「あなた方が与えなさい」

「あなた方が与えなさい」

マタイによる福音書 14:13-21、列王記 下 4:42-44

2018年 1月 14日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

人里離れた場所へ行ったイエスさまを追いかけて、

多くの人々がイエスさまのもとに集まりました。

そこに集ったのは、成人した男性だけで

およそ5,000人もいたと、マタイは報告しています。

女性と子どもたちも含めれば、

そこには少なくとも2万人はいたことでしょう。

イエスさまはいつものように、集まってきた人々の病を癒やし、

彼らに教えを語られました。

あっという間に、時は過ぎ去り、

いつの間にか日が暮れる頃になってしまいました。

でも、人々はなかなか帰ろうとする気配がありません。

弟子たちとしては、そろそろ夕飯を食べて、ゆっくり休みたいところです。

ですから、彼らはイエスさまに提案しました。

 

「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。

群衆を解散させてください。

そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

(マタイ14:15)

 

弟子たちがこのような判断をするのは当然のことです。

2万人分の食料を用意するなんてこと、急に出来るわけがありませんし、

何よりも、それだけの食料を

手に入れるためのお金だってあるわけありません。

弟子たちは現実に物事を考えて、イエスさまに提案をしました。

でも、イエスさまからは思いがけない答えが返ってきました。

 

「行かせることはない。

あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)

 

このとき、自分たちが無理だと考えていたことを、

弟子たちは、イエスさまから要求されたのです。

弟子たちの手元にあったのは、5つのパンと2匹の魚だけでした。

まさか、この僅かな食料で、

2万人もの人たちを養えるわけがありませんから、

彼らは真っ先に、分担して村へ行き、

出来る限りの食料を集めてくるためには

どうしたら良いのかと計算し始めたことでしょう。

でも、すぐに気づきました。

「そんなのどう頑張ったって無理だ」と。

自分たちの提案通りに事が運ばない理由がわからず、

弟子たちは困り果てたことでしょう。

すると、イエスさまは、弟子たちが持っているパンと魚を指差して、

「それをここに持って来なさい」(マタイ14:18)と言われました。

弟子たちは、イエスさまが言われたとおり、

手元にあるパンと魚をイエスさまのもとへ持って行きました。

すると、何が起きたのでしょうか?

