「主は心を見る」
聖書 サムエル記上 16章1節~7節、マタイによる福音書 20章1節~16節
2018年 3月 4日 礼拝、小岩教会
説教者 満山浩之 神学生(ナザレン神学校3年)
さて、今日のイエス様のたとえ話が、まずどのような状況でのお話であったのかを、皆様と一緒に見て行きたいと思います。
この「ぶどう園」と言うのは、聖書にもなじみの深い、言葉です。なぜなら、このイスラエルと言う土地は、大昔からぶどうの名産地でもあるからなのです。そして、このような当時のぶどう園の主人は、日雇い労働者を雇って、働いてもらうことによって、ぶどう園の経営が成り立っていたそうです。このことからみても、貧富の差があったことが、この状況からわかると思います。
さらに、この日雇い労働者と言うのは、実は奴隷よりも生活が不安定で、奴隷よりも貧しい状態であったのです。なぜなら、奴隷はどこかの家の主人の持ち物であるとされますが、日雇い労働者はそのような扱いはされなかったからです。この日雇い労働者は、奴隷よりも安く働いてもらうことができ、病気になった時、面倒を見る心配はないといいます。そして、万が一労働中に死んだ時など、雇い主は、その責任を負う必要はなかったそうです。一方、奴隷は、病気の時も労働中に死んだ時も、雇い主が責任を負うことになっていました。そのような立場である日雇い労働者は、生活が不安定で、毎日生きるので必死な人たちなのです。その日を何とかして働いて生きよう、仕事にありつこう、そう思っている人たちなのです。このような状況が、当時のイスラエルでは日常的によくある話でした。また日雇い労働者は、朝、その日を生きるために、雇ってもらおうと、広場に集まってきます。
イスラエルの人々が労働を始める時間は、朝6時からとなっているので、それよりも前に集まり出して、雇い主たちも日雇い労働者を探しに広場に集まって来るのです。 そしてある家の主人は、最初の日雇い労働者に「1デナリオンで、うちのぶどう園で働かないか」との約束で労働者たちを雇いました。この「1デナリオン」と言う賃金。今の私たちにはなじみがありませんので、当時のデナリオンと言う単位で、当時、何が出来たのか一部を紹介致します。まず、1デナリオンで、10切れ~12切れのパンを買うことが出来ました。3~4デナリオンで、12リットルの小麦または15㌔の小麦パン、または子羊一頭を買うことが出来ました。30デナリオンで、奴隷衣服。100デナリオンで、牛一頭が買えたそうです。ある資料によりますと、当時のイスラエルの人々が1人当たり、1年間に200デナリオンあれば、最低限の生活で暮らしていけると言います。
そして、今度は朝9時に広場へ行き、ある家の主人は「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言い、更に労働者を雇いました。この「ふさわしい」と言う言葉は、「公正な」ですとか、
「公平な」「正当な」と言う意味もありますので、彼らは、「値段に構わずそれなりにもらえるだろう」と思っていたのかもしれません。このように、続いて12時、午後3時と、同じようにしたと記されています。しかし、なぜある家の主人は、何回も日雇い労働者を雇わなければならなかったのか。ぶどう園で人手が必要な時は、春先の雑草を取り除く時、または、ぶどうが熟した後の収穫をする時です。そして、一日に何人もの労働者が必要になっていると言うことは、緊急性を要しているのだと考えられます。ぶどうの収穫期は、9月頃でそのすぐ後には、雨がたくさん降る季節が来てしまいます。ですから、雨が降る時期が来る前に急いで収穫しないといけないのです。私の友人で、山梨でぶどう園を経営している方がいるのですが、話を聞いてみますと、やはりぶどうの収穫時期は、とても忙しく、ぶどうは雨に降られると病気になってしまうので、雨を嫌うそうなのです。せっかく実ったぶどうが、雨に打たれてしまったら、状態が悪くなってきてしまいますから、雇い主は急いで収穫したかったのです。またそれでも労働者が足りなかったのか、午後5時にも日雇い労働者を雇いに来ました。この時、ある家の主人は「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と話しかけます。彼らは「誰も雇ってくれないのです」と答えます。この午後5時まで広場に残っていた人たちは、何らかの理由で雇ってもらえなかったのかもしれません。体が弱かったのか、病気になっていたのか、足が不自由だったのか、老人であったのか、それはわかりません。
しかし、彼らも働きたいので、雇って欲しいのです。そうしないと生活していけないのですから、1時間でも少しでも働きたい。そんな思いがこの、日雇い労働者たちに込められていると思います。ある家の主人は「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と、賃金うんぬんよりも、とにかく働いてもらおうと招きました。最後の労働者たちも、「賃金は主人に委ねて、とにかく働こう」そう思っていたのです。
そして、5つのグループの労働者たちがこのぶどう園で働いていました。朝6時に雇われた労働者たち。朝9時に雇われた労働者たち。12時に雇われた労働者たち。午後3時に雇われた労働者たち。そして、午後5時に雇われた労働者たちの5つのグループです。当時のイスラエルは、朝6時から夜6時までが一日の労働時間とされていて、労働者には未払いをしてはならないと言う律法で定められています。しかもその日のうちに支払わなければいけないと言う義務もあります。そのことが、旧約聖書の申命記にこのように記されています。
「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである」(申命記24:15)と。
ここでぶどう園の主人が、「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と、このぶどう園の監督と呼ばれる管理人に指示しました。最後に来た者から賃金を支払われる、と言うのは、最初に来た者が最後に来た者の賃金を確認できるためなのです。最初に来た者は、1デナリオンの約束で雇われていますから、そのことは頭に入っているはずです。「あいつはいくらもらえるのだろう。俺よりは少ないだろうな」って。
