっぱり意味がわかりません。
「天」と呼ばれる場所は、初めから神の領域なのですから、
天の御国が、天においてはじめは小さかったり、
時が来たら広がったりするなんてことが果たしてあるのでしょうか?
地上での生涯を全うし、天に召された人が、
一人、また一人と出てくることによって、
神のみもとへと受け入れられる人がどんどん増えていくのだから、
その受け皿である天が広がっていくことを描いているのでしょうか?
決して、そのような意味ではないと思います。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)と、
イエスさまは証言されているのですから、
天の御国が、天において広がっていくという意味を込めて、
イエスさまがこのたとえを語ったとは考えられないと思います。
それならば、「天の国」とは何を意味するのでしょうか。
イエスさまは、「天の国は近づいた」(マタイ4:17)と宣言することから、
ガリラヤの地での宣教をはじめました。
つまり、私たちが天の国に限りなく近づいたと、
イエスさまは言っているのではありません。
そうではなく、天の国の方から、
私たちのもとに限りなく近づいて来たというのです。
天の国とは、もともとの言葉では「神の支配」を意味します。
神の領域である天においては、完全に神の支配はあります。
しかし、この地上、この世界においては、どうでしょうか。
イエス様の時代から、この地上には、
神の支配とは呼べないものの支配が多く広がっていました。
私利私欲で動く権力者をはじめ、
人間の罪や悪こそが、この世界を支配し、
大きな影響を与え続けていました。
それは、今の時代も変わらない現実でしょう。
イエスさまは、このような世界に、神の支配が訪れると宣言されたのです。
つまり、ここで語られている「天の国」を、
そのようなものといて受け止めるのならば、
イエスさまがなぜこのようなたとえを語ったのかがわかります。
私たちに与えられている、天の国、つまり神の支配が、
この地上で増え広がっていくという希望に溢れたたとえとして、
イエスさまはこのたとえを語られたのです。
【神の支配がこの地にも来ますように】
ところで、きょうのたとえ話では、
ふたつの重要なことが語られています。
ひとつは、小さなからし種にも、ほんの僅かなパン種にも、
大きな力が秘められていることです。
からし種は、植物の種の中で最も小さい種というわけではありませんが、
イエス様の時代に生きる人々にとって、
小さなものをたとえるときに好んで用いられるものでした。
からしの種は、直径が0.95mmから1.6mmだそうです。
そのような小さく、簡単に見失ってしまいそうになる種が、
平均1.5mもの高さの木に成長するそうです。
イエスさまがこのたとえを話した地域では、
3mにも達するものがあったそうです。
また、パン種に関してはもっと不思議です。
パン種とは、パンに必要な材料である、小麦粉と水、
そして塩を混ぜた状態のものを、2~3日放置して発酵させたものです。
多くの場合、焼く前のパン生地の一部を保存し、
次のパン作りのために利用したようです。
パン種の不思議なところは、パンを膨らませる原因となるものが、
実際には目に見えないにもかかわらず、
時間を置くとパン種を入れた生地は膨らみ、
それを焼くとふっくらと美味しいパンになることです。
からし種の存在も、パン種の存在も、
それらが小さすぎるあまり、誰も気に留めません。
しかし、それらの働きは大きいものであることを、
このたとえは証言しています。
何よりも、からし種とパン種の中には、
驚くほど大きな力がその中には秘められているのです。
イエスさまは言います。
天の国とは、神の支配とは、そのようなものなのだ、と。
この地上では、神の働きなど取るに足りないように見えるかもしれません。
いや、全く見えない。
誰の目にも留まらないかもしれません。
神がこの世界を造られたことは、
誰の目にも明らかなわけではありませんし、
私たちの人生が神によって導かれていることだって、
誰もが信じていることではありません。
しかし、天の国がこの地上で明らかになるとき、
私たちは圧倒されることになると、イエスさまは告げているのです。
小さな小さな種が、鳥が巣を作れるほどの木に成長ように、
また、パン種がパンを驚くほど膨らますように、
神の支配は、この地上で明らかになるのです。
それはまさに、私たちが礼拝の中で、主の祈りを毎週祈ることによって、
祈り求めていることだと言えるでしょう。
