「神の知恵は語られた」
聖書 マタイによる福音書 13:34-35、コヘレトの言葉 1:1-11
2017年 10月 15日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
【主イエスはなぜたとえを用いたのか?】
あるときは、結婚式のお祝いの席の話。
あるときは、家を建てる人の話。
またあるときは、種を蒔いた人の話。
というように、イエスさまは、たくさんのたとえ話を人々に語りました。
イエスさまが語るたとえ話は、人々の生活に密着したテーマが選ばれ、
知恵に満ち、ユーモアに溢れ、いつも聞いていて楽しいものでした。
でも、イエスさまの話を聞いていた人々は、
「この人は、一体、何を伝えようとしているのだろう」
「この話にどのような意味が込められているのだろう」と、
いつも頭を悩ませていました。
というのも、イエスさまは、たとえを語られたとき、
多くの場合、その意味を明確には語らなかったからです。
イエスさまの言葉をどのように受け取り、理解するかは、
聴き手である私たち一人ひとりに委ねられていたのです。
時には、たとえをイエスさま自身が解説されたときもありましたが、
それでも、意味がさっぱりわからないことだってありました。
「もっとわかりやすく話してくれれば良いのに、
一体、なぜイエスさまはたとえを用いて語られたのだろう」と、
多くの人は疑問に思い、頭を抱えていたと思います。
「主イエスは、なぜたとえを用いて語り、
そのたとえには、一体どのような意味が込められているのだろうか」と、
この福音書を記したマタイは、真剣に考えたのだと思います。
そしてあるとき、気づきが与えられ、マタイは確信を得たのだと思います。
「そうだ、イエスさまがたとえを用いて語られたこと。
そのことそのものに、大きな意味があるんだ。
キリストがたとえを用いて人々に語ることこそ、
旧約聖書に記されている預言の成就なのだ」と。
もしかしたら、たくさんの人たちから聞いて、
これまで書き留められてきた、イエスさまのたとえ話を
整理して、この福音書に書き記す作業を行っているときに、
マタイはこのような気付きが与えられたのかもしれません。
感動したマタイは、イエスさまの言葉を記録する手を一度止めて、
旧約聖書に記されている言葉を引用して、
自分に与えられたその確信を、私たちに伝えることを選びました。
マタイは、私たちに語り掛けています。
「聞いてください。
イエスさまがたとえを用いて語られた意味が、ようやくわかりました。
ほら、『わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる』って言葉があるでしょ?
そうです、イエスさまがたとえ話を語ったことによって、
この預言が実現したんですよ!」(マタイ13:35参照)
【神の知恵である、主イエス】
マタイは、旧約聖書の詩編78篇の「アサフの詩」
と呼ばれる詩編から引用しています。
「あれ?」と思うかもしれません。
そうです、「詩編」は、信仰者たちの祈りや賛美のことですから、
預言の書ではありません。
それにも関わらず、彼が「預言者を通して」と言うのには理由があります。
マタイが引用した、詩編78篇の表題に記されている「アサフ」という人は、
ダビデがイスラエルの王さまだった時代に、預言をしたと、
「歴代誌」という書物の中で記されています(歴代誌上 25:2 参照)。
そのため、マタイは、「アサフの詩」である詩編78篇を、預言の言葉として、
つまりアサフを通して語られた神の言葉として受け取ったのだと思います。
それでは、この言葉は、イエスさまが語ったたとえの意味を、
どのようなものとして説明しているのでしょうか。
興味深いことに、マタイが引用した言葉は、
詩編に記されている言葉と全く同じではありません。
マタイが引用した言葉は、詩編78:2では、このように記されています。
わたしは口を開いて箴言を
いにしえからの言い伝えを告げよう(詩編78:2)
新約聖書が書かれた言語はギリシア語で、
旧約聖書はヘブライ語ですから、
訳し方に違いが出てくるのは、当然のことです。
でも、その違いに目を向けてみると、面白いことがわかります。
マタイで「たとえ」と訳されている言葉が、
詩編では「箴言」と訳されているのです。
「箴言」とは、知恵の言葉のことです。
つまり、イエスさまは、たとえを用いることを通して、
知恵の言葉を人々に伝えているということがわかります。
イエスさまが語る知恵とは、マタイによれば、
「天地創造の時から隠されていたこと」です。
聖書は、神によってこの世界は造られたと宣言することから始まっています。
しかし、私たちは、神が造られたすべてのものを
完全に知ることは出来ません。
確かに、現代の科学によって、
宇宙や生命の起源が少しずつ解明され、説明がなされていますが、
多くのことは未だに明らかにされていません。
この世界は、神の知恵によって造られたものですから、
私たち人間がすべてを知り、すべてを完全に把握し、
理解することなど出来ないのだと思います。
しかし、それにも関わらず、
神がイエスさまを通して、神の知恵は明らかにされ、
イエスさまは神の知恵を語られました。
それは、驚くべきことです。
当然、私たちは、神の知恵を到底理解することはできません。
でも、そのような私たちが、
何とか神の知恵を理解することが出来るため、
イエスさまは「たとえ」を用いられたのです。
