「愛こそが、いつまでも残りますように」

「愛こそが、いつまでも残りますように」

聖書 サムエル記 上 16:11-13、マルコによる福音書 14:1-11

2018年 2月 18日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

イエスさまを殺そうと計画する人々がいたこと。

そして、イエスさまの弟子の一人であったイスカリオテのユダが、

イエスさまを裏切ろうとしていたこと。

不穏な空気が漂う、このようなふたつの物語に挟まれて、

名も無き一人の女性の行動が描かれています。

正直、この女性の行動には驚かされます。

食事の席についていたイエスさまのもとへ、

彼女は香油の入った石膏の壺を持って入って行き、その壺を割って、

イエスさまの頭に香油を注ぎかけた、というのですから。

でも、食事の際に香油をかけるという行為自体は、

この当時のユダヤの文化では、とても自然なことでした。

寧ろ、この時の彼女の行動が、

その場にいた人々にとって異常に思えたのは、

「ナルドの香油」というとても高価な香油を、

彼女が惜しまずに、すべてイエスさまに注いだことにありました。

香油の入った壺を割った音が聞こえ、

香油の香りが漂ってくる。

これがナルドの香油の香りだと気づいた時、

そこにいた人々は眉をひそめ、彼女を批判し始めました。

人々は口々に彼女に対する批判を言い、

彼女へ向けられた攻撃的な言葉は、家中に響きわたりました。

 

なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。

この香油は三百デナリオン以上に売って、

貧しい人々に施すことができたのに。(マルコ14:4-5)

 

確かに、彼らの批判はもっともです。

彼女がイエスさまに注いだナルドの香油は、

300デナリオン以上の価値がありました。

それは、当時のユダヤの日雇い労働者の一年分の賃金です。

もちろん、毎日の生活だけでも大変でした。

ですから、この香油は彼女にとって、

一年分もの賃金を時間をかけて貯めて、

ようやく手に入れ、手元に置いていた大切な財産でした。

いや、もしかしたら、このナルドの香油は、

彼女だけの力では手に入れられなかったかもしれません。

ある日、両親から手渡されたものだったかもしれません。

彼女がどのようにこの香油を手に入れたにせよ、

この香油が貴重なものであることは、明らかなことです。

しかし、それほど大切なものを手放した彼女の行動の理由には、

その場にいた誰も目を向けようとはしませんでした。

なぜ高価な香油をイエスさまに注ぐのかと、

その意味を真剣に考え、彼女の心に共感し、

彼女の行動を受け止める人はいませんでした。

悲しいことに、この場にいた人々は、

自分の考える正しさを基準にして、

彼女の行動を裁いていたのです。

「これほど高価なものを手放す選択をするならば、

貧しい人々に施すことこそが、信仰的な理由だろう?」と言って、

彼女の行動は、無意味なこと、愚かなことと受け止めたのです。

このように彼女を批判する人々に向かって、

イエスさまは答えて言いました。

 

貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、

したいときに良いことをしてやれる。(マルコ14:7)

 

貧しい人々に施すべきだという、

彼らの主張そのものをイエスさまは否定してはいません。

でも、イエスさまは彼らを遠回しに批判します。

「貧しい人々にいつでも良いことをする機会があるのに、

実際のところ 、彼女を批判しているあなた方自身は、

貧しい人々に、手を差し伸べようとしていないではないか?」

「いつでも、愛を示すことが出来るのに、

愛を示すことを先延ばししているではないか?」

このように、イエスさまは、口では批判の言葉を述べ、

実際には行動を起こそうとしない人々を批判したのです。

そして、その上で、名前も知られていないこの女性が、

自分に香油を注いだことを温かく受け止め、

イエスさまはその理由を語り始めます。

 

しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。(マルコ14:7)

 

