「赦しを宣言する食卓」

「赦しを宣言する食卓」

聖書 申命記 16:1−8、マルコによる福音書 14:12−26

2018年 2月 25日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

除酵祭、過越祭という、

ユダヤのふたつの大切なお祭りの時期を迎えたとき、

イエスさまは、弟子たちと共に過越の食事をお祝いしました。

このお祭りは、かつてエジプトで奴隷の身分であったイスラエルの民に、

神の救いの手が伸ばされて、

奴隷状態から解放されたことをお祝いするお祭りでした。

ユダヤの人々は、このお祭りを毎年のように守ることを通して、

かつて自分たちの先祖が、神の憐れみによって、

エジプトから救い出されたように、

神の救いの手は、今も自分たちに伸ばされることを確認しました。

ですから、ユダヤの人々にとって、この過越の食事は、

神への感謝を確認し、将来への希望を見つめることの出来る、

喜びに溢れるひと時でした。

しかし、その食事の席において、

イエスさまは突然、弟子たちに向かって、

このようなことを語り始めました。

 

はっきり言っておくが、

あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、

わたしを裏切ろうとしている。(マルコ14:18)

 

イエスさまの言葉を聞いて、弟子たちは驚き、

お互いの顔を見回したことでしょう。

そして、彼らは徐々に不安になってきます。

親しげに一緒に食事をしている仲間の誰かが、

これからイエスさまを裏切ろうとしているなんて……。

いや、それとも、まさか、気づかぬうちに、

自分がイエスさまを裏切ることになるのではないだろうか……。

 

彼らは心を痛め、代わる代わる、イエスさまに質問し始めます。

「イエスさま、まさかわたしのことではないでしょうか」と。

このように弟子たちが驚く様子を想像することが出来ますが、

一方で、マルコ福音書の読者である私たちは、

イエスさまのこの発言に驚くことはありません。

というのも、私たちは、

誰がイエスさまを裏切るかを知っているからです。

きょう開かれた箇所のすぐ直前で、

イエスさまを裏切ろうとしているのは、

弟子のひとりのイスカリオテのユダであることが描かれています。

彼は、イエスさまを殺したいと願っていた祭司長たちに、

イエスさまを引き渡そうと、その時期を見計らっていたのです。

当然、イエスさまは誰が自分を裏切るのかを知っていました。

しかし、イエスさまは、「ユダ、お前のことだ」と言いません。

そうではなく、イエスさまは、

弟子たちに続けてこう言われました。

 

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。

だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。

生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコ14:21)

 

自分のことを裏切ることになるユダは不幸だと、

イエスさまは、ここで結論付けているわけではありません。

というのも、「不幸だ」と訳されている言葉は、

自分を裏切ろうとしているユダの心を知り、

悲しみ、嘆く、イエスさまの心の叫びを表す言葉だからです。

「人の子を裏切るその人のことを思うと、何と悲しいことか!」と、

イエスさまは弟子たちの前で、

心に溢れる悲しみや嘆きを露わにしているのです。

「私を裏切り、私を殺すことに加担してしまう、

私の愛する弟子の一人であるユダが、

これから抱えることになる苦しみや悲しみを思うと、

胸が引き裂かれる思いだ。

もしも、彼がこのような経験をすることがなかったならば、

彼にとってどれほど良かっただろうか。

そうだ、生まれなかった方が、彼のためによかった」。

イエスさまは、ご自分を裏切ろうとするユダに対する憐れみを、

この言葉を通して示しているのです。

でも、この言葉は、

果たしてユダにだけ向けられた言葉だったのでしょうか。

マルコは、裏切る者はユダだと明らかにしないことを通して、

この食事の席にいた弟子たち一人ひとりもまた、

イエスさまを裏切る可能性があった、

いや、実際、ユダとは違う形でイエスさまを裏切った、

ということを伝えているようにも思えます。

確かに、イエスさまを裏切り、

イエスさまを殺そうとしていた人たちに、祭司長たちに、

イエスさまを引き渡したのは、ユダでした。

しかし、他の弟子たちは、イエスさまが逮捕されたとき、

イエスさまを見放して、逃げて行きました。

弟子たちのリーダー格であった、ペトロは、

イエスさまを「知らない」と言い続け、

最終的には、イエスさまを呪う言葉さえ口にしました。

そうです、ユダだけではないのです。

その場にいた弟子たちは皆、イエスさまを裏切ったのです。

ですから、様々な形でイエスさまを裏切ることになる者たちが

この食卓に集っていたと、読むことが出来ると思います。

イエスさまは、そのような食事の席において、

パンを裂き、ぶどう酒の入った杯を弟子たちに与えて、言いました。

「取りなさい。これは、私の体」

「これは、多くの人のために流される

わたしの血、契約の血である」と。

一体どういう意味を込めて、

イエスさまはこう言われたのでしょうか?