そう考えると、「たとえ」を意味し、
詩編で「箴言」と訳されているヘブライ語が、
もともとは「なぞなぞ」という意味を持つ理由がわかる気がします。
イエスさまがたとえを用いて語られたことは、
天の国や、私たち人間の救いのことを意味しました。
それらは、私たちがまだ触れたことがないもの。
実際には、どのようなものか、
私たちの知恵では理解することが出来ないものです。
それは、まさに、神の知恵なのです。
それを私たちが知り、触れて、実感することが出来るようになるため、
イエスさまはたとえを用いて、なぞなぞを語ることによって、
私たちに神の知恵を明らかにしようとされたのです。
つまり、私たちは、イエスさまを通してのみ、
神の知恵を聞くことが出来るのです。
【神の愚かさ】
確かに、神によって造られたこの世界は、神の知恵に満ちているため、
私たちは、神の知恵にいつも触れています。
先ほど一緒に声を合わせて読んだ、詩編19篇を歌った詩人も、
そのことを高らかに宣言しています。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19:2-5)
でも、聖書を通して、この世界が神によって造られたことについて
耳にしない限り、私たちの目はそのことに対して閉ざされています。
神の知恵に気づくことも出来ません。
また、この世界に満ちる神の知恵に気づいていたとしても、
「コヘレトの言葉」の著者のように、
すべてがむなしく過ぎ去っていくことを実感して、
「すべてが空しい」(コヘレト1:2)と落胆することだってあります。
事実、イエスさまを通して示された神の知恵も、
空しいものに見えることがあります。
いえ、愚かなものにさえ見えることがあります。
というのも、十字架にかかり死んだイエス・キリストの何処に、
神の知恵を見い出せというのでしょうか。
ある人は言います。
それは、救いではなく、神の呪いだ。
十字架にかかり死んだイエスさまが復活したことを聞いたとき、
多くの人は、こう言います。
「なんて愚かなことをお前たちは信じているのだ」と。
イエスさまを通して、神の知恵が明らかにされるどころか、
神の愚かさが示されているように見えるのです。
【神の知恵は語られた】
しかし、神は聖書を通して、証言しています。
「イエス・キリストを通して示されたことこそ、神の知恵なのだ」と。
確かに、神の子であるイエスさまが十字架にかかって死ぬことは、
私たちの目には愚かなことに映るかもしれません。
それの何処に救いがあるのかと感じます。
しかし、イエスさまが十字架にかかることこそ、
神が私たちを救いへと導くために計画されたことでした。
すべての人の罪を背負い、イエスさまが十字架の上で死んだことを通して、
神は、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。
イエスさまが死者の中から復活したことを通して、
私たちは、神によって、死が打ち滅ぼされること、
そして、私たちに新しい命が与えられることを知りました。
それは、今、ここに集う私たちにも与えられている、神の恵みです。
そのことを、キリスト教会は2000年間信じてきました。
これこそ、イエス・キリストを通して、明らかにされた神の知恵です。
イエスさまが、たとえを用いて、最終的に示したかったことです。
確かに、多くの人の目には、愚かなことに映るかもしれません。
しかし、キリストを通して示された神の知恵は、
「空しさ」で終わるものではありません。
使徒パウロは言います。
わたしたちが語るのは、隠されていた、
神秘としての神の知恵であり、
神がわたしたちに栄光を与えるために、
世界の始まる前から定めておられたものです。(Ⅰコリント2:7)
神の知恵によって、私たちに最終的に与えられるものは、
罪の赦しが与えられているという喜びです。
神が、主キリストにあって、
あなたを赦していると宣言されているのですから、
私たちは、自分の罪や欠け、弱さや悩みに失望する必要はないのです。
そして、神は主キリストにあって、
私たちに将来への希望を与えてくださっています。
イエスさまが復活したことを通して、私たちは知りました。
私たちの存在は、死で終わるものではないことを。
神が、天の国において、将来、私たちを受け止めてくださることを。
だから、私たちは死の先に、新しい命があるという希望を、
神から与えられているのです。
これらのことを、イエスさまを通して、
神が明らかにしてくださったのです。
それにしても、神の子が、自分の命を捧げてまで、
私たちに神の知恵を明らかにしたかったのはなぜでしょうか。
その根本的な理由は、神が、あなた方を愛しているからに他なりません。
罪の赦しと復活の希望を与えてくださっている神は、
私たちを心から愛してくださっているから、
イエスさまを通して、語り掛けてくださったのです。
そして、今日も、変わらずに、神の知恵は語られています。
聖書を通して、教会を通して、神によって造られたすべてのものを通して、
神ご自身と、子であるイエス・キリスト、そして聖霊を通して、
神はいつもあなた方に語り掛けておられます。
そして、神は今日もあなた方に語り掛けておられます。
それは、神があなた方を心から愛しておられるからです。
ですから、さぁ、神の声にいつも耳を傾け、神の知恵を聞きなさい。
イエスさまは言います、「耳のある者は聞きなさい」と(マタイ13:9)。