イエスさまが神に祈り、パンを裂いて、

弟子たちに手渡し、弟子たちが人々に配り始めると、

すべての人が満腹になったばかりでなく、

余ったパンを集めると、12の籠にいっぱいになったのです。

この物語は、すべての福音書に記されているため、

イエスさまが起こした奇跡の中でも、

有名な奇跡のひとつとして数えることが出来るでしょう。

でも、この奇跡は、イエスさまが一方的に行った奇跡ではありません。

この物語は、食べる物が何もない群衆に対して、

何もないところから、たくさんの食べ物を生じさせ、

彼らをイエスさまが養ったという話ではないのです。

興味深いことに、イエスさまは、

現実的に考えて、「そんなの無理だ」と諦めていた弟子たちに、

ご自分が起こされる奇跡の業に加わるようにと招き、

「あなた方が与えなさい」と語りかけられたのです。

「あなたは、無理と思うかもしれない。

しかし、あなたの持っているものを用いて、

あなたが彼らに与えなさい」と。

弟子たちは、本当はイエスさまにすべて解決して欲しかったと思います。

イエスさまが、右へ行けと言えば、人々は右へ行くのだから、

「解散」と言って、解散させてしまうのが、

最も良い解決策だと思ったのです。

しかし、イエスさまは「あなた方が与えなさい」と語り、

弟子たちも、この奇跡に加わるようにと招かれたのです。

弟子たちにとって、彼らの手元にあった、

5つのパンと2匹の魚は、2万人という大群衆を前にしたとき、

ほんの僅かな、何の影響も与えることの出来ないものに映ったことでしょう。

そして、置かれているこの状況が、現実的に考えて、

非常に困難な状況であると感じたことでしょう。

しかし、イエスさまは「それをここに持って来なさい」と言って、

弟子たちの持つ僅かなものを祝福し、

その場にいたすべての人々を満腹するために用いてくださったのです。

そうです、私たちが持ち合わせているものを、

神のもとへと持って行くことが大切なのです。

私たちの目には取るに足らない、

僅かなものと思えるものであったとしても、

私たちが神に委ねるならば、神は、私たちの想像を遥かに超えて、

私たちが持つものを用いてくださるのです。

つまり、イエスさまが「あなた方が与えなさい」と言われる時、

それは、今、私たちが持っているすべてのものを

そのまま、誰かに与えなさいということを意味するわけではないのです。

まずは、神のもとに、あなたが持っているものを持って行き、

神の祝福を受け、神から再び受け取り直しなさい。

私たちは、神から再び受け取る時、

自分の持っていたものを誰かに与えることが出来るようになるのです。

そして、そのようにして私たちが与えたその時、

驚くべき結果を神が引き起こしてくださるのだと、

この物語は私たちに語りかけているのです。

まさに、神は、私たちの手を介して、奇跡を行ってくださるのです。

ところで、きょうの物語は、「なぜ僅かなパンと魚であったのに、

12の籠が溢れるほどに増えたのだろうか?」と、

私たちに考え、想像する余地を残していると思います。

ですから、このときの出来事を一緒に想像してみましょう。

弟子たちがイエスさまから食べ物を受け取り、

パンと魚が分けられた籠に入れて、人々に手渡した時、

何が起こったのでしょうか。

きっと、集まった人々の中で、弟子たちと同じように、

自分たちが食べる分の食べ物を持ってきた人たちはいたと思います。

ですから、自分の持っているものを籠の上に置いたのは、

弟子たちだけではなかったのかもしれない。

手渡された籠から、必要なだけのパンを裂いて手に取って、

自分たちが持ってきたパンの一部も置いていく。

そうやって、気づかぬうちに、食べ物が増えていく。

それが、結果的に、2万人もの人々のお腹を満たし、

12の籠がいっぱいになるほどの量にまでなったというように、

想像することは出来るかもしれません。

現実的にものを考えると、

このようなことは起こるはずがありませんでした。

むしろ、神が働きかけて、神の不思議な業によって、

パンを増やす方が、考えようによっては、遥かに簡単なことです。

しかし、弟子たちがイエスさまの命令に従い、

持っているものを差し出したとき、この奇跡は起こったのです。

その場にいる人々が、お互いのことを思い合って、

パンを裂き、手元に残されているパンを籠に置いていく。

そのようにして、神の奇跡は、

その場にいた人々の手を介して、働かれたのです。

きょう、主イエスは、私たちにも「あなた方が与えなさい」と語りかけ、

私たちが持っているものを、

神のもとへと持ってくるようにと、招いておられます。

この招きは同時に、「今、あなた方が持っているものは何か?」という、

神から私たちへの問いかけとも言えるでしょう。

思い返してみると、食べる物、出会うたくさんの人との関係、

これまで培ってきた技術や能力、

学ぶ機会、時間、この地上での生命など、

実に、様々なものを、私たちは神から与えられています。

そんな私たち一人ひとりに、イエスさまは言われます。

「それらすべてを、私のもとに持ってきなさい」と。

そのすべてをイエスさまは祝福し、私たちに再び与えようとしておられます。

そして、再び、神からそれらを受け取り、

私たちが神に用いられていくとき、

弟子たちがそうであったように、

私たちがそれらを誰かのために、

共に生きる人々のために用いようとするとき、

神は私たちのそばで奇跡を起こされるのです。

そうであるならば、神が起こされる奇跡の業に、

私たちも加わり、神と共に歩み続けて行きたいと思わないでしょうか