そして、最後に来た者に1デナリオン支払われました。それを見た最初に来た者が「えっ、1時間しか働いていないのに、1デナリオンもらえるの?」と首をかしげて、「だったら、朝から暑い中ずっと働いている俺は、もっともらえるのではないか」と、欲が出てしまい、期待をしてしまっていたと思います。しかし、ぶどう園の主人は、どの労働者にも同じ1デナリオンを与えたのです。そうすると文句が出るのも無理はありません。長く働いたらそれだけの賃金が与えられると思った労働者は、黙ってはいられませんでした。「何でなんだ」と。「労働時間は賃金に考慮してくれないのか」と。
人は、他の人と比べてしまうところがあります。自分が受け取ったものよりも、他の人の受け取ったものに関心が行ってしまいがちです。どうしても、自分が受け取ったものだけを見ようとは出来なくなってしまうのです。そこでぶどう園の主人は「友よ」と呼びかけています。雇い主と雇われている者の関係ではありますが、「友よ」と、上下の関係、権力の違いなどを考えないで、親しい仲間のように呼びかけています。ぶどう園の主人は続けて「あなたに約束通りの賃金をあげたでなはいか。自分の受け取り分を持って帰りなさい。わたしは最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ。わたしの物をわたしの好きなようにすることは許されないのか。それとも、わたしが善意でしていることをねたむのか。」と言います。
今日のたとえ話をよく見てみますと、最初は「ある家の主人」となっていますが、8節からは「ぶどう園の主人」と、呼び方が変わっています。これは8節からが神様が本当に言いたいことが込められているのです。「ぶどう園の主人」に譬えられている神様が、神様に従って歩んでいる者に、「皆に同じように恵みを与えたいのだ。自分の与えられた恵みだけを見て、持ち帰りなさい。人の恵みをねたんだり、嫉妬するのですか?」と注意をしています。最初に労働しに来た者は、やったらやった分だけ賃金がもらえると、途中で考えが変わっていました。「これだけやったから、それだけの報酬があってもいいでしょ」って。しかし、最後に労働しに来た者は、7節後半を見てみますと「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と、それだけを主人に言われています。決して、「1デナリオン支払う」とか、「それにふさわしい賃金を払う」とか言われていないのです。もしかしたら、支払われないかもしれないのに、主人に従ってぶどう園に行きました。見返りなしに労働へ、素直に出掛けて行ったのです。働くことに喜びを持って行ったのです。
私たちの信じる神様は、心をご覧になります。この人の行ないは、「誰かに褒めてもらいたいからやっているのかな。ご褒美があるから、報酬があるから、行っているのかな」。また別の人は「喜びを持って、損得勘定なしに、やっているのかな。」と、自分の報酬とか、自分が褒められるよりも神様が喜ぶ行いをしているのか。先ほど読んで頂いた旧約聖書でも、
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」、と記されてある通りなのです。
このたとえ話は、天の国のたとえです。この地上で生きている行いによって、天の国での過ごし方が変わってくるのです。じゃあ、満山さん。「善い行いをすればするほど、神様の「恵み」が多いのですか。」って声が聞こえて来るかもしれません。答えはノーです。そうではありません。神様は全ての行ないの心をご覧になります。神様に喜んで頂けることを行なっているかどうか。何のために善い行いをするのか。自分のためでしょうか?自分が賞賛を浴びたい、報酬を得たいからでしょうか?そのようなことを神様は求めていません。見返りなしに善い行いをすることを、神様は望んでおられます。この世の中で多くの報酬を受ける人が、天の国では一番低い地位を与えられることもあります。それはその人が、報酬だけを考えて生きているからです。しかし、この世の中で貧しい人が、天の国で偉大となることもあります。それはその人が、神様の喜びのために、行いをしているからです。16節の「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とは、このようなことなのだと思うのです。
神様は、私たちの生まれ持った罪、今日で言う、人と比べてしまい、自分が受けている神様からの恵みより、他の人の恵みをねたんでしまうなどの、様々な罪が赦されるように、私たちをまず先に、愛して下さっています。その愛するがゆえに見返りなしで、神様の大切な独り子である、イエス・キリストをこの世に送って下さり、私たちの罪の身代わりとなって、イエス・キリストは十字架につけられ、死んで下さったのです。そのことによって、私たちの罪は全て赦されているのです。そして、イエス・キリストが復活することによって、イエス・キリストが救い主だと信じる者は皆、この地上の生活だけでなく、天の国でも生きていける、永遠の命が与えられるのです。新約聖書のローマの信徒への手紙にはこのように記されています。
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:22~23)
今日のたとえ話のぶどう園で労働している人たち、つまり、イエス・キリストが私たちの救い主だと信じる者という、ぶどう園に来た労働者が、教会を表わすぶどう園に来た時期は違えど、そこでの行いの心が、神様が見返りなしで私たちを愛して下さっているように出来るかどうかです。神様が見返りなしで私たちを愛して下さっているように、周りの人たちにも愛を持って行えるかどうか。ぶどう園に労働に行く時期が大切なのではなく、ぶどう園で労働する理由が大切なのです。私たちに置き換えてみますと、教会に来た時期が大切なのではなく、教会で神様に仕える動機が大切なのです。その理由、動機を自分自身の報酬のためでなく、神様が喜ぶ行いをして、私たちは今週も歩んで参りたい、そう願います。今週も皆様の上に、神様の豊かな祝福がありますように。