「お前たちが私を裏切ったせいで、

私は体を引き裂かれ、血を流す」と

弟子たちに伝えるためだったのでしょうか?

もちろん、決してそのようなことを意味したのではありません。

それは、その場にいる弟子たち一人ひとりに、

十字架の死は、あなたたちのためだと伝えるためでした。

「ちょうどこのパンが裂かれるように、

私の体は、あなた方のために割かれる。

ちょうどこの赤いぶどう酒が注ぎ出されるように、

私の血も、あなた方のために流される」と。

そうです、罪も過ちもなく、誰の目から見ても正しい者たちだけが、

この食事に招かれ、パンとぶどう酒を

イエスさまから受け取ったわけではないのです。

そこは、イエスさまを裏切る者たちが招かれた食事の席でした。

ご自分を裏切る者たち一人ひとりに対して、

イエスさまは、「わたしの体」と言って、パンを割いて渡し、

「わたしの血」「契約の血」といって、杯を手渡されたのです。

このパンとぶどう酒が示す、イエスさまの十字架上での受難は、

すべての人に罪の赦しを与えるために、

神が計画されたことでした。

ということは、イエスさまを裏切る弟子たち一人一人に、

イエスさまがパンと杯を手渡すことを通して、

彼ら一人一人に罪の赦しが宣言されたのです。

特に、彼らに手渡した杯について

イエスさまは「契約の血」と説明しています。

イエスさまの十字架上での死を通して、

すべての人に罪の赦しが与えられたことによって、

神との新しい契約関係を生きる道が開かれました。

私たちの側が何度、裏切ろうとも、

神はあなたを赦し、あなたを愛する。

神は決して、あなたを離れず、どこまでもあなたを諦めない。

この食卓において、その事実をイエスさまは宣言されたのです。

イエスさまを裏切ってしまった弟子たちがこの食卓へと招かれ、

罪の赦しを宣言されたように、

私たち一人一人とまた、この食卓に招かれ続けています。

実際、私たちもまた、弟子たちと同じように、

いや、弟子たち以上に、イエスさまを裏切り続けています。

時には、徹底的に拒絶してしまうことさえあります。

それなのに、私たちは、イエスさまから罪の赦しを受け、

いつもイエスさまのもとに招かれているのです。

教会はイエスさまからのこの招きを真剣に受け止め、

これまで、およそ2000年もの間、

聖餐式を守り続けてきました。

パンと杯を通して、主イエスの十字架と復活を

記念し続けてきました。

そうです、教会において、食卓を囲み、

パンを裂き、杯から飲むたびごとに、

私たちは主イエスを通して与えられている罪の赦しを味わい、

罪赦された者として生きる喜びをこの世界に宣言するのです。

神に赦された者同士がここに集い、

私たちは共に生きるように招かれています。

私たちが裂くパンは、もともとは一つのパンだから、

私たちは主キリストにあって、一つの体です。

だから、お互いに受け入れあって、

生きて行くように招かれています。

そうやって、私たちは神の愛のうちに生かされ、

食卓を共に囲み続けることを通して、

この世界に主キリストにある赦しを宣言し続けるのです。

ところで、イエスさまは、

この過越の食事をこのような言葉で結びました。

 

神の国で新たに飲むその日まで、

ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。

(マルコ14:25)

 

この食卓を通して、イエスさまは、

天の国で行われる喜びの宴を見つめています。

実際、たとえイエスさまが招いた交わりとはいえ、

この地上で私たちにゆるされている交わりは、どこまでも不完全です。

欠けているところや、汚れた部分があります。

受け入れ合うことが難しいときもあれば、

赦し合うことが難しいときもあります。

お互いが抱える違いを乗り越えられないときだってあります。

しかし、感謝すべきことに、

それでも、私たちの歩みは完成へと日々、一歩一歩近づいています。

今は、不完全かもしれません。

しかし、天の国にたどり着くとき、

赦しを宣言する食卓を囲む交わりは、

教会という信仰者の群れは、

神の前で美しく整えられます。

教会を出て行き、私たちが日々遣わされていく場所でさえも、

完成された交わりとされていくのです。

今は悲しみ、落胆するしかない自分たちの現実さえも、

完全な喜びへと変えられていくのです。

天の国において、完成する。

それは、神から私たちに与えられている、大きな希望です。

だからこそ、私たちは今の苦しみや悲しみを前にしても、

天の国における完成に向かって、歩んで行くことが出来るのです。

さぁ、天の国おける完成を待ち望みながら、

裂かれたパンと杯を受け取り続けましょう。