イエスさまは、これまで何度か、ご自分の死をほのめかしていました。

しかし、イエスさまが何度そのことを語っても、

弟子たちはイエスさまの言葉を受け止められず、

信じることもできませんでした。

でも、それを何処かで耳にしていたこの女性は、

イエスさまの言葉を本気で受け止めたのだと思います。

イエスさまが死んでしまう理由はわからないけれど、

これから死へと向かって行くイエスさまのために、

何が出来るのか考えて、考えて、考えた末に、

彼女は、イエスさまに高価な香油を注ぐことを決めたのだと思います。

目前にイエスさまの死が迫っているかもしれないと知る時、

イエスさまを愛することを後回しにしたくはありませんでした。

それが彼女の行動の動機だったのだと思います。

ですから、ナルドの香油をイエスさまに注ぐという、

この女性の行動はまさに、

彼女がイエスさまに愛を示すために出来る、

最大限の行いだったのです。

誰かを愛すること。

それは、私たちの生涯の課題です。

私たちは、愛の示し方を間違えて、過ちを犯します。

良かれと思って、 

自分の正しさを押し付けてしまうこともあれば、

誰かを過剰に批判をしてしまうことだってあります。

それが行き過ぎるとき、

批判を受けた人は言葉を失ってしまいます。

そのようなことが起こるとき、

私たちは、目の前の人を愛しているつもりでいながら、

実は、自分のみを愛してしまっているのでしょう。

また時には、忙しさを言い訳にして、

愛することを後回しにしてしまうこともあります。

そうです、私たちの口癖は「いつか、きっと……」です。

「いつか、きっと」と言って、

愛を示すことを先延ばしにして、

気がつけば、その機会を失ってしまう。

そうやって失敗や過ちを何度も繰り返しているから、

私たちにとって、愛することは、生涯における課題なのです。

もしも目の目にいる相手にとって、

本当に必要なことが出来るならば、

誰かのためにする精一杯の行いが、

出来る限りの愛を示す行動になるのならば、

どれほど嬉しいことでしょうか。

でも、私たちはいつも、そして何度も、

愛することができないという現実に直面します。

そのため、何度も、何度も、

愛のない自分に失望してしまうのです。

しかし、感謝すべきことに、

神は、そのようなことを願ってはいません。

人を愛することが出来ない、自分自身の現実を見つめ続けて、

自分自身に失望し、自らの行いに後悔し続けるようになどとは、

神は私たちに対して願ってはいません。

それよりも、イエスさまを見つめるようにと、

神は私たちをいつも招き続けています。

イエスさまは、私たちを愛することを後回しにされませんでした。

むしろ、自分自身の抱える罪や、

人を愛せない現実を抱えて苦しむ私たちのために、

十字架に向かう苦難の道を歩まれたのです。

目の前の人を愛するよりも、自分の利益を優先し、

誰かを憐れみ、助けの手を伸ばすよりも、

利用することを考えてしまう。

そうやって、お互いに対して、

多くの罪や過ちを積み重ねてしまっている、

私たちの抱える、罪の問題を解決するために、

イエスさまは行動されました。

共に生きる誰かに憎しみや妬みを覚え、

目の前にいる誰かを赦せず、愛せずにいるこの私を、

心から人を愛することが出来る者へと造り変えるため、

イエスさまは行動されたのです。

このような愛を、私たちはイエスさまから、

一方的な恵みとして与えられています。

神は、イエスさまの地上での歩みを通して、

私たちに、愛するということがどのようなことかを

教えてくださっているのです。

そうです、私たちは主イエスのあとに従って、

歩むようにと招かれています。

イエスさまの歩みを通して愛を知り、

イエスさまに愛されたように、神と人とを愛する。

これが、私たちのあるべき行動原理なのです。

ところで、ルカとヨハネは、それぞれの福音書において、

香油をイエスさまに注いだこの女性は、

マリアという名前の女性であったと記していますが、

マルコはその名前を明らかにしていません。

きっと、名前も知られていない女性の行いであったことに、

マルコは大きな意味を見出しているのだと思います。

私たちの行いは、本当にちっぽけなものです。

誰の目にも留まらないこともあれば、

時には、批判や攻撃を招くことさえあります。

実際、私たちにとって、誰かを愛すること、

特に、神を愛し、イエスさまに従って生きることは、

無駄なこと、無意味なことと、

周囲の人々の目に映ることがあります。

でも、いつでも忘れずにいたいのは、

主キリストにあって、私たちが行う愛の業は、

イエスさまにとって、美しいものだということです。

感謝すべきことに、神はそのすべてを覚えていてくださいます。

「出来る限りのことをした」と受け止め、喜んでくださるのです。

使徒パウロは「いつまでも残るものは、信仰、希望、そして愛。

その中で最も大いなるものは、愛だ」と語りました。

事実、香油をイエスさまに注いだ女性の、精一杯の愛ある行いは、

福音が伝わるすべての場所において、記念とされています。

そう、きょう、この場所においてもです。

愛のある行動は、たとえその人自身の名前が忘れ去られたとしても、

いつまでも残り続けるものなのです。

そして、何よりも、

神の前で、喜びのうちに記憶されることなのです。

そうであるならば、出来る限り、

愛のある行動を選び取っていきたいと思わないでしょうか。

どうか、あなた方一人ひとりの歩む道を主なる神が導き、

私たちの心をいつも愛で満たしてくださいますように。

そして、怒りや憎しみ、妬みや争いではなく、

主キリストにある愛こそが、私たちの間でいつまでも残りますように。

怒りや妬みに支配され、

憎しみや争いがいつまでも残っているかのように見えるのが、

私たちの生きる世界です。

しかし、そのような場所においてこそ、

私たちは神に信頼し、歩んで行きましょう。

「愛こそが、いつまでも残りますように」と祈りながら。