「御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)
そうです、私たちは求めています。
深い悲しみや苦しみの中に、神の支配が訪れることを。
自分の力では抵抗することの出来ない、
試練や逆境の中に、神の支配が訪れ、神が救いの手を伸ばされることを。
私たちは主の祈りを祈り続けることを通して、求め続けているのです。
そのような私たちに、イエスさまは約束してくださっています。
天の国はあなた方のもとに来る。
小さなからし種のように、パン種のように、
あなた方の目には見えないかもしれないが、
時が来ると、必ず、それは明らかになる、と。
【成長した木や、焼き上がったパンは何のためにある?】
このように、今は小さく、人の目にはつかないが、
時が来ると明らかになり、大きな影響を与える、
天の国が、今、私たちには与えられています。
でも、私たちがそれを誇りとするために、
イエスさまはこのたとえを語ったわけではありません。
それが、このたとえ話における、もうひとつの重要なことです。
私たちが目を向けるべきなのは、
種が芽生え、成長した木や、焼き上がったパンは、
何のためにあるのかということです。
種について、イエスさまは、
「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木となる」と語っています。
また、焼き上がったパンは、明らかに、
誰かに食べられることを期待されています。
というのも、このたとえの中で作られているパンは、
およそ40リットルもの量の小麦粉で、
150人分ほどの量になるようです。
当然、一人ではとても食べきれない量です。
これらのことが示しているのは、
成長した木も、焼き上がったパンも、
自分自身のために存在するわけではないということです。
このたとえの中で大きく育った木は、
自分自身を誇るために大きいのではありません。
それは、鳥が巣を作り、
安心して羽を休めることが出来る場所として存在します。
また、パンだって、パン自身のために存在しているわけではありません。
美味しそうな、見栄えの良いパンがあったとしても、
それが食べられなかったら、意味がありません。
パンは、誰かに食べられて、誰かを養うためにあるのですから。
そうです、このたとえは、天の国のたとえです。
つまり、天の国は、自己目的のためにあるわけではないのです。
神の支配を通して与えられたもの、
神によって私たちに与えられたもの、
そのすべては、自分自身だけのためにあるのではなく、
お互いに分かち合い、誰かを養い、生かすものなのです。
【天の国とは、互いに分かち合って生きるところ】
愛する皆さん、私がきょう、
あなた方にしっかりと心に刻んでいただきたいことは、
あなた方には、天の国の種が与えられているということです。
天の国がこの地に訪れていることを知らせ、
この地に天の国の現実を広げていく、からし種は、
小さいけれども、あなた方一人ひとりに与えられています。
神の支配が増え広がっていくパン種は、
目には見えないかもしれませんが、あなた方には与えられています。
神は、あなた方に御言葉を語ることによって、
それらのものを与えてくださいました。
そして、徐々に、徐々に、あなた方の心の中で、
そして毎日の生活の中で、それは確かに花開き、広がっています。
でも、それは、あなた方自身が、
自分の存在を誇るためにあるのではありません。
神から与えられた素晴らしい能力、才能、
知恵、仕事、人間関係、財産、あらゆるすべてのものは、
喜ぶべきものであるけれども、あなた方が誇るべきものではありません。
自分だけのために、それが広がっていくならば、それは虚しいことです。
私たちは神から与えられた良いものを分かち合うように招かれているのです。
神によって増やされたもの、神によって広げられたものを、
互いに分かち合って生きるように、と。
そうやって、天の国はますます広がっていくのです。
教会は、その初めから、お互いに食べ物も財産も分かち合っていました。
自分の持っているものが、何よりも神から与えられていて、
それらのものは、自分だけのものではなく、
誰かを養い、誰かを生かすものであると理解したからです。
私は心から願います。
どうか、そのような生き方が、
私たちの教会にとっても、大きな喜びであり続けますように。
イエスさまは、きょうのたとえを通して、宣言しておられます。
不思議なことに、そこから、神の国はますます広がっていくのだ、と。